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1-4.十歳の身体

 遥が三年の空白より目覚めてからおよそ二週間が経過した。リハビリはそれなりに順調で、上半身はほぼ自由に動かせる様になり、まだたどたどしくはあったが会話もできる様になってきた。立って歩く事は難しいが車椅子に乗れば比較的自由に病院内を動き回る事も出来るし車椅子にもちゃんと一人で移る事が出来た。

 諏訪医師の言っていた通り、遥の新しい身体は極めて健全で健康な人間と変わりない。遥のリハビリは肉体のリハビリと言うよりも、身体のコントロール方法を忘却している脳のリハビリと言った方が正しいかもしれない。三年間肉体から切り離されていた脳は一度身体記憶をリセットされており、今は一からその操り方を覚え直している最中だ。リハビリに掛かる期間は本人次第といった処だが、二週間で車椅子を扱えるまでになったのは非常に優秀だという。

 それは遥の必死の努力の賜物なのだが、その必死の努力には理由があった。それというのも遥にはどうしても一人で院内を自由に動き回れるようになりたい事情があったのだ。それはトイレである。

 おむつ等もっての他だったし、尿瓶を使っての行為も年頃の遥には精神的にかなりくる物があった。目覚めてから最初の数日、例の恰幅の良い看護師の手によって行われたそれらは遥の羞恥心の限界を超え、猛然とリハビリに励ませる原動力となったのだ。

 目覚めてから二週間、おぞましい羞恥プレイの経験以外に、新しい身体にはいくつもの発見があった。

 まず驚いたのは世界の見え方の違だった。十歳前後の身体を通して見る景色は明らかに今迄のそれとは違っていた。車椅子のせいもあるがそれを差し引いてもとても目線が低い。そして物のスケール感が当時のそれとはまるで違って見えるのだ。大柄な人物だと思っていた諏訪医師も実はこのスケール感の違いからくる錯覚で、実際は中肉中背の平均的な体格の人物であった。因みに現在の遥の身長は一四〇センチ足らずで、事故以前の身長は一七〇センチを超えていたのでその差は三十センチ以上四十センチ未満といった所だ。

 それから次に驚いたのは声だ。当然の事だが十歳前後の幼女の身体から発せられる声はそれ以前の変声期を終えた十五歳男子のそれとは全く違う物だ。甘さをうかがわせつつも澄みやかなその音色は、発声のリハビリをまだ完全には終えていないせいもあり、ややたどたどしく舌っ足らずに発せられる言葉と相まってかなり幼い印象だった。最初はそのあまりの違い様に自分で喋ろうとしている言葉を他の誰か小さな女の子が代読しているような気分だったが間違いなく遥自身が発している声なのだ。

 そして小さな体の感覚や聞きなれない声以上に、なにより遥を驚かせたのは十歳前後の幼女となってから初めて鏡で自分の姿を目の当たりにした時の事だった。遥の遺伝子情報を素に遥の復元を想定して作られた身体なのだから、いくら十歳前後の幼女になったからといって、元々の外見からそうはかけ離れてはいないだろうと予想し、何となくこんな感じ、と思い浮かべていた少女版の自分像という物が漠然とあった。しかし新しい身体になってから初めて鏡を前にした時、そこに映し出されたのは遥が想定していた姿とは大きく違っていた。

 肩まで伸びた少し癖のある柔らかそうな黒髪。少女特有の丸みを帯びた整った輪郭、ぱっちりとした二重瞼の黒目がちな瞳、高くはないが筋が通った形の良い鼻立ち。うっすらと桜色に色づく控えめながらもふくよかな唇。全体的にふんわりとした印象を与えるその姿は、客観的に見てかなり愛らしい美少女だった。あまりの別人ぶりに目の前にある物が本当に鏡であるか疑わしくなり、しばらくあれやこれやと妙な動きをして確認したがそれは間違いなく鏡で、映し出されているのは遥自身だった。その様子を通りがかった看護師がほほえましい視線で見ていたのは遥にとっては少しばかりの痛手だった。

