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3-3.真実と欺瞞

「き、北中出身の田中健です。中学では卓球部でした」

 席を立って些か緊張気味の男子生徒が自らの来歴を語り終えると、周囲からまばらな拍手が送られた。ややあって拍手の音は鳴りやみ、教室内には田中生徒の緊張感が伝播したかのような張り詰めた静寂がおとずれる。

「次」

 静寂の中、険の有る野太い声で響き渡ったその号令を切っ掛けに、今度は田中生徒に代わり、その後ろの席に座っていた女子生徒が、こちらも若干緊張した面持ちで立ち上がった。

「は、林洋子です」

 遥は自己紹介を終えて着席した田中生徒に羨望の眼差しを送りつつ、手番の回って来た林と名乗った女子生徒にひっそりと応援の念を送る。そしてそれと同時に、自分の番が回ってくるであろう僅か先の未来の事に頭を悩ませ、その心境は既にかなりの混乱模様だ。

 時間は入学式後に開かれた高校最初のホームルーム。中邑一なかむらはじめと名乗ったクラス担任を務める中年社会科教師による時代錯誤感満載な仰々しい訓示と必要な連絡事項を経て、今はクラス全員の自己紹介タイムと言う訳だ。

 こういった自己紹介の場では必ずウケを狙う滑稽な生徒が一人位はいて、それにより場の空気が幾分か和らいだり白けたりするのが相場なのだが、まだそういったトリックスターは現れず、教壇横に据えたパイプ椅子にどっしりと構える中邑教諭の厳つい見た目が醸し出す厳格そうな雰囲気もあってか、教室内は真綿で首を締める様な息苦しさに包まれていた。

「では二列目」

 窓際列の生徒達が全て順番を終えると、中邑教諭の号令が遂に遥の座る窓際から二列目の席に差し掛かった事を知らしめる。遥はこれまで平凡で目立たない人間として生きてきた時間が長い故に、こういった大勢の人間から一斉に注目される場が非常に苦手だった。願わくば自分の番など回って来なければいいのにとすら思ったりもするが当然そんな訳には行かないだろう。

 遥が一層緊張からくる混乱を増大させている間に、二つ前に座る生徒が自己紹介を終え、中邑教諭の「次」の号令が掛かる。この「次が」終われば遥の番はいよいよだ。

 机に目を伏せた遥がこの後一分もしない内に回って来るであろう自分の順番を前にして軽いパニックに陥りそうになっていると、前の生徒が立ち上がる気配と共に、突如教室内にどよめきの声が上がった。

「南中出身、須藤隆史すどうたかしです」

 その名乗りを受け、どよめく教室内から誰ともなく「人間山脈」と、そんな呟きの声が漏れ聞こえて来くる。その興味をそそられるワードにつられてふと視線を上げた遥は、目の前に広がっている光景に思わず愕然となった。

 遥の視界に入ったのは広大に拡がる背中、只それだけで、おそらくそれは今し方須藤隆史と名乗った人物の後姿である事だけは分かるがしかし、その余りの大きさに全体像がまるで把握できない。頭は首を九十度に見上げてようやく見えるかどうかという位置にあり、その身体は制服の上からでもハッキリと分かる程の筋肉質で、驚異的なまでの厚みを帯びている事は取りあえず見て取れる。詰まるところ、須藤隆史は有体に言えば規格外の巨漢なのだ。周囲がどよめき人間山脈と揶揄される訳である。

「中学では柔道部でした」

 周囲のどよめきに全く怯むことなく、人間山脈こと須藤隆史は淡々と自己紹介を終えて元の席へと腰を下ろす。改めて見れば、着席してさえその巨躯は圧倒的で、遥には持て余し気味な高校生用の机と椅子がまるでおもちゃの様である。

 余りに類を見ない体格を持つ須藤隆史の存在感に、引き続き教室内がざわついていると、中邑教諭が二度ほど手を叩き「静かに」と一喝した。その厳しい声にどよめいていた教室内は俄かに鎮静化し、一気にシンと静まり返る。

