2-21.友人
遥の高校復学が目前に迫った三月の下旬、復学に先立つ面談で女の子として生きると覚悟を決め、光彦の友情を目の当たりにし残りの友人達とも連絡を取り合ったあの日から、遥はそれまで以上に前向きになって気持ちを充実させていた。
淳也と亮介には既にLIFEを通じて幼女になってしまった経緯と現状は説明済みで、賢治と一緒に撮った写真を証拠として提示した事が功を奏し、二人共その事に理解を示してくれている。その事もまた遥の気持ちを前向きにするのに大きく貢献している事は云うに及ばないだろう。
そして今日、遥は退院してから初めてになる月一定期検査を病院で受け、凡そ三週間ぶりに会った諏訪医師から身体の健全振りについて太鼓判を押してもらった為、今後の高校生活に向けては心身共に順風満帆の態勢である。
検査を終え病院を後にした遥が賢治の運転する車に揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると、平日の昼中にも拘わらず街中に私服姿の若者がちらほらと見られる事に気がついた。
「学生はもう春休みかなぁ?」
遥が思い至った事を尋ねると横で運転する賢治は前を向いたまま若干首を傾げさせる。
「あー、もうそんな時期かもな」
大学生である賢治は二月の後半から既に春休みに入っていた為、ハッキリとした事は分からなかったが中学高校時代の経験を思い返し、確かにそうかもしれないと遥の疑問を肯定した。
「じゃあ淳也も春休み入ってるよね?」
助手席から遥が身を乗り出すようにして問い掛けると、運転中の賢治は一瞬だけちらりと目線を向けて「多分な」と曖昧な返事を返す。専門学生である淳也の年間スケジュールについては賢治の預かり知らぬところではあるが、春休みが有るとすれば中高生と同じ様な時期に、同じくらいの期間だろうと想像できた。
「それなら淳也もちょっとは時間作れるかなぁ?」
質問ばかりの遥に賢治は少し苦笑して「多分な」とまた曖昧な返事を返す。美容専門学校に通っている淳也は昼間学校に通い、夕方から夜に掛けては実地を兼ねた美容室でのアルバイトに忙しいようで、そんな為に遥は未だ淳也とは直接会えていなかった。
「どうせなら皆で一緒に会いたいなぁ」
折角再開するなら昔良くつるんでいた五人全員で会いたいと、遥はそう考えていたがしかし、淳也は学校とバイトが忙しく、亮介は遠方の大学に通う為に今は街を出て一人暮らしをしているので地元にはいない。結局遥が三人の友人の中で直接会えているのは予定外だった光彦だけなのだ。
「ねぇ賢治、亮介はこっちに帰ってこれない―」
新たな質問を投げ掛けようとした遥の言葉が終わるよりも早く賢治がその頭を軽くかき乱す。
「―かにゃぁ」
不意に頭を触られ言葉の後半を噛んでしまった遥は、小動物の鳴き声の様だった自身の声にはっとなり、むぐっと自分の口を両手で押えると、それまで賢治に向けていた視線をさっと窓際に逸らした。
「ハル、お前いま『にゃあ』って言っただろ」
賢治が前を向いたまま口角を上げるニヤリとした笑みで今し方の鳴き声を追求すると、遥は明後日の方を向きながら白を切る。
「なんのことか―」
遥がそこまで言いかけたところで道路の凹凸を乗り越えた車内がガクリと揺れた。
「―にゃぁあ」
予期せぬ振動に再び言葉の後半を噛んで鳴き声の様になってしまった遥は、また両手で口元を抑えてゆっくり賢治へと視線を向ける。運転中の賢治はきっちり前を向いたまま引き続き口角の上がった笑みで、二度も小動物の様に鳴いた遥を愉快そうに笑っていた。
「もー! 賢治わざとでしょ!」
賢治のにやけ顔が少々癪に障った遥は袖をぐいぐいとひっぱり抗議するが、対する賢治は微動だにせず滞りない安全運転を続け、結局自宅に辿り着くまでその笑みを絶やさなかった。
病院から自宅へと戻った遥が賢治を伴い、兄の辰巳に帰宅を報告しようとリビングの扉を開けたその時、遥の身に予期し得ない出来事が降りかかる。
突如鳴り響いた無数の破裂音、鼻孔を掠める微かな火薬の匂い、舞い散った色とりどりの紙吹雪と紙テープ、そして待ち受けていた予想外の顔ぶれ。
目の前で起こった出来事に呆然として立ち尽くした遥の頭の中に「えっ?」という一語が無数にひしめき合う。状況を整理しようと必死で思考を働かせようとするも、余りに思いがけない事態を前にしてその思考は上手く働かなかった。
「遥ぁ! お帰りぃ!」
