2-28.霹靂
賢治の家を出た遥は、賢治の家から少しでも離れたい一心で、街灯の明かりが点々と灯る夕刻過ぎの町中をあてどなく彷徨い歩いていた。その脳裏には、先刻賢治の部屋で目の当たりにした光景が焼き付いたままで、胸の内では説明のつかないモヤモヤとした感情が渦巻き、更にはそこへ心をソワソワとさせる例の感情までもが加わって、遥の心境はかつてない程の混沌模様だ。
間違っても上向きとは言えないその心境に遥が俯き加減になって歩き続けていると、程なく住宅街の切れ目に当たる少し大きな通りに行き当たった。
「あれー、遥くんどうしたの?」
不意に掛けられたその声に遥が顔を上げれば、そこには通りの向かい側に煌めくコンビニの灯と、そしてそれに照らされた真梨香の姿があった。
「真梨香…買い物…かな…?」
その手にコンビニの袋を下げている事を認めた遥がそう尋ねると、真梨香は軽快な足取りで通りを渡って直ぐ側までやって来る。
「マリはにゃんこのご飯を買って来た帰りだけどぉ」
そう言ってコンビニの袋を少しもたげて示した真梨香は、腰をかがめて遥の顔を覗き込みながら小首を傾げて見せる。
「…遥くん泣いてるの?」
その思いがけない言葉に遥が「えっ?」と小さく声を上げ、自分の目元に触れれば、確かにそこには涙で濡れた感触があった。
「あ…あれ? ボク…どうして…」
自分でも気付かない内、瞳に溜まっていた涙に遥が困惑していると、真梨香は自分の口元に人差し指を当て視線を上に泳がせる。
「さっきの事だったら皆気にしてないよ?」
それを申し訳なく思う気持ちは有るには有るが、それは現状遥を落ち込ませている主な要因ではない。遥が左右に首を振りそうではないとそれを否定すると、真梨香はまた視線を上に泳がせる。
「良く分かんないけどもう暗いし危ないからお家に帰ろう?」
真梨香が自分の身を心配してくれている事は遥にも分かる事ではあったが、自宅は賢治の家と隣接しているのだ。賢治の家に近づきたくない遥がまた左右に首を振ってそれを拒むと、いつもゆるゆるとした真梨香は珍しく少々困った顔をした。
「賢治くんも心配するよ?」
そんな真梨香の言葉に、遥の中で何かがパチっと音を立てて弾け飛んだ。今度は自分でもハッキリと自覚できる。大粒の涙が次々と溢れだす感覚を。
「うっ…うぅ…」
涙と共に胸の内で弾けた感情が遥の心を酷く搔き乱す。その根本にあるのは、ただ賢治の事が大好きというそれだけのシンプルな想いのはずなのに、それは前向きな気持ちだった筈なのに、今は唯胸が締め付けられひたすらに苦しく、止めどなく涙が溢れ出た。
「あらぁ…」
往来で本格的に泣き出してしまった遥の様子に、しばし戸惑った顔を見せていた真梨香は、何か思い立った顔になると不意に遥の小さな手を掴んだ。
「遥くん、こっち」
真梨香はそのまま遥の手を引いて近所にあった小さな公園にまで誘導すると、そこにあったベンチに遥を座らせ、自分もその横へと腰を下ろす。
「うっ…ひっくッ…うぐっ…」
ベンチに座らされた遥は、情けない泣き顔を見られまいと両の手で顔を覆いながらも、未だ溢れ続ける涙に嗚咽が漏れるばかりだ。そんな涙に震える遥の背中を、真梨香の手がやんわりと優しく撫でる。
「マリはもう中学生だから、遥くんのお話ちゃんと聞けるよ?」
遥は年下の女の子に気を使われている事を情けなく感じながらも、今は感情を上手くコントロールする事も出来ず、胸の内にあった苦しみを思わず真梨香へと打ち明けた。
「…賢治と…美乃梨が…賢治の部屋で…二人っきりで…」
未だ頭から離れないあの光景を自らで言葉にして、遥はまた一層胸が締め付けられる。断片的だった遥の言葉を受け止めた真梨香は、しばし首を傾け考える仕草を見せていたが、ややって「あー」と少々気の抜けた感嘆の声を上げた。
「遥くんはヤキモチ焼いてるんだねぇ」
間延びした真梨香の言葉に遥はガバッと顔を上げその大きな瞳を一際大きくする。一体何故、誰に、どうして、そんな疑問が遥の頭の中を次々と駆け巡る。
美乃梨が賢治を選んだからか? それとも親友に先を越されたからか? 賢治と美乃梨が親密な関係になる事で抱き得る嫉妬心のあらゆるケースを考えた遥は、ある一つの可能性を見出し愕然となった。