「よし、次」

 教室内が静かになったのを認めた中邑教諭が放ったその号令は、遥の手番を示す物だったが、須藤隆史の圧倒的すぎる姿に呆然となっていた当の遥は、その「次」が自分である事に気付けなかった。

「二列目前から四番目、自己紹介だ」

 席番を指定して改めて呼びかける中邑教諭の若干苛立った声に、遥はようやくそれが自分の番だと気が付き我にと返る。

「は、はいっ…!」

 返事をして慌てて席からは立ち上がったものの、遥は今し方見た須藤隆史のインパクトでこれまで頭の中でシミュレートしていた自己紹介の文面が完全に頭から飛んでいた。

「あっ…えっ…?」

 混乱から遥が言い淀んでいると、「なにあれ?」「ちっちゃい」「かわいい」「ほんとに高校生?」とそんな無遠慮な無数の囁きが耳に飛び込んでくる。

「あ…ぅ…」

 混乱の最中に有って教室内の注目を一身に浴びた遥は、一層緊張してこのままでは不味いと気が焦ったがしかし、焦れば焦る程混乱して上手く言葉が出てこない。

「か、か…かな―」

 混乱しながらも、早くこの状況から逃れたい一心で、とにかく名前を言わなければと、遥が口を開こうとしたその時、中邑教諭のあからさまに苛立った声が教室内に響いた。

「二列目前から四番目、とにかく席を立ちなさい」

 中邑教諭のその言葉と共に、今までどよめいていた教室内にクスクスと小さな笑い声がいくつも混じりだす。遥は中邑教諭が口にした事の意味が分からず一層混乱してしまった。

「どうした、早く立ちなさい」

 中邑教諭は尚も起立を求めて来るが遥にはさっぱり意味が分からない。遥はとっくに席を立っているのだ。

 ただでさえ緊張している場で周囲からはクスクスと笑われ、中邑教諭からは謂れのない叱責を受けて、遥は今や泣き出したい気分である。あと数舜そんな時間が続けば、遥は本当に泣き出してしまっていたかもしれないが、そんな折、右の列で最前席に座っていた男子生徒がスッと手を挙げるのが目に入った。

「先生、奏さん呼ばれた時からちゃんと立ってますよ」

 挙手と共にそう発言したのは、この教室内で現状遥の名前と姿を知っているただ一人の男子生徒、青羽に他ならない。

「前の須藤がデカいんでぇ、先生から見えないだけだと思いまーす」

 遥の右隣に座っていた沙穂が手も上げず気だるそうに追加で指摘すると、中邑教諭は遥の姿を確認するためにそれまで座っていたパイプ椅子から腰を上げ立ち上がった。

 混乱していた遥もようやくここで、既に立っているにもかかわらず再三起立を求められていた理由に気が付いた。中邑教諭の座っていたパイプ椅子は丁度遥の列の正面に位置し、小さな遥の姿は立っていたにもかかわらず、正面に座る巨大な人間山脈須藤隆史に阻まれ完全な死角になっていたのだ。

「あぁ…、すまない。では自己紹介を」

 遥がちゃんと立っていた事を認めた中邑教諭は一応の謝罪の意思を示して、改めて遥に自己紹介を促した。ここでも教室内からはクスクスと笑い声が上がっていたが、遥には最早それを気に病んでいる余裕すらもない。

「か、奏遥…です…」

 半ばさらし者状態だった今の遥にはそれだけ言うのが精いっぱいで、そのまま力なく椅子に腰を下ろし真っ赤な顔を俯かせる。幸い中邑教諭もそれ以上は求めて来ず「次」と号令を掛け、こうして遥の自己紹介は潸然たる様相でその順番を終える事となった。


 ホームルームが終わり入学式の日程を全て消化した教室内で、遥は帰り支度をしながらしょんぼりと項垂れ小さくため息を付く。先程の自己紹介での事がまだ後を引いていた。

「元気だしなよ、たかが自己紹介でしょ?」

 沙穂はそう言って慰めてくれるが、高校最初の自己紹介でしくじってしまったダメージは遥にとっては決して軽いものではない。

「わ、ワタシだってあんまり上手くできなかったし…だ、大丈夫…だよ…」

 沙穂に続いて慰めの言葉を掛けてくれた楓ではあったものの、自分で言っておきながらその余り上手く行かなかった様子を思い出したのか、遥と共に一緒になってしゅんとしてしまう。

