3-5.平穏で順調な日々
遥が高校に復学を果たしてから二週間余り、苦悩と共に幕を開けたその高校生活は、客観的に見ればこれまで極めて平穏で順調だった。
そもそも、勉学という点においては、一年生をやり直している関係上他の生徒達に比べ一定のアドバンテージを有しており、早々に実施された小テストでも、塾通いをしている様な勤勉な生徒にも引けを取らず比較的優秀な成績を収めている。
それから遥が最も不安視していたと言っても過言ではない体育の授業、もっと言えば多数の女生徒達と共に着替えるというシチュエーションについては、実のところ未だ経験せずにここまで来れていた。それと言うのも、遥の未成熟な肉体と未発達な運動能力は高校生レベルの運動には耐えられないと諏訪医師が判断しドクターストップを掛けた為である。この事は遥の高校生活を平穏足らしめているかなり大きな要因だ。
そしてもう一つ、賢治が危惧していた遥を取り巻く異性関係についてだが、これに関しては現状密かに注目されているという程度で特に表面化はしておらず、尚且つ遥本人は相変わらずの無自覚さでその事には全く気付いていない為、これもまた平穏と呼べる範疇に収まっていると言えるだろう。しかし、そんな平穏で順調な高校生活を送っている筈の遥は、始業開始をニ十分後に控えた教室内で朝から酷く物憂げだった。
「ねぇ、カナちゃん、カナちゃん」
そう呼びかけて来たのは、教科書を抱きかかえて遥とはまた別の理由から物憂げな表情をみせる楓である。遥にはこの後楓が言う台詞が大体予想出来た。
「一限目の数Ⅰワタシ当てられそうなんだけどどうしよぅ」
予想通りだった楓の台詞に遥は小さく溜息を洩らし、机から自分の教科書とノートを引っ張り出す。
「この辺の式が出ると思うけど…」
授業が本格的に始まって以来、こうして楓が助力を求めてやって来るのは、遥にとってはほぼ毎朝の恒例行事であった。この二週間で楓に関して分かった事は、勉強が余り得意ではなく、親しくなった相手には比較的甘えたがりで、そしてアニメや漫画が好きなちょっとオタク気質があるという事だ。初日に遥が「ボクっ娘」である事に反応したのはその趣味に由来している様である。
「―こっちの式とこっちの式を比較すると、こことここは同類項だから―」
遥が教科書を広げて楓に数学のレクチャーをしていると、教室前側の入口から未だ眠気冷めやらぬと言った感じの沙穂が姿を現した。
「カナ、ミナ、おはよぉー」
遥と楓に向って挨拶を送った沙穂は一度くぁっと大きくあくびをして、普段から気だるげなその表情を一層気だるくさせる。沙穂は低血圧で朝はいつもこんな調子だった。
「ヒナちゃんおはよう、今朝も眠そうだね」
挨拶を返す楓に沙穂はひらひらと力なく手を泳がせ自分の席へと向かっていく。
「あんた達朝から予習? 真面目ねぇ…」
沙穂は遥の机を横切りざま、授業開始前にも拘わらず既に教科書を広げている遥とそれに習う楓の様子を一瞥して呆れ顔で苦笑した。
「カナちゃんに教えてもらってたの。ワタシは二人みたいに頭良くないから…」
楓の言葉が示す通り、沙穂は遊んでいそうなその派手な外見に反し、意外と成績優秀でどの教科もそつなくこなす秀才タイプであるという事がこの二週間で判明している。
「カナぁ、あんまりミナを甘やかすんじゃないよー」
そんな事を言いながら自分の席に着いた沙穂はそのまま机に突っ伏して仮眠態勢へと移行してしまった。これもこの二週間で随分と見慣れた今や朝の風物詩といった光景だ。
「えっと…どこまで説明したっけ…、あっ、ここが同類項って事はつまり―」
仮眠を始めた沙穂を尻目に、遥がノートも用いて更に細かく楓へのレクチャーを再開させていると、今度は軽く息を切らせた青羽が勢いよく教室の扉を開け「おはよう!」と朝からめっぽう爽やかにクラス一同へ挨拶を送りながらやって来た。
「おはよう、奏さん、水瀬さん」