「ボクが…賢治を…好き…だから?」
普通であれば、それは遥にとって理解の範疇を超えた到底有り得ない事柄だ。しかし響子は言ったのだ、前よりももっと賢治の事を大好きになっていると。遥は今になってようやく正しく理解した。響子の言葉の意味と、心をソワソワとさせる感情の正体を。それは、一般的に「恋心」と呼ばれる代物に他ならない。涙で紅潮していた遥の顔から一気に血の気が引いてゆく。
「そ、そんなの…駄目だよ!」
遥は思わず声を荒げたが真梨香は不思議そうに首を傾げゆるりとした笑顔を見せる。
「駄目じゃないよ? だって遥くんはもう女の子だもん」
今は女の子だから、男である賢治に恋心を抱いたって構わない。真梨香はそう示していたがしかし、遥にとってはそんな単純な問題ではない。男か女かである以前に、賢治とは幼馴染で、親友なのだ。遥にとって自分が賢治に恋をするという事は、今までの十五年間で培ってきたその関係性を一変させてしまう事と同義なのだ。
「ボクには…無理だよ…!」
賢治に恋をするなんて、有ってはならない。一体何故、何時からなのか。遥のそんな疑問を他所に、賢治を恋しいと思う気持ちは確かに胸の中心でハッキリと芽を出しその蕾は今にも花開きそうになっていた。
「賢治君の事、昔から大好きでしょぅ?」
その問い掛けの答えは決まり切っている。
「そうだけど…!」
しかしその想いは以前よりもはるかに大きく、それと共に形を変えてしまっているのだ。受け入れがたい自身の感情を前に遥は再びポロポロと涙を流し項垂れる。
「けど…駄目なんだ…」
賢治が以前、男同士でベタベタするのは抵抗が有ると、そう言ったのを遥は覚えていた。あの時は自分の身体が女の子だと言って無理を通したが、今回ばかりはそんな屁理屈では片付けられない。
「賢治は親友なんだ…」
自分がいくら女の子でも、いくら恋心を抱こうとも、賢治が男同士の親友という関係を望んでいる以上、その関係性を一変させてしまう様な感情を、遥は易々と受け入れる事等できはしない。
「親友だと、恋しちゃだめなの?」
真梨香の口からそれが恋だとハッキリと示され遥の胸はさらに苦しくなった。親友に恋をして良い筈など無い。賢治の親友として傍にいたいから、それが許される筈はないのだ。親友としての立ち位置と、芽生えてしまった恋心の狭間で遥は苦悩する。
「大丈夫、大好きって伝えるだけだよ?」
真梨香は事も無げに言ってから、遥の両手を握って真っすぐにその瞳を覗き込んだ。
「きっと言わないままだと苦しいよ?」
その言葉に遥ははっとなる。確かにそれは真梨香の言う通りなのだ。これから先も賢治の親友として傍に居たいと、いくらそう願おうとも、今こうしている間にも胸の内で膨らみ続けている恋心を押し殺し続ける事等、遥には到底できはしない。ただ、想いを伝えて賢治に拒絶されてしまったら、その為に傍に居られなくなってしまったら、そんな想像が遥の心を絡めとる。
「でも…賢治に嫌われたらボクは―」
弱音を吐こうとした遥の口元を真梨香の細い人差し指がそっと塞いだ。
「遥くんと賢治くんなら何が有っても大丈夫だよ」
二人の妹分として、遥と賢治の背中をずっと見て来た真梨香のその言葉には、何の迷いも疑いもなく、ただ確信だけが満ちていた。
「だから伝えよう?」
真梨香は再び遥の両手を取ってベンチから立ち上がる。真梨香に引っ張り上げられるままに、遥も共に立ち上がったその時だ。
「ハル!」
小さな公園内に、そして遥の胸に、賢治の声が響き渡る。
「けん…じ…?」
まさかのタイミングに遥が呆気に取られていると、名を呼んだ声にやや遅れて、肩で息を切らせた賢治が公園内に飛び込んできた。
「やっと見つけたぞ…」
遥の姿を認めると賢治は一旦腰をかがめ、膝に手を付いてその乱れた呼吸を整える。
「あっ…」
賢治を前にして、胸の奥から身体が熱くなる感覚を覚えた遥が思わず後ずさってしまうと、その背中に真梨香の手がそっと触れた。
「遥くん、怖くないよ。好きって気持ちは力だよ!」
真梨香はそう言っていつものゆるゆるとした笑顔で小さくガッツポーズをして遥の気持ちを後押しする。
「で、でも―」
