2-19.予定外と想定外
面談を終え四月から再び通う事になる高校を後にした遥は、そこからさほど距離の離れていない広々とした公園でベンチに座り休憩を取っていた。平日の午前中な事もあり周囲に人の姿は殆ど見られず閑散としたもので、遥の座るベンチから確認できるのは斜め前方で黙々とキャッチボールをしている中高生くらいと見られる二人組の少年だけだ。
静かな公園内にテンポよく響くキャッチボールの音に気を引かれた遥は、少年たちの間で行ったり来たりする白いボールをぼんやりと目で追いかける。自分も高校の昼休みなどには友人達とキャッチボールに興じていた事を思い出すが、かつて毎日通っていた通学路の道のりですら疲労困憊な今の身体ではキャッチボール程度の軽い運動でも大変な負担だろう。高校に辿り着いた時には体力作りを考えはしたものの、今は疲労感のせいもあって四月からはバス通学もいいかもしれないと思いつつあった。
遥は引き続きキャッチボールする少年たちをぼんやりと眺めながら、平日のこの時間帯に公園に居るという事は、早めの春休みを迎えた卒業生だろうかとその素性を想像する。一方の顔つきはまだ若干の幼さが残っている様に見えるので四月から高校生、つまり同級生になる年代なのかもしれないなと思い至る。流石に同じ高校という可能性は低そうだがこの近隣の住民ならば目と鼻の先にある高校を利便性から選択する事もあり得るので無くは無いかもしれない。もう一方は遥の位置からは背中しか見えないので年代を判別する事は難しいがきっと少年の同級生であろう。
遥が取り留めもなくそんな事を考えていると、面談中に鳴っては不味いとマナーモードに設定してあったスマートフォンがコートのポケットの中で短く振動した。
特に慌てる事も無く遥がスマホを取り出すと待ち受け画面には賢治からメッセージが届いている旨を知らせるタグが表示されており、そのタグをタップし中身を確認すれば昼から家に行っても良いかどうかを尋ねる内容だった。遥と賢治は昔からお互い暇であればどちらかの家でダラダラと時間を共有するのが習慣なので今回もその類だろう。遥もこの後家に帰ってからは別段何の予定も入っていないので特に断る理由がない。
遥が早速と賢治に了承を伝える為のメッセージを作成しようとしたその時、それまでキャッチボールの音くらいしかしていなかった静かな公園内に突然「危ない!」という張り詰めた声が響き渡った。
その声に反応した遥が顔を上げたその刹那、視界を遮る様に眼前へ割り込んできたグローブがパシッと乾いた音を立てる。
恐らくキャッチボールをしていた一方の少年が制球を誤ったのだろう。予期せず遥の方に飛来したボールをもう一方の少年が寸前でキャッチした様だった。
「大丈夫か?」
遥が突然の事に呆気に取られているとボールをキャッチした人物が遥の顔を覗き込み、低音の響く抑揚の薄い声でそう問い掛けて来きた。
「あっ…だいじょうぶで―」
問われるまま自身の無事を答えようとした遥は、間一髪で自分を危機から救ったその人物の顔をハッキリと瞳に捉えたところで思わず言葉を止めてしまった。
「ナイスキャッチ! 光彦兄さん!」
制球を誤った少年が口にしたその名前を耳にして遥の全身が総毛立つ。
「みつ…ひこ…」
半ば無意識にその名前を繰り返し、遥は改めて目の前にいる人物を凝視する。切れ長の鋭い目付きが印象的な一見すると強面な無表情。遥はその顔を、その人物を以前から知っていた。
遥が男子高校生だった頃、遥には賢治以外で特に親しくしていた友人が三人いる。一人は賢治が「タケ」と呼ぶお調子者の竹達淳也。もう一人は寺嶌亮介という眼鏡をかけたインテリ風の優男。そしてもう一人が今目の前にいる光彦、塚田光彦だった。