遥の右隣の席に腰を落ち着けながら青羽が挨拶と共に笑顔を見せてくると、楓はちょっともじもじした様子で遠慮がちに「早見君、おはよう」と応え、遥もそれに倣って「おはよう」と簡単に挨拶を返す。背の小さい遥は最前列に回され、今では青羽と隣の席だ。因みに誰の前に座ってもその視界を塞いでしまう人間山脈こと須藤隆史は最後尾に移動している。
「何々、数学の予習? 俺も混ざっていい?」
席に着いて勉強用具を机にしまい終えた青羽は、教科書とノートを広げている遥と楓の様子に興味を示し、実に自然体で自らも参加を希望して来た。美乃梨には再三青羽は駄目だと言われている遥だが、席が隣な事もあってこうした事も今や日常茶飯事だ。
「うー…別にいいけどぉ…」
遥が若干渋々それを認めると、青羽は「やった」と喜びを顕にして一層爽やかな笑顔で机ごと席を寄せてくる。自分の教科書を広げ、遥のノートを覗き込む様にして顔を近付けてくる青羽の行動を切っ掛けに、遥は周囲からの刺す様な視線をいくつか感じ取って少々げんなりとした気分になった。
「奏さん教え方上手いから助かるなぁ」
遥の気など知らずナチュラルな笑顔を見せる青羽に、楓も同意してうんうんと頷き仔犬の様な笑顔を向けて来る。遥はそんな二人の様子を前にして今日何度目かになる小さな溜息をもらし内心で頭を抱えたい気分になってしまった。
結局のところ、遥は親しげに接してくれるクラスメイト達に対して、釣れない態度を取れるほどの非情さと心の強さを持ち合わせてはいなかったのだ。その結果、遥は新しく出来た友人達との間に着々と友情を育んでしまっている。
特に沙穂と楓に関して言えば、先程のやり取りにも見られたように、日南だから「ヒナ」、水瀬だから「ミナ」、奏だから「カナ」と既に互いを愛称で呼び合う仲にまで進展し、その上大体セットで行動しているとなれば、それはもう誰が見たって仲良し三人組だ。そんな具合に、遥の高校生活は、本人の悩める思いとは全く裏腹に、対外的に見ればその友人関係においてもこれまで極めて平穏で順調な様相を呈していた。
親しくしてくれているクラスメイト達とどうやって距離を取ればいいのだろうかと、そんな事に頭を悩ませながらも、一日の授業日程をそつなくこなした遥は、沙穂と楓の二人と連れ立って学校から歩いて十分程の距離にある駅前のアーケードを訪れていた。
方角的には遥や同じ中学出身である楓の住まいとは逆方向だが、この場所にやって来るのは何も今日に限った話では無い。放課後は唯一電車通学をしている沙穂を見送りがてら、駅前のアーケードを三人でぶらぶらとするのが今では完全に日常化しているのだ。
大抵はお気に入りのカフェでお茶をしながら他愛のない雑談を小一時間程して解散になるが、時にはちょっとした買い物をしたり、何か面白そうなものはないかと散策したり、クレープやアイスクリームなんかの甘い物を買い食いしたり、それからゲームセンターでプリントシールを撮ったりと、遥は沙穂と楓にひっぱられるようにして、そんな実に女子高生らしい放課後の時間を毎日の様に過ごしている。今日も今日とてそんな女子高生放課後ライフを満喫中と言う訳だがしかし、遥はその胸の内に抱える苦悩もあって、心からそれを楽しめている訳では無かった。
それでも遥は沙穂と楓が無用に気を回さぬ様、その複雑な心境を極力表には出さず、二人と歓談を交わしながらお気に入りのカフェへと向かってアーケードを進んでゆく。
そろそろ目的のカフェが見えてこようかというそんな時、楓がふと足を止めて素通りしようとしていたアーケードの一角を指差した。
「ねぇねぇ、なんか可愛い雑貨屋さんが出来てるけど寄ってみない?」
そんな提案をしてきた楓の指し示す方を見やれば、確かにそこには見覚えのない可愛らしい雰囲気の雑貨屋さんがいつの間にやら店を構えている。
「おっ、カナが好きそうなカワイイ小物とかありそうねぇ」
