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2-26.謎の感情

「は、は、遥ちゃん!? い、今何て…!?」

 美乃梨は勢いよく抱擁を解いたかと思うと、ひどく動転した様子で遥の両肩を掴み、前後に激しく揺さぶりを掛ける。

「だ、だかりゃ…しゅきってぇ…」

 身体を揺らされた遥が噛み噛みになりながらも再びその想いを口にすれば、美乃梨は肩からパッと手を離してうっとりとした表情でその場にへたり込んでしまった。

「あ、あれ? どうしたの美乃梨…?」

 遥は突然呆けてしまった美乃梨の様子に少々困惑して戸惑うばかりである。

「遥にしてはやるではないか」

 亮介が眼鏡を押し上げニンマリとした笑顔になると、それに続いて淳也も同様に笑顔をニヤつかせて口笛等を吹いて見せる。

「まさか遥がこんな皆の前であんな堂々と言うなんてなぁ!」

 一部始終を見守っていた淳也と亮介は、どうやら遥が美乃梨に対して愛の告白という大仕事をやってのけたのだと見なして勝手に盛り上がっている様だったが、その一方では賢治が実に冷静だった。

「ハル…、因みに聞くが、マリちゃんの事はどう思ってる?」

 賢治の不意の質問に遥はきょとんとして、小首を傾げながら真梨香の方へと目を向ける。

「真梨香の事も好きだよ?」

 真梨香のゆるい笑顔を認め遥が躊躇う事なくそう口にしたので、賢治はやはりかと深々と溜息をつく。

「何だ何だ? 二股か!?」

 美乃梨に続き真梨香の事も「好き」だと言った遥に、淳也は悪い笑顔を向けはやし立てるが、賢治はそれを制止して、当の淳也を指さして再び遥に問い掛けた。

「淳也の事はどうだ?」

 遥は何故そんな聞くまでもない事を質問するのかと、賢治に抗議の視線を向けつつも、更に質問を重ねられては面倒だと感じて、友人一同を見回し手っ取り早く答えてみせる。

「淳也も亮介も光彦も、皆好きに決まってるよ」

 遥がさも当たり前の様に平然と言い放つと、淳也と亮介はそこでようやく遥の言う「好き」の意味が友人に対する親愛の気持ちである事に気が付いた。

「なんだ、そういう事かよぉ…」

 愛の告白等では無かったと理解した淳也は残念そうに口を尖らせる。その横では光彦が無言でサムズアップして遥の親愛の気持ちに応えていたが、その更に横では亮介が少々複雑な面持ちだ。

「人騒がせな…」

 亮介は遥の性格を度外視して、状況だけで早とちりをした自分を恥じている様だった。

 友人達に真相を明らかにした賢治は遥の性格を熟知している事に加え、以前自分が口にした告白紛いの言葉に対し、遥が親愛の情として「大好き」と応えたのを経験済みだった為、それが恋愛感情等では無いといち早く察していたのだ。

「まぁ、そう言う事だ…」

 賢治が若干の憐れみを込めて美乃梨に視線を送ると、当の美乃梨は力なくゆらりと立ち上がって怨めしそうな顔を見せる。

「遥ちゃんが小学生レベルなの忘れてた…」

 遥が遂に自分の気持ちに真っ向から応えてくれたものと思っていた美乃梨は、その場でがっくりと肩を落とし落胆すること頻りだ。

「えっ…あれ…?」

 こうして誕生日を祝う為に集まってくれた以上、少なくともここに居る皆からは好かれているものと思っていた遥は、友人達が自分の親愛の気持ちに対して何やらがっかりしている為、自分の一方的な好意だったのかもしれないと感じて、ふと不安になってしまう。

「皆はボクの事…本当はあんまり好きじゃない…のかな…?」

 俯き加減になった遥が、自分の胸元をぎゅっと握って不安げな上目遣いになると、その儚くも可憐な様子に一同は思わず息を飲んだ。

「あっ…めっちゃ好きっす」

 淳也は遥の見せた余りの愛らしさといじらしさに親愛以上の気持ちを感じて口を滑らせているものの、その性格上一過性の物であり言葉としては適当なので問題が無いだろう。

「嫌いな相手に三年間も近況報告を続けはせん…」

 自尊心の分厚い亮介は、純朴な遥やノリのいい淳也とは違い、おいそれと友人に対して「好き」等と口にはしないが、遥はそんな亮介の性格を分かっていた為に、その気持ちは十分伝わった。

「マリはずっと遥くんの事大好きだよぉ」

 いつもの三割増しでニコニコとした真梨香が素直に遥の気持ちに応えれば、初めから好意的だった光彦もボソリと「俺もだ」と簡潔な言葉でだがはっきりとその意思を表明する。

「勿論あたしも遥ちゃんが大好きだよ!」

 それまで落胆に肩を落としていた美乃梨も、他の友人達に対抗する様に俄かに気を持ち直して、遥の愛情が例え親愛の情であろうとも自分の気持ちは変わらないと、へこたれない強い意志を示す。