「驚かせて悪い」
短く謝罪の言葉を口にした光彦の姿は、元々大人っぽかった事もあり三年の歳月を経てもまるで変っていないように見える。しいて言えば以前よりも幾分か背が伸びている気がするが、それは遥の視点が変わってしまった事に依る錯覚かもしれず、確かな事は分からない。ただいずれにしても、その無表情で抑揚の薄い朴とつした佇まいは間違いなく遥の記憶にある通りの友人光彦の物だった。
「智輝、お前もこっちきて謝れ」
光彦が手招きをすると少年が遥の元まで駆け寄って来きて、バツが悪そうに人差し指で鼻をこすりながら「ごめんね」と頭を下げる。よくよく見れば智輝と呼ばれたその少年も遥は以前何度か目にした事があった。光彦は三人兄弟の長男で智輝は確か一番下の弟だ。当時は小学生だったので成長して見違えたその姿にそうとは気付けていなかったのだが改めて近くで見れば微かに面影が有る。
「あっ…えっ…と…」
予期せぬ友人との遭遇に遥の頭の中は軽いパニック状態だ。遥は未だに友人達と会うための心の準備を済ませておらず、依然としてスマホによる連絡も行えていない。そんな状況で友人の一人を前にしてどうしたらいいのかが分からなくなってしまっていた。適当に誤魔化してこの場から立ち去るという選択肢もあり得たがしかし、遥はいずれ心の準備が整えば友人達と再会するつもりでいたのだ。ここで逃げ出して後で改めて再会というのもいかにも気まずい。
「本当に大丈夫か?」
目を見開いて言葉も出ない様子の遥を改めて覗き込むようにした光彦は、無表情ながらもその瞳に目の前の女の子の様子を気遣う優しさを垣間見せていた。そんな感情が読み取りにくいところも三年前とまるで変っていない。予定外の再会を果たした友人を前に遥がどうしたらいいのかと混乱していると手にしていたスマホが突如振動した。
「ひぁっ!」
混乱していた事と突然だった事で遥は思わず小さな悲鳴を上げて、持っていたスマホを半ば放り出す様にして取り落としてしまう。しまった、と遥が咄嗟に手を伸ばすもその短い手は虚しくも空を掴み、スマホはそのまま重力に引かれて地面へと向かってゆく。買ってもらったばっかりなのにと、絶望しかけたその時、遥が捉えそこなったスマホを智輝のグローブがキャッチした。
「セーフ!」
智輝がこれで名誉挽回だとばかりに誇らしげな笑顔を見せる。
「はいこれ、落としたよ!」
グローブに収まったスマホを利き手に取った智輝は、ちょっとはにかんだ様子でそれを遥にむかって差し出してきた。弟の智輝は兄の光彦とは違って表情豊かである。
「あ、ありがとっ!」
礼と共に智輝の手からスマホを受け取った遥が未だ振動を続けているスマホの画面を確認すると、そこには賢治からの着信を示す表示が大きく映し出されていた。恐らく遥がメッセージの返信をしていなかった為に直接通話を寄越して来たのだろう。今光彦の前で賢治の通話に出るのはかなり気が引けるため逡巡するがスマホは依然しつこく遥を呼び続ける。
「出なよ」
スマホを受け取った遥が画面を凝視しながら固まっていると、光彦が無表情にそう言った為に遥は賢治からの通話に出ない訳には行かなくなった。一旦保留にして後回しにしても良かったのだが混乱して判断力を欠いていた遥にはその選択が思いつかなかったのだ。
意を決した遥は焦りによって定まらない指先で応答をタップしてスマホを耳元へと持ってゆく。
「は、はいっ…」
遥が妙に嫌な汗をかきながらも第一声を発すると、落ち着きのある賢治の声が周囲にもハッキリと聞こえる音量でスピーカーから響き渡った。
『ハル、今家じゃないのか?』
賢治の声量が大きかった訳ではない、焦っていた遥が誤ってハンズフリーで応答するアイコンに触れてしまっていたのだ。