女子高生を始めた遥の持ち物は、例の如く母の響子が用意した少女趣味抜群な品々で揃えられている為に、遥は沙穂と楓からすっかり可愛い物好きとして認識されていた。尤も何でも形から入るタイプの遥は、女の子としてやっていくのだと決意して以来、少女趣味にもそれほど抵抗を感じなくなって、今では積極的にそれを取り入れて行こうという気概すらある。それもこれも一重に女の子として賢治に認めてもらいたいという恋心の成せる業だろう。それだけに遥としても、女の子らしさを演出する新しいアイテムが手に入るのであれば、そこへ立ち寄るのも吝かでは無かった。
「じゃあ入ってみよっか」
遥の同意を持って、三人は楓を先頭にすりガラスのはめ込まれた木製の扉をくぐり店内へと足を踏み入れる。ドアベルの澄んだ音色に反応した若い女性の店員が「いらっしゃいませー」と三人の入店をにこやかに歓迎してくれた。
「わぁ、いい感じだねー」
入って早々店内を見回した楓が感嘆の声を上げ、眼鏡の奥で瞳をキラキラと輝かせる。お洒落で落ち着いた雰囲気の小ぢんまりとしたアンティーク調の店内は、いくつかの棚に丁寧に商品が並べられ、そのどれもが素朴な可愛らしさで溢れていた。
「いいね、あたしもこういう感じなら好きかも」
店内を一瞥した沙穂は入ってすぐの棚に飾られていたセピア調をした花のコサージュを手に取って目を細める。沙穂同様店内を見渡した遥も、必要以上に甘すぎないその雰囲気は確かに大人っぽい沙穂にはよくマッチしている様に感じられた。
「これなんかヒナに似合いそうだよ?」
遥がそう言って沙穂に差し出したのは、目の前の小さなテーブルに並べられていたスパンコールを控えめにあしらったグレージュ色のシュシュだ。
「いいね」
遥からシュシュを受け取った沙穂はほんのりとした笑顔で頷き、側に有ったテーブルミラーの前で先程のコサージュと共にそれを吟味し始める。
遥は沙穂の様子に小さく笑みをこぼしつつ、他にはどんなものがあるだろうかと、狭い店内を入口脇の棚から順にまわっていった。商品のメインは髪飾りの様だったが、それ以外にも日用雑貨、アクセサリー、ステーショナリー、食器類、それから少しだけ衣料品なんかもあり、そのどれもが品良く可愛らしい。
「ねぇねぇ、カナちゃんにはこれが似合いそうだよー」
遥がゆるいタッチの動物が描かれたマグカップの棚を眺めていた所、楓がそんな事を言いながら歩み寄って来る。何だろうかと遥が目をやれば、楓は手作り感のある淡いピンクのハートが飾られた可愛いらしいヘアピンを手にしていた。
「カナちゃんヘアピン好きだよね?」
その問い掛けに遥はちょっと首を傾げながらも頷き一応はそれを肯定する。好きというと若干の語弊はあるのだが、遥は確かに今ヘアピンに凝っていて、自分でも色々なデザインの物をちょくちょくと買い集めていた。その切っ掛けとなったのは誕生日に真梨香から貰ったクローバーのヘアピンであるが、遥はその使い方を学んで以来それを気に入り、今では毎日違ったデザインの物を刺して学校に通っているのだ。楓はそんな遥をヘアピン好きと認識して、似合いそうな物をと見つけてくれたようである。
「カナにはこっちも似合うと思うよ」
自分の髪飾りを吟味し終わった沙穂は、いつの間にか手にしていた黄色い薔薇の造型が付いたヘアピンを遥の髪へと当てがった。
「うん、良い感じね」
満足顔の沙穂に促されヘアピンを髪に当てがわれたまま遥がテーブルミラーを覗き込めば、黒髪に黄色の薔薇が良く映えており確かにいい感じである。
「うん、これ好きかも。ミナの選んでくれた奴も可愛いね」
続けて楓が見つけてくれたヘアピンも自分の髪にあてがってみた遥がちょっと嬉しそうに笑うと、沙穂が人差し指を立てて何か思い付いたような笑顔になった。
「折角だしお互い似合いそうなの選んで交換しようよ」
沙穂はそんな如何にも女の子同士の友達っぽい提案をしながら、先程遥が見つけたシュシュと自分が遥にと選んだヘアピンを両手に持って、これがサンプルだと言わんばかりに掲げて見せる。