呆然とする遥に対し今し方発砲したと見られるクラッカーを手にして、やけにテンションの高い陽気な口調でウィンクしながらそう言ったのは淳也だった。
「中々いい反応だぞ」
中指で眼鏡を押し上げながら事態の呑み込めていない遥に向かってニヒルな笑みを見せたのは亮介に他ならない。遥はつい先刻自宅に戻ってくる最中に淳也と亮介に会えるのは何時だろうかと、そんな内容の事を賢治に問い掛けたばかりだった為、さっきの今でまさかの二人纏めての再会など予想外もいいところである。
「えっ? あれっ? えっ?」
リビングで待ち構えていた三年ぶりの再会となる友人二人を前に、遥が一体全体何がどうなっているのかと混乱していると、光彦が遥の頭にかかっていた紙吹雪と紙テープを柔らかい手つきで払いのけてくれた。
「賢治! 淳也と亮介だよ! それに光彦も!」
我に返った遥が振り返り、室内を指さして目にしたままの光景を訴えかけると、賢治は口角を上げたニヤリとした笑みを覗かせる。その表情から察するに賢治はこの事を事前に知っていた様だ。よもや賢治の仕込みだろうかと遥が考え出した瞬間、その思考を突然の柔らかい衝撃が中断させる。
「遥ちゃん! あたしもいるよ!」
朗らかにそう言って勢いよく背中にのしかかって来たのは美乃梨で間違いはないが、遥はますます混乱してしまった。友人達三人が居た事ですら驚きだったのに、その上美乃梨まで加わっては最早何が何やら全く分からない。
「マリもいるよぉ」
ゆるい口調で自身の存在をアピールした真梨香が更に遥の混乱に拍車をかける。
「えっ? 賢治何これ? どゆこと?」
美乃梨に後ろから抱き着かれながら、どういう事か説明をして欲しいと遥が視線を送ると、それを受けた賢治は美乃梨を引きはがしつつ、遥の身体を正面へと向けた。
「取りあえず、中に入ろう」
賢治に促されリビングに入った遥は、改めてそこに控えていた顔を順に確認する。無造作にセットされた茶色い髪と陽気な笑顔が眩しい淳也、キラリと光る黒縁の眼鏡とニヒルな笑みが涼し気な亮介、切れ長の眼付が一見すると強面な無表情の光彦。それに加え朗らかな良い笑顔の美乃梨と、ゆるくニコニコと笑う真梨香。そして後ろには幼馴染で親友の賢治が控えている。そこには現状遥の考え得る友好度の高い友人達全てが一堂にして会していた。
「ハル、今日は何月何日だ?」
賢治は事態を呑み込めずその場に立ち尽くすばかりでいる遥の肩をポンと軽くと、リビングの壁に掛けられているカレンダー付のデジタル時計を指し示す。
「今日は…、えっと…三月二十八日…」
賢治に言われるまま今日の日付を読み上げた遥はそこではっとなった。
「ボクの誕生日!」
黒目がちの瞳をまん丸に見開いて驚きを顕にした遥に、リビングに集った一同が満面の笑顔を見せ、そして淳也が「せーの」と掛け替えを掛ける。
「「誕生日おめでとう!」」
遥以外全員の声が遥を祝う言葉で重なった。
「皆…」
自身の現状に手一杯で誕生日の事などすっかり考えの外だった遥は、予期せぬ友人達からの祝福に思わずジンとなって嬉しさのあまり涙が出そうになる。
「ありがとう…」
遥はこぼれかけた涙を指先でぬぐって、友人たちの気持ちに対して心からの笑顔を送り返した。そんな遥の愛らしい表情を認めると、淳也と亮介は顔を見合わせてハイタッチを交わす。
「大成功だな!」
満足げな笑みで淳也がそう言うと亮介もそれに頷き眼鏡をクイッと押し上げる。
「新幹線に乗って帰って来た甲斐があった」
どうやら亮介はこの日に合わせ、わざわざ遠方から駆けつけてくれた様だ。淳也にしても今まで多望な様子で中々時間を作れないと言っていたのに、二人がこうして自分の為に時間を作ってくれた事が遥には堪らなく嬉しかった。
「二人とも、大変なのにありがとう…」
友人達の心意気に遥が目を細め感激を顕にすると、淳也が遥に向き直り白い歯を覗かせ少し悪い笑顔を見せる。
「いやー、遥はほんと昔から素直でこういの仕掛けがいあるわぁ」
さも裏が有りそうな淳也の笑顔と口ぶりに遥が「えっ?」と聞き返すと、それには眼鏡を怪しく光らせる亮介が答えてくれた。
「考えてもみろ、俺はともかく淳也は今でも近所に住んでいる。いくら忙しいと言っても会おうと思って会えない訳がない」