「ご、ごめん賢治! 後で掛け直すから!」
想定外の事態に慌てた遥はスマホに向ってそれだけ言うと勢いよく通話終了の赤いアイコンをタップする。これで一先ずこの場は乗り切ったかと遥は一旦胸を撫で下ろしかけたが、直ぐ様うっかりと賢治の名前を呼んでしまっていた事に気が付いた。いくら焦っていたとはいえ間抜けすぎると自分の迂闊さを激しく後悔するがしかし時すでに遅い。賢治が「ハル」と呼んだのと遥が「賢治」と返したのを完全に光彦に聞かれてしまっただろう。
通話を終えたばかりのスマホをぎゅっと握り遥が恐る恐る光彦の顔を伺うとその表情は相変わらずの無表情で何を考えているのかは読みとり辛いがしかし、状況から言ってこれはもう心の準備等と悠長な事を言っていられる様な段階ではない。光彦に自分の正体を明かすのは今この場面しかないと遥は人知れず決断を余儀なくされた。
「あっ…あの…、えっと…ね」
腹をくくった遥は何と説明したらいいかと混乱する頭で必死で言葉を探すが、うまく話しの道筋が定まらずに、口から出るのは意味をなさない感嘆語ばかりである。
「えっと…ボク…その…」
遥が言うべき言葉を見つけられず手間取っていると光彦が目を細めゆっくりと口を開いた。
「…お前…遥か」
今からその名前を明かそうとしていた遥は、光彦の方が先にその名を口にした為に愕然となって黒目がちな大きな瞳を見開き一層まん丸にする。
「えっ…あれ? えっ?」
確かに遥にとっては言い逃れのできない要素が揃ってはいたが、それでもその姿は以前とはまるで違う十歳前後の幼女なのだ。遥は何故という疑問と混乱から光彦を見やるが無表情な中で唯一その感情の機微を推し量れる瞳を覗き込んでも別段平然としている様に感じられる。
「奏遥だろ?」
光彦の迷いも疑いもない低音の響く声に遥は完全に圧倒されてしまった。
「そう…だけど…、えっ?」
これまで名乗る前に幼女である自分を遥だと認めたのは、事前にその事を知らされていた賢治と辰巳くらいの物なのだ。辰巳は例外としても賢治は少なからず戸惑いを見せたし、もっと言えば事前知識なく遥の方から正体を明かした竜造や真梨香に至っては当然大きな驚きを見せていた。それに引き換え光彦は賢治とのやり取りと言う状況証拠があったとは言え自ら率先し目の前の幼女を遥だと認めそれに疑問を持った様子もない。
「えっ?…えっ? 何で?」
自分が遥である事に疑問を持たない光彦に遥の方が疑問を抱かざるを得ない。
「何でって…逆に何でだ?」
質問の意味が分からないと光彦はその疑問をそっくりそのまま遥につき返してきたので、物分かりが良すぎるのも考え物だと遥は頭を抱えそうになってしまう。
「だって、ボク幼女だよ!?」
堪らず遥は有りのままの事実を具申したが光彦は相変わらず動じなかった。
「…幼女だな」
遥の姿を一瞥して確かにそうだと同意をするが、だからそれがどうしたのかと言わんばかりで、そんな光彦を前に遥は急激に全身の力が抜けていく。
「光彦兄さん、この子と知り合いなの?」
二人のやり取りを見ていた智輝が尤もな疑問を口にすると光彦は短く「ああ」と頷き返し特になんの説明もなく回答はそこで終わりだった。
「えっ? どういう知り合い?」
光彦が詳細を語らなかった為に疑問を増やした智輝は遥と光彦を交互に見やって、戸惑った様子である。大学生である兄と十歳前後の幼女が知り合いというのは考えるまでもなく不自然に感じられたのだろう。弟の疑問を受けた光彦は眉間に拳を当てて考え込むような仕草を見せたが直ぐにそれを解いて智輝の方に向き直った。
「遥だよ」
ベンチに座る遥を指し示して実に簡潔な説明をしてのけるが、果たしてそれは説明になっているのだろうかと遥は苦笑する。そんな必要最低限の事も言わない光彦の様子も以前とまるで変わりがない。
