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1-5.父親

 響子が去ってから程なくして再び遥の病室を訪れる者があった。父の正孝だ。意外な人物の登場に遥は少々驚いた。正孝は職場が病院からは遠い事と、夜遅くまで残業に当たっている事が多いため響子ほど頻繁には顔を見せていなかったのだ。遥も事情を承知していた為、そんな父がわざわざ見舞いに来てくれたことを驚きつつも素直に嬉しく思った。

「やあ、遥」

 穏やかに言葉少なくそう挨拶した正孝に「おとさん」と舌っ足らずに遥が答えると正孝は優しげな微笑みを見せる。溌溂とした母が遥の気持ちを明るくしてくれる様に、父は遥に安らぎを与えてくれる存在だった。物静かで穏やかだが、一本筋の通ったやや厳格な物の考え方をする父。叱る時は静かに諭すように話し、何か行き詰り思い悩んでいれば、それとなく答えへと導いてくれる。遥はそんな父の事が昔から好きだった。特に今は正孝のその地に足の着いた佇まいがより頼もしく思えた。

辰巳たつみとようやく連絡が取れたよ」

 遥の方へと歩み寄りながら正孝がそう告げる。辰巳というのは遥の四つ上の兄で、遥が目覚めた後母から聞いた話によると、大学を出てからはボランティア活動に従事し海外を点々としているとの事だった。アジアやアフリカ、中南米などでインフラの未整備な地域にいる事が多くなかなか連絡の取りづらい状況だと言う。

「なるべく早く戻ってくると言っていたよ」

 遥は正孝のその言葉に兄の姿を思い浮かべる。平凡の代表のようだった遥に対して兄の辰巳は独創的で行動力溢れるちょっと変わった青年だった。賢治と一緒にいる事が常だった遥はあまり兄の後をついて回ったという記憶はないが、それでも兄弟仲は悪くなく、何かあれば辰巳は遥の力になってくれたし遥もそんな兄を頼もしく思っていた。兄は今の自分を見たらなんと言うだろうか。一瞬考えるが独創的な兄の思考をトレースする事は難しくいまいち想像は纏まらなかった。

「お母さん来たんだな」

 遥の傍らへやってきた正孝はベッドの上に広げられた見慣れない可愛らしいパジャマを見つけて苦笑する。

「男兄弟二人だからな、お母さん遥を生んだ後、もう一人女の子が欲しいって良く言ってたんだ」

 正孝は無造作に広げられた愛らしいデザインのパジャマを手に取って感慨深げにそれを眺める。母が女の子を欲しがっていたのは遥も知っていた。遥と賢治を兄の様に慕って後をついて回る真梨香を見て「やっぱり女の子っていいわぁ」と言っていたのを覚えている。そんな母が十歳前後の幼女になった遥を猫っ可愛がりするのも納得できない話ではない。

「お母さんを許してやってくれな」

 正孝は諭すようにそう言った。遥が目覚めた事と、娘が出来た事の二重の嬉しさに少し舞い上がっている響子の様子は正孝も与り知る所だ。ただそんな響子の少女趣味攻めはなにも自分の欲求を優先させただけの物ではなく、今後遥が生活して行く上で周囲からはどうしたって女の子として扱われてしまう事を鑑みて、それならば形の上だけでも少しずつ慣れていった方が楽に生きられる。そんな考えがあっての事だと正孝なりの見解を聞かせてくれた。それは遥自身も思い至り一旦保留にした考えだった。どこか母に見透かされていたようで少し気恥ずかしくなる。

「そうは言っても、中々難しいよな」

 そう言って正孝は手に取っていたパジャマを丁寧に折り畳んで枕元に置き直す。

 父は人を良く見ていると遥はいつも感心する。遥の事もそうだ。正孝は遥の中身が十五歳の男の子のままだという事も良く思いやってくれているのだ。

 正孝は初めこそ遥の少女然とした姿に戸惑いはしたが、接する内にその内面的は以前の息子となんら変わりがないという実感を得ていたため、遥と話をする時はそれまでと変わらず息子として接するよう努めていた。

 昔と変わらず接してくれる父の姿勢は遥にはとても心強く感じられ、ふとそんな父になら自分がこじらせてしまっている妄想を解きほぐす糸口を見つける手助けをしてもらえるかもしれない、そんな事を思い至る。遥は正孝をじっと見つめ言葉を探す。複雑に絡まった問題を何と伝えたらいいのか。

 遥の視線に気づいた正孝はこれまでの経験から、これは何か言いづらい事を言おうとしていると、そう感づいて特に何も言わず静観しただ遥の言葉を待った。変わっていない。昔からそうだ。遥は何か伝えたい事がある時はいつもそうしていた。姿形は変わっても、やはりこの子は遥なのだなと正孝は改めて実感する。接する度にその一挙手一投足に自分の知っている息子の仕草や癖なんかを発見しその度確信する。正孝を見つめていた遥の瞳が僅かに泳ぐ。言葉を見つけたようだ。