 この外観のあまりの違いっぷりはどういう事なのかと諏訪医師に問い詰めたところ、そもそも今回遥に施された再生医療は同じ物を複製するという事ではなく、あくまで本人の遺伝子情報を素に拒絶反応のない五体満足な新しい肉体を造り出すという物で、その外観の形成にはいくらかの振れ幅があり、加えて遥の場合は性染色体情報が書き換わった影響もあるとの事だった。通常であれば再生後整形外科手術で可能な限り元の顔を復元するそうなのだが、性別も年齢も変わってしまった遥はその限りではなかった。十歳前後の幼女だった奏遥という人物はこれまで存在してこなかったのだから復元のしようがないのだと言う。因みに脳を身体に移植したばかりだというのに髪の毛がふさふさなのはどういう事なのかとついでに尋ねたところ、急速成長を促されていた肉体の副産物だとの事で、その影響はもう残っていないと諏訪医師は心配性の遥の先回りをして釘を刺してくれた。


 遥は車椅子に座り病室の窓際からぼんやりと外を眺め思い悩む。病院生活というのは基本やる事がない。リハビリと診察を終えれば後はただ無為な時間があるばかりだ。だからだろうか、自分の身に起こった事柄の特殊性も相まって、つい色々と考え込んで良くない思考の迷宮に迷い込んだりするのだ。遥がここ数日迷い込んでいるのは、自分はいったい何者か。そういった迷宮だった。

 自分はいったい何者か。それは時に直面した若者を自分探しという名の逃避行へ駆り立て、数多の偉人達が様々な理屈屁理屈を用いて定義してきた人間なら誰しもが抱え得る議題。だが遥のそれはそういった感傷的だったり哲学的だったりするそれらとは少し様子が違う。もっと単純な問題なのだ。目覚めてから数日で実感したあまりにも違う自分の身体、そして遥の心に深く突き刺さった違う生き物という言葉。それらが混ざり合い、ついにそれは自分が奏遥ではない全く別の人間なのではないかという妄想にまで肥大化していた。

 両親は今の遥を確かに自分達の子だと言ってくれている。遥自身にも奏遥として生きてきた十五年間の記憶がある。ただ、それは本当の事なのだろうか。事故で三年間意識を失っていて目が覚めたら十歳前後の幼女になっていた等と言うとんでも話の後では、自分の記憶が誰かに創られた偽物かもしれないなどという突拍子もない思い付があり得る事の様に思えるのだ。

 今日の診察の際、諏訪医師に素直にその事を話してみると豪快に笑い飛ばされた。記憶、つまり人間の脳はそんな簡単にどうこうできる物ではないし、医者と言う立場から君が奏遥という人間である医学的根拠をいくらでも提示できる。そう一蹴されてしまったのだ。

 だが、それでも遥の心がスッキリと晴れる事は無かった。確信が欲しかったのだ。諏訪医師の言う医学的根拠などという四角四面の物ではく、心から自分は奏遥だと言える確信が。

 病室の窓際からぼんやりと外を眺め考える。自分は確かに奏遥だと確信できる心の拠り所が欲しい。それはいったいどんな物だろうか。眺める視線の先、病院に面した道路沿いを歩く制服姿の二人組が目に入った。その光景に遥は無二の親友、賢治の姿を思い起こす。確かに賢治以上に遥の事を知る人物はいない。賢治ならばきっと自分が奏遥だという確信を与えてくれる。しかしそんな頼れるはずの親友の存在が今はただ遥の心を欝々とさせた。

 目覚めてから二週間、賢治とはまだ会っていない。遥が両親にまだ伝えないでほしいと頼んだため、賢治は未だに遥が新しい身体になって目覚めた事を知らされていない。

 気持ちの整理がついていなかった事も勿論だが、少なくともちゃんと話ができるくらいまでにはリハビリを経てから会おうと決めていた。親友に対し不甲斐のない姿を晒すのが恥ずかしかった。気持ちの整理はリハビリに打ち込んでいる間に自然とつくだろう、当初はそうどこか楽観視していた。しかしリハビリを開始し、自分の身体の事を一つ一つ確認する事で、自分の想定はかなり甘い物だったという現実を突き付けられた。結果として整理のつかなかった気持ちは益々混沌とし、今ではもう賢治に会う事が恐ろしくなっていた。「違う生き物」その言葉が遥の胸に深く突き刺さっている。

 もし賢治に、お前はもう違う生き物だから今まで通り親友ではいられない、そう言われたら遥はきっと立ち直れないだろう。それどころかもしかして自分のいない三年の間に賢治すでに自分の事など忘れてしまっているのではないだろうか。そんな自らの想像に恐怖する。十五年間を共に過ごしてきた無二の親友、だが今はどうだ? 答えは出ない。確かめ様がなくまた確かめる事が恐ろしい。有り余る時間に考えすぎる思考は深い底なし沼の様に遥を飲み込んでゆく。