「あんた達ほんと面白いわ…」

 二人して項垂れるその様子に沙穂が呆れ半分で笑い声を洩らすと、遥と楓も思わず顔を見合わせ小さく声を立てて笑った。初対面の際にはお互い緊張して探り探りな所もあったが、沙穂が率先して友達と言ってくれた事もあって、もう大分打ち解けた感じだ。

 沙穂と楓に慰められた遥が若干気を持ち直して、引き続き帰り支度を整えていると、先に帰り支度を整え終えたらしい青羽が通学鞄を肩に担ぎながらやってきた。

「奏さん、さっきは大変だったね」

 そう言いながら相変わらずの爽やかで眩しい笑顔を見せる青羽に、遥は先刻助け舟を出してくれた事を思い返して、感謝と共に笑顔を返す。

「さっきはありがとう。沙穂もありがとね」

 遥が青羽と共に中邑教諭に意見してくれた沙穂に対しても改めて礼を述べると、沙穂は手の平をパタパタと泳がせ気楽な笑顔でそれに応えてくれた。

「あたしはそっちの色男に便乗しただけよ」

 そんな沙穂の言い様に青羽は何やら微妙な表情だ。どうやら色男呼ばわりされたのが気に入らなかった様である。

「俺なんか普通だよ…」

 そう言って少し不貞腐れた顔を見せていた青羽は、ふと楓の方へと目をやってどこかほっとした様子で微笑んだ。

「水瀬さん、友達出来てよかったね」

 楓は突然自分に向けられた青羽の笑顔に、一瞬びっくりした顔を見せてから、次には何やらもじもじとしながら「うん…」と控えめな頷きを見せる。そのやり取りを見ていた遥は、おや? といくつかの疑問を抱いて首を捻った。

「そういや、あんた達同じ東中だったね」

 沙穂が先程の自己紹介で得た情報を確認すると遥は成程と一つ納得する。実を言えば遥は自分の事で必死だったのと、肝心の出番が散々だった事もあって、他の生徒達の自己紹介がまったく頭に入っていなかったのだ。

「水瀬さん大人しいし、中学で仲良かった子とは進路別々になっちゃったみたいだからさ、高校で新しく友達作れるか密かに心配してたんだよ俺」

 青羽の説明に遥はまた成程と納得して大体の事情が呑み込めた。楓の方がどう思っているかは分からないが、いかにも善良な青羽らしい気の回し方である。

「でも本当に良かったよ」

 そう言いながら青羽が爽やかに笑いかけると、それを向けられた楓は顔を真っ赤にして俯き加減になってしまう。一連の様子を見ていた遥は、美乃梨が青羽は駄目だと言った理由の一端を垣間見た気分である。誰に対してもこの調子ならファンの女子が多いという話しも頷けるという物だ。

「あんたイイヤツねぇ」

 言葉とは裏腹に沙穂は溜息交じりに呆れ果てた様子で、それが皮肉だと察した青羽はバツが悪そうに苦笑する。

「俺はただのお節介焼きだよ…」

 そんな青羽の申し開きに沙穂は「へぇ」と気の無い返事を返してから、何か思い出した様な顔をして遥にと向き直った。

「そういや遥、あんたどこ中なの?」

 沙穂に問われた遥は自分が自己紹介の際には、色々一杯一杯で名前しか名乗れていなかった事を思い出す。

「えっと、ボクも東中―」

 問われるままに自分の出身中学を口にした遥だったが、言ってしまってからはっとなる。しかし時すでに遅い。青羽と楓から同時に「えっ?」と驚きの声が上がっていた。

「ワタシ…、中学で遥ちゃん見た事無い…かも…?」

 戸惑った様子の楓が自信なさげに口にすると、青羽も頷き首を傾げる。

「同じクラスになった事が無いだけ…って事はないよね?」

 二人が困惑して疑問を抱くのも無理はない。遥が東中の生徒だったのは、二人がまだ小学生だった頃の話だ。

「こんな目立つ子、同じ学校に居たらまず忘れないだろうけどねぇ」

 青羽と楓の疑問に怪訝な顔をする沙穂の指摘は、そもそも今とは全く違う姿で男子生徒として中学生をやっていた遥の身の上としては実はあまり的を射ていないがしかし、今はそう言う問題ではない。