「けんじに、あいたい」

 遥の口をついたのはそんな言葉だった。遥と賢治が強い絆で結ばれた友人同士である事は両親とも知るところだ。これを聞いたのが響子だったのならば即座に賢治と連絡を取っていたかもしれない。だが正孝は遥が未だ目を逸らさず、訴えかけるような眼差しを向けている様子から話がまだ本題に入っていない事を察して静観の構えを解かず次の言葉を待った。

 遥はやや先走った切り出し方だったと一瞬焦ったが、正孝が何も答えず正視し次の言葉を待っているのを認め、改めて言葉を探す。自分の思い悩んでいる事を何と伝えたらいいだろうか。変わり果ててしまった自分の姿。違う生き物という言葉の楔。そして自分は奏遥ではないかもしれないという妄想。思考の沼に息苦しさを覚えて心が詰まる。うまく言葉が見つからない。情けない。自分はなんて弱い生き物なのだろうか。たまらず遥の瞳に涙が浮かぶ。

「あいたい、けど、…こわい」

 ようやく絞り出せたのは、そんなつたない言葉だった。そのあまりに稚拙な言葉と瞳にたまった涙にバツが悪く遥は正孝から視線を逸らし俯いた。俯いた先には未だに自分の物とは思えない小さな手と小さな足。そしてずいぶんと近く感じられる様になった足元の床に零れ落ちた涙があっという間に吸い込まれていった。そんな様が遥の気持ちを更に追い詰める。父は今どんな顔をしているだろうか。いっそ昔の様に男は簡単に泣くものではない、そう言ってもらえたのならそれは幾分か遥の心を奮い立たせたかもしれない。

「遥、自信を持ちなさい」

 俯いた遥の肩に正孝の手が触れる。父がどんな顔でそう言ったのかは、俯いた遥からは伺えなかった。ただ静かに穏やかな、いつもの調子で諭すような声だった。それが正孝なりの叱咤激励だったとしても、遥にはただただ酷な言葉に感じられた。今まさにそれが出来ずに苦しんでいるからだ。

 変わり果てた姿に見失ってしまった自分という存在、それを証明してくれるはずの無二の親友と「違う生き物」という強迫観念。思考の渦がまた同じ所を回り始め遥を飲み込もうとする。そんな自らの思考に溺れそうになる遥を、正孝の静かだがよく通る声が掬いあげた。

「遥、お前にとって賢治君は、どんな男だ」

 遥の細い肩を掴んだ正孝の手が、その俯いた顔を上げさせる。

 その問いかけと、まっすぐと見据えた眼差しに遥ははっとなる。父はいつもそうだった。いつも父は答えを明かさない。その代わりに遥がそこへ辿り着けるよう道筋を示すのだ。遥はその事を知っている。考えなければ。その問いかけの意味を。その言葉の示す道を。

 遥は正孝に導かれ、幾分かクリアになった頭で考える。自分の知っている賢治。背が高く、運動が出来、女の子にモテて、落ち着ていているけど少し天然で、いや、違う。それは表面的な事だ。父はそんな単純で分かり切った事を聞こうとしているのではない。父は言った「お前にとって」と。遥にとっての賢治、それは遥と賢治の関係性。それを問うているのだ。

 遥は思いを馳せる。幼馴染。無二の親友。いつからだか分からない程、気付けばずっと肩を並べて過ごしてきた。遥の思い出のほとんどの場面には賢治がいる。嬉しい時も、辛い時も、悲しい時も、そして勿論楽しい時も。あらゆる場面を共有してきた。数えきれないほど、沢山の事を分かち合ってきた。十五年間ずっと二人でそうやって過ごしてきた。もはやそれは自分の半身も同然だ。そうだ、自分は知っている。賢治がどんな時に喜び、怒り、悲しみ、笑うのか。そしてそれは賢治も同じはず。自分の身に起きた有り得ないような出来事に翻弄され見失っていた物が見え始める。

 遥は自分に言い聞かせる。冷静になって考えろ。違う生き物。そう言った賢治との会話をよく思い返せ。それは外見の話しなんかではなかった。見た目に拘っていたのはむしろ自分の方だ。賢治が外見で人間性を測るような奴じゃない事は自分が一番良く知っていたはずだ。そして自分は姿形が変わったとしても、頭の中身はまだちゃんと十五歳の高校生男子のままだ。正孝が最初に言った言葉を胸中でなぞる。自信を持て。賢治は自分以上に自分の事を知っている。そうだ、これだけは確かに自信を持って言える。賢治はかけがえのない半身。無二の親友だ。

「遥、お前達は大丈夫だ」

 遥の表情に答えを見つけたのだと確信した正孝は、穏やかに静かにそう告げた。その言葉に遥の心が奮い立つ。大丈夫だ。もう恐れはしない。

 客観的に見ればそれは多分に希望的観測をはらんでいたかもしれない。対外的に見れば根拠と言うにはあまりに主観的だったかもしれない。だが遥にとっては、それこそがなにより必要なものだった。遥は向き合う決心をした。

「けんじに、あう」

 舌ったらずだったが、はっきりと強い意志を持って遥はその決意を言葉にした。

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