「だ・か・らぁ…」

 美乃梨は満面の笑顔で両手を広げ、変わらない熱烈な愛情を早速行動で表そうとしたがしかし、いち早くそれを察知していた賢治がすかさず間に割って入って来た為に敢え無く阻まれてまった。

「ぐぬぬ…」

 美乃梨は低く唸って賢治に抗議の視線を向けるも、ふとその表情をチシャ猫の様にニヤッと歪ませ、賢治を真っ直ぐ見据えながらも遥に向って問い掛ける。

「遥ちゃん、賢治さんはまだ遥ちゃんから好きって言ってもらってないよ?」

 美乃梨が指摘した通り、賢治は自身に対しては遥の想いを確認させていなかった為、この場面ではただ一人だけ遥から「好き」と言ってもらえていない。

「お、お前っ…!」

 しかしそれは賢治が既に遥の気持ちを確認済みである事と、自身の抱える想いを前にその言葉を真っ向から受ける事を躊躇してわざとそう仕向けていたのだ。そこへ来て美乃梨のこの指摘は余計なお節介以外の何物でもなかった。

「んー…」

 遥は美乃梨の指摘を受けて口元に人差し指の背を当てしばし考えを巡らせる。

「じゃあ折角だから…」

 考えた末に遥がその気持ちを示すことを決めて賢治の袖を引っ張ると、できればそれを回避したかった賢治はぎこちない動きでゆっくりと遥へと向き直った。

「お、おう…」

 賢治と向き合う形になった遥は、ちょっと小首を傾げる様な上目遣いで賢治をじっと見つめて、これまで賢治と積み重ねて来た時間や、今の身体で目覚めてからの事を思い返して、これは好きなんて一言では片付けられないかもしれないと、いつも傍に居てくれる賢治に対する想いを新たにする。

「あのね、ボク賢治の事―」

 遥は胸の内で確かめた想いを、他の友人達に示した様に臆することなく伝えようとしたがしかし、不意に自分の顔が何やら熱を帯びている事に気が付き、思わず言葉を止めてしまった。

「あ…あれ? ごめん、ちょっとまってね…」

 自らの異変に気付いた遥は、両手で自分の頬を抑え、さっきまではこんな事は無かった筈なのにと戸惑いを感じながら、ふと胸の内に心を妙にソワソワとさせる謎の感情が芽生えている事に気が付いた。

「ハル…どうした…?」

 遥が何やら急に困惑した様子を見せた事で、賢治は何事かと心配になってしまい、思わず遥の肩に手を掛けその顔を真っすぐに覗き込む。

「あ…あの…ね…ボク…」

 遥は何とか気持ちを落ち着けようとするも、肩に触れる賢治の大きな手の感触とその真っ直ぐな眼差を前に、胸の内にある謎の感情はどんどんその主張を増して大きくなるばかりだ。

「あ、あの…ボク、賢治の事…だい―」

 困惑を圧して何とか好意を示そうとしたが、それと同時に謎の感情は到底無視できないレベルにまで膨れ上がって、あまつさえ動悸が激しくなり、遥は結局その言葉を口にすることが出来なくなってしまう。そんな遥の顔は、今や熱を帯びているという段階を通り越して耳の先まで真っ赤だった。

「ハル…熱でもあるのか?」

 遥の真っ赤な顔を目にした賢治は、それが体調に起因するものだと考えた様だったが、これは見当違いも良い所である。

「ん、遥ちゃんどうしたの? 具合悪いの?」

 賢治の言葉で何やら異変が起きていると気が付き、賢治の後ろから身を乗り出し遥の姿を伺った美乃梨は、その余りの様子に思わずぎょっとなった。

「は、遥ちゃん!?」

 賢治に見つめられ顔を赤らめて戸惑った様子の遥は、あまつさえその瞳を若干潤ませ完全に何か仕上がっている様子なのだ。

「なんだぁ、そっちが本命かぁ?」

 一部始終を見ていた淳也がお気楽な調子で核心に触れてしまうと、美乃梨がキッと睨みを利かせその軽い口を黙らせる。

「遥ちゃーん、違うよねー?」

 自分でけしかけておきながら、遥の見せている想定外の反応に焦った美乃梨は、猫撫で声になってその真意を問い質すが、当の遥は困惑頻りでその声も耳には届いていない。

「ぼ、ボク…あれ…? へん…だな…?」

 遥は胸の内で激しく自己主張する謎の感情と、それが大きくなるのに合わせて激しくなってゆく胸の動悸に苛まれ、その頭の中は思考と理性と感情が無秩序に飛び交いひっちゃかめっちゃかなかなりの混乱状態だった。

「ハル…本当に熱があるんじゃないのか?」

 賢治が引き続きの見当ちがいな心配をしてぐっと顔を近付けてくると、謎の感情は爆発的に膨らみ、胸の動悸は未だかつて経験した事のない程に激しくなる。そして、遂に遥はその理解不能な自身の心の動きに耐えきれなくなってしまった。

「ご、ごめん…!」

 遥は賢治を押し退ける様にして振り払うと一目散にリビングを飛び出してゆく。そしてそのままパタパタと階段を駆け上って三階の自室へと逃げ込んで行ってしまった。残された友人一同は唖然である。