「いいね! じゃあワタシ後はヒナちゃんの選ばなきゃっ」
沙穂の提案を嬉々として受け入れた楓は、遥の手からハートのヘアピンを回収し、早速と沙穂に似合いそうな物を求めて店内を物色し始めた。
遥は実に楽しそうな楓の様子を眺めながら、お互いにちょっとした物を贈り合うという友達感満載の行為を前に、これ以上二人との距離が縮まってしまっていいのだろうかと考えずには居られない。そんな遥の戸惑いが窺えたのか、沙穂が横から覗きこむ様にして少し困った顔でじっと見つめて来た。
「カナは嫌だったかな?」
その問い掛けに遥は内心を見透かされた様に感じて一瞬ドキッとする。しかし既にうきうきとした様子で行動を開始している楓と、発案者であり困り顔でいる沙穂の二人を前にしては、到底嫌だ等と言える筈もなかった。
「大丈夫だよ」
結局遥はいつもこんな調子で、親しく接してくれる沙穂と楓の事を拒めないでいる。ただそれは、何も遥が弱気で場に流されやすい性格というばかりが理由ではない。真実を明かせないが故に距離を取りたいという考えと、二人の示してくれる好意を無下にできないというその気持ちは、どちらも突き詰めてゆけば、二人の事を裏切りたくないという全く同じ想いに行きつくのだ。
「無理してない?」
念を押すような沙穂の言葉に、遥は胸の内でコインの裏表かの様になっている複雑な想いを二人の友達としての面へと向ける。
「大丈夫だから。ほらっ、ミナのやつ選ぼうよ」
そう言って遥が笑顔を作って見せると、沙穂も安堵した表情で「オッケー」と応え、二人は肩を並べて店内から楓に似合う物をと探し始めた。
遥は沙穂と二人でアレがいい、コレもいいと色々と手にとって見ては本人に意見を求めて「何でも嬉しい」という楓の優柔不断な回答に悩まされつつも、何だかんだと買い物を楽しみ、結局雑貨屋で一時間以上は過ごしただろう。
最終的に遥は楓の為にチェック柄の小さなリボンが付いたヘアゴムを、沙穂の為には最初に見つけたグレージュ色のシュシュをそれぞれに購入し、それを二人が選んでくれたヘアピンと交換し合った。因みに沙穂が楓に選んだのは眼鏡のフレームに飾れる月と星を象ったチャームで、そして楓が沙穂のためにと選んだ物は何故かネコの絵が描かれたマグカップであった。楓曰く「ヒナちゃんはネコっぽい」との事らしい。沙穂本人は自分がネコっぽいかについては余り肯定的では無かったが、なんだかんだと楓の選んでくれた品自体はそれなりに気に入った様子ではあった。
雑貨屋での買い物を終え、電車で帰る沙穂を駅で見送った遥は、家が駅からでも徒歩ニ十分だという楓とも別れ、一人バスに乗って自宅へと向かってゆく。
帰りのバスは仕事帰りの社会人や電車通学の学生などの帰宅時間と合致しておりそれなりの混雑状況だったが、幸い遥は座席にありつくことが出来た為に、ぼんやりと窓の外を眺めながら今日一日の事を思い返す余裕があった。
学校に行って、沙穂や楓と会って、勉強をして、帰りには三人で駅前のアーケードに寄って、こうして今は一人でバスに乗っている。それは遥にとって、高校生活を再開させてからほぼ毎日変わりないいつも通りの日常だった。雑貨屋で買った物をお互いに贈り合ったそんな今日の出来事でさえ、何も決して特別な事柄等ではない。それは友達同士、ごく自然で実に真っ当な、どこにでもありふれた如何にも女子高生らしい普通の出来事なのだ。
学業は順調で、友達にも恵まれ、これまで目に見えた大きなトラブルもないそんな高校生活は、もし遥が本当にただの女子高生だったのならば、これほど平穏で順調な充実した毎日は他に無かっただろう。それだけに遥は時々ふと考えるのだ。自分は二人の友達として、ただの女子高生として、このままごく普通の高校生活を謳歌しても良いのではないだろうかと。しかし、今も胸の内で肥大化し続けている罪悪感が、それは叶いもしない夢物語だといつも遥に知らしめていた。