「あ…えっと…」

 遥の良心が今直ぐ自分の素性を告げるべきだと訴える。ただ、遥にはそれが出来ない事情があった。無用な周囲の混乱や、遥の孤立を危惧した学校側が、復学に際しては自らの素性を極力口外せぬ様にと遥に条件付けていたのだ。

「あ…の…」

 うっかり口を滑らせてしまった自分の間抜けさを悔やみながらも、遥はこの窮地を乗り切る術はないかと必死で頭を働かせる。自らの素性を明かす訳にはいかないが、かといって遥は性格上嘘を得意とはしていない。となれば、遥に取れる方策は一つしかなかった。

「えっ…とっ、ボク…この三年間、ずっと入院してて…、今年の三月にようやく退院したから…だから…それで…」

 遥が口にしたそれは全て真実に他ならない。ただ、それは嘘をついていないというだけの欺瞞でしかなかった。せっかくできた新しい友人達に、有りのままを語れない罪悪感から遥の胸がチクリと痛む。

「あっ…ワタシ…知らなくって…ごめんなさい…」

 遥の説明を言葉のままに信じてくれたのか、楓は眼鏡の奥で今にも泣きだしそうに瞳を潤ませてしゅんとしてしまった。

「三年もずっと病院で…」

 青羽も楓同様信じた様で、その境遇を慮ってか酷くやるせない表情を見せる。

「ねぇ…」

 小さく息を吐いて真面目な面持ちになった沙穂は、遥の両肩を掴んで真っ直ぐ向き合う形をとった。

「友達になったんだから敢えて聞かせてもらうけど…、その…悪い病気…なの?」

 それが立ち入った話であると承知しつつも、「友達」という言葉を使いそこへ踏み込んだ沙穂の表情は真剣そのもので、ある種の覚悟すら窺わせていた。

「病気じゃないから…大丈夫…だよ…」

 罪悪感に苛まれながらも、遥が三人を安心させようとぎこちなくも笑顔を見せると、沙穂は遥の肩から手を離し、片肘を抱えて首を傾げさせる。

「もう治ったって事?」

 沙穂は病気じゃないという遥の言葉を完治したのだと理解した様だ。遥はその思い違いを左右に首を振って否定する。

「ちょっと大きな事故に遭って、長い事意識不明だっただけで…」

 遥が後遺症などもなく今はもう健康体である事を告げると、三人は納得と共に安心した様子でその表情を緩ませた。

「だからあんた、そんな小さいのね」

 半ば感心した様子の沙穂は高校生にしては幼い遥の外見についても、事故の影響だと拡大解釈したらしい。

「えっと…、そう…かも…?」

 それはある意味では正しい理解なので、遥はそれを否定しなかった。ただ間違いなくその実際の理由までは想像し得ないだろう。

「あ、あのっ! 困った事があったら何でも言ってね!」

 楓が感極まった様子で身を乗り出して助力を惜しまない意志を見せれば、青羽も優しく爽やかに笑ってそれに同調する。

「ブランクがあって色々大変だと思うから、俺できる限りフォローするよ」

 出会ったばかりにも拘らず、自分の境遇に対して思い遣りの気持ちを示してくれる新しい友人達を前に遥の胸が罪悪感を募らせ一層チクチクと痛んだ。

「ありがとう…」

 遥は感謝の言葉を口にしながらも、これから先彼女達と親しくなればなる程この胸の痛みは大きくなっていくのだろうかと、今になって新しく友達を作ってしまった事の大きなリスクに気が付き、後悔の念を抱かずには居られなかった。

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