「…乙女か?」

 淳也が思わず率直な感想を漏らすと、遥に逃げられ呆然となっている賢治と、出来上がってしまった遥の様子に愕然となっていた美乃梨以外の面々は、一様に納得の表情で深々と頷いた。

「さて、子供達よ、すまんが姫の気分が優れない為にパーティーはお開きだ」

 それまでキッチンの奥で夕食の仕込みをしながら様子を覗っていた辰巳が、少々呆れた様子でリビングに姿を現し二度ほど手を叩く。一同何か収まりの悪さがあるにはあったが、当の遥が抜けてしまったとなれば致し方ない、辰巳に促されるままに遥の誕生日会は敢え無く解散となった。


 辰巳によって一同が帰された後、賢治だけは家が直ぐ隣という事を理由に、他の友人達とは行動を共にせず、未だに奏家のリビングに居残っていた。

「辰巳さん、俺、ハルの様子を見てきます!」

 賢治が遥の自室へ向かおうと動き出すと、辰巳が回り込んでこれを制止する。

「賢坊、今日の所はお前も帰れ」

 辰巳はそう言って追い払う様な手振りを見せるが、賢治は引き下がらなかった。

「でも、ハルには俺が付いててやらないと!」

 遥の支えになってやりたいという使命感に燃える賢治を前に、辰巳は大きく溜息をつく。

「今お前が行って、遥にしてやれる事は何もねぇよ…」

 遥が小学生レベルなら賢治もまた小学生レベルだなと辰巳は苦笑する。遥が混乱しているのは、間違いなく賢治に対して、今までに無かった感情を芽生えさせているせいであり、そんなところへ賢治がノコノコと出向いて行った所で今は逆効果も良いところなのだ。

「ハルは…大丈夫なんですか?」

 傍から見れば遥の芽生えさせた感情が何で有るかは一目瞭然ではあったが、それを向けられた当の賢治はそれが何で有るかに全く気が付いていない様だった。

「遥は大丈夫だよ、お前が心配する様なアレじゃない」

 出る幕では無いと辰巳は強引に賢治の背中を押して玄関へと誘導する。

「い、いや、でも…」

 抵抗する賢治を無理やり押し進めながら、実弟といい弟分といい全く手のかかる事だと、辰巳は再び溜息を漏らす。もし賢治が遥の抱いた感情の正体に気が付いていれば、それは遥を愛しく思っている賢治にとっては福音以外の何物でもなかったはずなのだが、如何せんそういった繊細な心の機微には疎いのが質実剛健、謹厳実直を地で行く賢治の欠点だ。

「遥にゃ後で連絡させるから、ここは一先ず任せとけ」

 あくまで遥の事が気掛かりな賢治も、辰巳にここまで言われてはこれ以上食い下がる訳にもいかない。辰巳が自分よりもよっぽど広い視野を持って物事をうまく回していける事を知っているし、何より遥が信頼している実の兄である。

「じゃあ…、今日は帰ります…」

 玄関まで押しやられた賢治は渋々ながらも、ようやく帰宅の意志を見せ、遥の靴の倍は在りそうな大きなスニーカーに足を突っ込むと、その広い背中を小さくしぼませてトボトボと帰って行った。

「まぁ…揃いも揃って…」

 賢治を見送った辰巳はまた一つため息をついて、自室に閉じこもってしまった姫君をどうするかと思案する。遥が抱く賢治への想いが賢治同様親愛の気持ちを振り切ってしまったのは見て取れたが、予想以上に早くその時が訪れたというのが辰巳の印象だった。

 賢治に対しては少々乱暴ながらも、有りのままを突き付けてやればそれで何とかなったものの、遥の場合はもう少しデリケートに行かなければならない。賢治はその真面目な性格上理解に苦しんだ面は有ったが、それ以上に三年間募らせていた遥に対する隠し得ない想いがあったし、遥が現状愛らしい女の子であるという受け入れやすい材料も揃っていた。しかし遥の場合はまた事情が異なる。賢治への想いが振り切れた今でも、恐らくその精神面は男としての自意識を色濃く残したままで、その上遥は感情よりも理屈や理性を強く優先する傾向があり、尚且つその価値観は恐ろしいまでに凡庸なのだ。そんな遥に向かって男の親友に特別な感情を抱いてしまっている等と突き付ける事は現段階ではリスクが大きいと言わざるを得ないだろう。

「さてどうした物か…」

 辰巳が階段の先を眺めながら何か良い方策はない物かと思案していると、「ただいまー」という声と共に仕事から帰った母の響子が玄関の扉を開け姿を現した。

「あら辰巳、そんな所でどうしたの?」

 玄関ホールで待ち立ち尽くしていた息子に怪訝な目を向ける母の姿を認めた辰巳は、顎の無精ひげを撫でつけながら、これ以上ない方策を思いつき母の帰宅を心より歓迎する。

「いやぁ、お袋、良い所に帰って来てくれたなぁ」

 賢治には任せておけと言った物の、今回の件は些かデリケートに過ぎると、少々重荷に感じていた辰巳は、そのバトンをより適任と思われる母へと託すことを決めたのだった。

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