淳也は小学校以来の友人なので当然その住まいは徒歩でも行ける圏内だ。専門学校とバイトが忙しくて時間を作れないと淳也から聞かされていた遥はその事に何の疑問も抱いていなかったが、確かに言われてみれば近所に住んでいるのだから、顔を見せるくらいの事はいくらでも出来たはずである。
「えっ? じゃあ今日の為にわざと会ってくれなかったの?」
遥の問い掛けに淳也と亮介は同時に頷き、計画通りだと得意げに笑う。
「中々連絡を寄越さなかった遥へのちょっとした仕返しっつうの?」
淳也の言い様に完全にしてやられた事を悟った遥だったが、こんな仕返しならばいくらでも受け入れられると友人達の思惑はむしろ嬉しくすらあった。遥が友人達のサプライズに殊更感激していると、不意にキッチンの方から何やら香ばしい甘い匂いが漂ってくる。
「おーい、スポンジ生地焼けたから、女の子達デコレーション手伝ってくれー」
甘い匂いを作り出していた犯人である辰巳がキッチンの奥から声を上げると、東中ペアーズの二人が「はーい」と息の合った声と共に辰巳の元へと向かってゆく。どうやら辰巳は遥の為にとバースデーケーキを手作りしている様だ。
近頃女の子として生きていくのだと決意を固めていた遥は、辰巳の言った女の子達の中には自分も含まれるのではないだろうかと思い付いて、それなら自分もと辰巳の元に向って手伝いをしに行こうとしたが、そんな遥の肩を光彦と賢治が同時に掴んだ。
「遥は主役だろ」
かぶりを振って言葉少なに言った光彦は、遥は働かなくても良いと言っている様で、賢治もそれに頷きを見せ僅かに苦笑している。
「あっ…そっか…」
つい女の子という単語につられ行動しようとしていた遥も、主賓であるところの自分が手を出す事は一種礼を欠く行為だったと思い改めその場に留まった。
「しっかし、遥はすっかり女の子してんなぁ」
女の子達と言われ行動を起こそうとした遥を愉快そうに笑う淳也は、遥のその姿を上から下までと言った風にまじまじと観察する。今日の遥は袖のゆったりとした白いブラウスに襟元がU字に開いた水色のエプロンドレス風ジャンパースカートという出で立ちで、不思議の国のアリスを彷彿とさせるその姿は誰がどう見てたって可愛い女の子と言った風体だ。
「遥は何でも形から入るタイプだしな」
亮介の言う事は遥の性質としては間違いではないのだが、女の子らしい服装に関してばかりは遥本人の意志でとは言い難い所があるので、それについては若干の心外である。
「お母さんがスカートしか買ってくれないんだよ…」
遥が少々口を尖らせ抗議すると亮介は眼鏡を押し上げ遥の服装を一瞥して頷きを返す。
「確かに遥のセンスじゃないな」
妙に納得した様子でシニカルな笑みを見せた亮介は、暗に遥のファッションセンスを否定している様だったが、実際の所その点に関しては自信のない遥は返す言葉もない。
「可愛いぞ」
光彦が無表情で臆面もなくそんな事を言ったので、遥はたまらず脱力して賢治の方へと向き直る。
「賢治ぃ…」
友人三人からそれぞれ好きなように言われ賢治に助けを求めた遥だったが、賢治は賢治でその服装や容姿ばかりでなく遥自体を可愛いと思っているので助け舟の出しようがない。
「あー、まぁ…いいんじゃないか?」
頼みの綱だった賢治が曖昧な対応を見せた事で遥は妙なアウェイ感を覚え頬を膨らませいじけて見せる。そんな遥を愉快そうに笑っていた淳也は不意に真顔になると声のトーンをやや落とし耳打ちする様に遥にぼそりと質問を投げ掛けた。
「自分の胸とか揉んでみた?」
思わぬ問い掛けに遥はぎょっとして顔がみるみる赤くなってしまう。淳也のそれは確かに男子であれば必然的に思い至るであろうある種健全な発想だったが、いざ自分の身になってみると中々冷静ではいられない物で、加えて遥にはそれが出来ない明白な理由があった。
「淳也、それは愚問だぞ」
顔を赤らめ答えられずにいる遥に代わって、淳也に向き直った亮介が不敵な笑みを浮かべて遥の胸元をビシッと指し示す。
「女の子と言えど遥に揉める胸など無い!」
堂々とそう言い放った亮介につられ男子一同の視線が思わず遥の胸元に注がれる。確かにそこには亮介の言う様に揉めるような膨らみは一切認められず、ただただ平坦なラインが続くばかりで、それを確認した皆は一様に納得と憐れみの表情を遥に向けた。
「もー! 皆酷いよ!」
若干涙目で遥が抗議すると淳也と亮介はわざとらしく笑い声をあげ、光彦は相変わらずの無表情で何やらしきりに頷きを見せ、賢治は一人遥のいち早い成長を願ったのだった。