遥は未だ混迷するその気持ちに逡巡せずにはいられなかったがしかし、真梨香はそれに構わず触れていた手で遥の小さな背中をトンっと押した。
「あっ…」
押されるままにフラフラとたたらを踏んだ遥の足は、そのまま導かれるように、吸い寄せられるようにして、賢治の眼前まで進んでゆく。
「ハル…心配したぞ…」
そう言った賢治の息はまだ少し荒く、その声は僅かに震えていた。
「ごめん…なさい…」
遥は合わくなった目線で賢治を見上げ、その瞳に思い遣りの気持ちと、不安げな色合いと、そしてほんの少しの怒りを垣間見みてまたポロポロと涙をこぼす。自分の居なかった三年間を辛く過ごしていた親友を、そして何より大好きな人を不安にさせてしまっていたのだと、そう思うと居た堪れなかった。
「ハル…」
叱られた子供の様に小さくなった遥を前に、賢治は一度大きく息を吐くと、いつもの落ち着いた笑顔を見せ、そしていつもそうする様に、遥のちょっと癖のあるふわふわとした髪にその大きな手で無造作に触れた。
「俺は…ハルが居ないと駄目なんだ…」
触れる賢治の手の感触に胸を高鳴らせながらも、遥は先刻見たあの光景を思い返さずには居られない。
「でも美乃梨が…!」
美乃梨の名前を聞いた賢治は少々うんざりとした表情を見せてから、またいつもの落ち着いた笑顔に戻って遥の頭を乱暴にかき乱した。
「あれは美乃梨の癇癪に付き合ってただけだ」
賢治の口からそれが自分の勘違いだったと知らされ、遥の胸の内で渦巻いていた嫉妬心が俄かに薄らいでゆく。
「よかった…」
安堵感から全身の力が抜け、遥がその場にへたり込みそうになってしまうと、賢治が咄嗟に腕を回して、その身体をしっかりと抱き留めた。
「大丈夫か?」
その優し気な声と、背中を支える賢治の逞しい腕の感触に、遥の胸の内で気持ちが一層膨らみ、心臓の鼓動はかつてない程の高鳴りを見せる。昼間はそれに耐えきれず逃げ出してしまった遥だが、今はそれが賢治の事をどうしようもなく好きな気持ちの現れだと知っている。賢治の腕の中で、気持ちが益々溢れてゆけば、遥にはもう、それを抑える事などできはしない。
「賢治…あ、あのね…」
遥は賢治の瞳を真っ直ぐに見据え、二人は何が有っても大丈夫だと、賢治なら受け止めてくれると、共に確信を持って言った真梨香と母の言葉を胸の内でなぞる。
「ボク…ね…賢治の事…」
真梨香は言った、好きな気持ちは力だと。母は言った、自分の気持ちに自信を持てと。二人の言葉に勇気付けられながら、遥は心の熱を原動力に代え、何よりも強い気持ちを持って、その想いを花開かせた。
「だ、だいすきなの!」
遥はその小さな手で、その細い腕で、賢治の身体にギュっとしがみつく。どうか、この気持ちが伝わりますように、この想いを受け止めてくれますように、遥がそんな願いのまますがり付いていると、賢治の大きな手がそっと頭に触れた。
「知ってるよ…」
賢治の言葉と、暖かな体温と、そして何よりも安らげる良く知る匂いを全身で感じ取り、遥は誰にも譲りたくない、このままでいたいと一層願いを強くする。
「賢治、ボクを傍に居させて…!」
賢治はそれに応えるように、遥の小さな身体をそっと両腕で包み込む。
「前にも約束したろ。ハルの傍にずっと居るって」
遥は賢治にしがみつく腕に一層力を込め、より近くに、もっと傍にとその身を寄せた。
「俺も…」
呟く様だったその声に遥が顔を上げれば、賢治と視線が交じり合う。
「ハルが大好きだよ…」
その言葉に、遥の心で花開いた恋心が満開になって咲き誇った。
「賢治、だいすき…!」
再びその想いを口にすれば、心に咲き乱れる花々と共に抜ける様な晴天の空が胸の内に広がってゆく。賢治は応えてくれた、真梨香の言った通りだった。母の言う通りだった。幸福感から自然と涙が溢れ出る。
「ハル…」
遥が感極まっていると、名を呼ぶ声と共に賢治の大きな手が両肩を掴んで二人の身体に僅かな距離を作った。賢治はそれから遥の潤んだ瞳を真っすぐに見据え、いつもの落ち着いた笑顔を見せる。
「俺達親友だからな」
その言葉は、正に青天の空に轟く霹靂だった。
「えっ…あっ…、う、うん…?」