「遥、調子はどう?」

 底なし沼に浸かりかけた遥の思考にストップを掛けたのは母の響子だった。時計を見ると午後五時三十分を過ぎた辺り。会社勤めをしている響子が終業時間ぴったりに職場を出て真っすぐ病院へやってくると大抵この時間だ。時には昼食休みを利用して訪れる事もあったが大体はこの時間帯だった。

 遥は車椅子を操って響子の方へと向き直ると母に心配を掛けぬよう平静を装い「げんき」と舌っ足らず言葉足らずに答えた。響子はそんな息子改め娘の様子に顔をほころばせる。我が子がどんな姿になったとしてもそれは変わらず愛おしいものだと思っていたが、響子にとって現実はそれ以上だった。以前からしっかりと我が子には愛情を持って接してはいたが、今ではその愛らしい見た目の影響も多分にありただただ遥の事が可愛くて仕方がなかった。

「遥、新しい着替え持ってきたからね」

 そう言って持っていた紙袋を遥に手渡す。手渡された紙袋に遥は嫌な予感がして中身を取り出し無造作に広げてみると、やはりその予感は当たっていた。

 淡いピンクがかったオレンジに白いドットの柄、袖口と襟元にはフリルがあしらわれ、左右に縫い付けられたポケットにはリボンが揺れている。いかにも女の子らしい可愛いデザインのパジャマだ。遥は予感的中のその可愛らしいパジャマを紙袋に戻し、努めて冷静になるべく嫌悪感を現さないよう「ありがとー」と一応の感謝を示す。それはかなり棒読みな発音だったが響子はまだリハビリ中でうまく発音できないのだ、と都合よく解釈する。

 響子は遥が目覚めてから色々と身の回りの物を持ってきてくれているのだが、そのどれもこれもが可愛らしい女の子然としたデザインの物ばかりなのだ。因みに今遥が着ているパジャマもそうで、もこもことしたタオル生地に所々丸いファーがあしらわれ極めつけに猫耳フードが備わったこれまた可愛らしい一着だ。

 遥は母の持ち込むそんな諸々の品に少々うんざりとしていた。確かに身体は十歳前後の幼女なのだが、頭の中身は十五歳の男子だ。いくら身体が幼女になったからといって急に少女趣味に目覚める訳はなく、できればもっと普通の、男物とまでは言わないが大人しめのデザインにしてほしいと思うのだ。

 しかし遥はそれを言い出せないでいた。それは三年間途方もない心配をかけてしまったという負い目があるからだ。事故以前の記憶よりも少しやつれた様に見える母の横顔が強くそう感じさせた。そんな母が今は実に嬉しそうに、幸せそうに、溌剌としている。そんな母の元気な様子は少なからず遥の気持ちをもいくらか明るくさせてくれている事もまた一つの事実で、ついあれこれ考えて落ち込んでしまう遥の一つの支えになっていた。無下に扱えるはずがない。

 遥の身の回りを整えたり、洗濯物を纏めたりしながら響子が喋る他愛のない話に遥が相槌を打ったり、差し入れられた果物を剥いたその手ずからそれを遥の口元に運ぼうとして嫌がられたり、そんな調子で三十分程が経った時、病室の壁に掲げられた時計をちらりと確認した響子はその針が指し示す時間を認めて一瞬恨めしそうな顔を見せる。

「ごめんね遥、お母さんこれからまた会社に戻らないといけないの」

 響子はそう言って優しく遥の頭を撫でると手早く帰り支度を整え始めた。遥の出した洗濯物の入ったバッグを肩にかけながら、スマートフォンの画面を確認する。最後にもう一度遥の頭を撫でて「またくるから」そう名残惜しそうに言い残して響子は少々足早に病室を出て行った。

 響子を見送った遥はベッドの方へと向き直り、母の置いて行った紙袋から改めて例の可愛らしいパジャマを取り出しそれをベッドの上に広げてみる。今着ている猫耳フード付きパジャマも相当な物ではあるが今回の物はそれに輪をかけていっそう少女趣味だ。確かに今の外見ならば恐ろしく良く似合うだろうがやはり女の子然とした物には抵抗を覚える。しかし今後この身体で生活していかなければいけない以上、こういった物にも慣れていかなければいけないのだろうかと、そんな事を漠然と思ったがその事については一旦保留とする事とした。

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