俄かにお花畑になりかけていた心に落雷の直撃を受けて、遥の思考は一瞬止まりかけたがしかし、一気に熱が引くようにして急速に冷静さを取り戻す。そして昼間、自分が親愛の気持ちを示した後に何かがっかりした様子だった美乃梨の事を思い出し、そういう事かと今頃になって妙に納得してしまった。
「あらぁ…」
二人の様子を見守っていた真梨香もこれには堪らず苦笑するしかない。
「…ハル、どうした?」
それまで熱っぽかった遥が急にきょとんとしてしまったので賢治は訝し気に眉をひそめるが、そんな賢治の様子を前にして、遥は急に笑いが込み上げて来た。
「そっか、…親友…、そう…そうだよね!」
一世一代の告白は失敗に終わってしまったものの、遥は賢治が親友と言ってくれた事にどこかでほっとしていたのも確だった。正確には伝わらなかったが、とりあえずその想いは告げられた、そして何より最も恐れていた傍に居られなくなるのではないかと言う懸念が図らずも回避されたのだ。最良の結果とはいかなかったが、今の遥にはもうそれ以上を望むべくもない。
遥は自分の胸を両手でキュッと押さえ、雷に散らされず残った心に咲く一輪の花を大切に抱く。賢治が親友だと言ってくれるのならば、今までと変わらず傍に居続けられる。傍に居られれば、きっといつか賢治に正確な想いが伝わる日が来るかもしれない。その時までは、今まで通り親友でいよう。遥はそんな想いを胸に賢治に向って明るい笑顔を向ける。
「ずっと…一緒だよ」
その言葉と、その愛らしい笑顔に賢治はいつもの落ち着いた笑みで頷き返した。
「当たり前だ」
遥と相思相愛になれる千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまっていた賢治だったがそれを知る由もない。
遥と賢治が奇しくも同じ想いを抱えたまま、その気持ちに応えてくれる日が来るまで親友として傍に居続けると言う同じ結論に落ち着いた処で、随分と遅れて美乃梨が公園内に姿を現した。
「もー、賢治さん足早すぎる!」
遥を追って飛び出した賢治の後に続いた美乃梨は、賢治の俊足にあっという間に引き離され、見失ったあげく散々迷ってようやくこの場に辿り着いたのだ。
「花房先輩っ、もう終わっちゃいましたよぉ?」
姿を現した美乃梨の元に駆け寄った真梨香は、少々含みのある笑顔を見せる。
「えっ、えぇ?」
真梨香に促され遥と賢治の方を見やれば、二人とも穏やかな笑顔で見つめ合っていて映画のワンシーンであればこの後すぐさま「Fin」の文字が出てきそうな雰囲気だ。
「あー…」
美乃梨ががっくりと項垂れると、真梨香が肩を叩いてニコニコと笑う。
「先輩、まだチャンスはありますよぉ?」
暗に二人がまだ出来上がってはいない事をほのめかす真梨香の言い様に、そんなところは勘が働く美乃梨はパッと顔を上げて瞳を輝かせた。
「よかったぁ!」
安堵から思わず出たその大きな声に、遥も美乃梨がやって来た事に気付き少々申し訳なさそうな顔を見せる。
「美乃梨…ごめんね。ボク色々勘違いしてた…」
賢治と美乃梨が付き合っていると勘違いして勝手に嫉妬してしまった事、そして美乃梨が自分に好意を寄せてくれている事を知りながら、考え足らずに親愛の気持ちで「好き」と言ってしまった事。遥はそれらに少々罪悪感を覚えていた。
「全然大丈夫だよ!」
美乃梨は顔の前で両手をパタパタとさせ明るく朗らかに笑う。完全に仕上がってしまっていた遥がいつもの様子に戻り、どうやらあらぬ誤解も解けたようで、その上賢治とも今まで通りとなれば美乃梨には何の憂いもない。
美乃梨が気に病んでいない事が分かると遥はほっとした笑顔になって、未だに着たままだった制服のスカートの裾を摘まんで少し広げて見せる。
「美乃梨、高校でもよろしくね!」
遥はそれから賢治の方に向き直って、昼間美乃梨がした様にその場でくるりと回ってスカートの裾をひるがした。
「賢治、ボク女子高生がんばるから! 見てて!」
賢治に対する恋心を自覚した今、遥は女の子としてやっていくのだとその気持ちを一層強くしていた。身も心も女の子として賢治に認めてもらい、いつか親友から恋人へ、そんな淡い期待と恋心を抱いて、霹靂に見舞われ散っていた花たちが遥の胸の内で再び咲き誇る。