「いや、全然わっかんねーし!」
光彦の説明はやはり全く伝わっていなかった様で、智輝は意味が分からないと朴とつな兄にやや憤慨気味だ。遥としてもその気持ちは良く分かるので智輝に同情すること頻りである。
「えっと、ともき君? あのね…」
これは自分が説明した方が早そうだと遥が智輝に向って語り掛けると、智輝は少しびっくりした顔を見せたが兄に話を聞くよりは有意義そうだと感じたのか遥の話に耳を傾ける姿勢を見せてくれた。
「ボク、元々は光彦の同級生なんだ」
遥がそう告げると智輝は眉をひそめ怪訝な眼差しを向けて来る。
「いや、小学生っしょ?」
遠慮のない智輝の言葉は遥の自尊心に突き刺さったが、先程自分自身でも幼女と言ったばかりなので強く否定もできない。
「えっと…、交通事故で元の身体が無くなっちゃって、今は小さい女の子なの」
ちょっとむくれた遥が掻い摘んで今自分が幼女である事の経緯を説明すると智輝は驚愕に目を見開いてしきりに遥の姿を観察し始めた。遥はそれまでまるで手ごたえの無かった光彦に翻弄されていた為に、これこそが本来のあるべき反応だと変に安心してしまう。
「だからボク、智輝君より年上なんだよ?」
心に余裕の戻った遥が小学生呼ばわりしてくれた軽いお返しだと、ちょっと悪戯っぽく笑って見せると智輝は顔を赤らめ遥から視線をそらしてしまった。遥はその様子を自分の誤りを恥じての事だろうと考え、プチ仕返しは成功したようだと一人満足げに笑う。
「淳也と亮介には会ったか?」
遥が智輝とのやり取りを終えたのを見計らって光彦は他の友人二人の名前を挙げてきたが、光彦との再会すら予定外だった遥は当然会っているはずもない。
「えっと…賢治以外だと光彦が初めてだよ」
遥が素直にその事を告げると光彦は一言「そうか」とだけ応えてしばらく何も言わなかったが、遥は光彦の無表情な面持ちの中で複雑な心情を覗かせている瞳に気が付いた。遥にはその瞳が物語る感情全てを読み解く事は出来なかったが、一つだけハッキリと分かった物がある。
「あいつらも心配してるぞ」
低い抑揚の薄い声でぽつりと呟いた光彦の言葉で遥はその感情の正体を確信した。光彦は今、三年ぶりの再会を果たした友人に対して腹を立てていると。
感情の起伏が乏しい光彦だがそれは無感動とは違う。表現しないだけでその心の中には人と同じだけの感情をしっかりと持っているのだ。そんな光彦が三年間姿を消していた遥に対して何の感慨も抱かない筈がない。光彦は言った、あいつら「も」と。光彦とて事故に遭い生死をさまよっていた遥の事を当然の様に心配に思っていたのだ。そして今、光彦は遥が身体を取り戻し意思疎通ができる様になっていたのに自分や他の友人達と会おうとしなかった事に腹を立てているのだ。
「光彦…」
遥は目を伏せ友人の想いにまで気が回っていなかった自分の浅はかさを省みる。幼い女の子になってしまった自分を友人達に見られるのが怖かった。友人達がどんな反応を見せるのか勝手にマイナスの想像を膨らませて恐れていた。そんな自分の感情ばかりを優先して、友人達の気持ちに目を背け再会を先延ばしにしてきたのだ。
「光彦ごめん!」
無表情な中でただ一つ雄弁な光彦の瞳を真っすぐ見つめ、遥は友人達の想いに応えられていなかった自身の至らなさを懺悔する。友人達が自分を心配してくれている事など少し考えれば分かる筈だったのに、それに気付けないでいた自分は愚か者だと後悔を噛みしめる。
光彦は何も応えなかったがその瞳には腹立ちだけではない、再会の喜びや、遥の抱える物に対する思い遣り、そしてほんの僅かな戸惑い。そう言った友人としての当たり前の感情を覗かせていた。
「光彦…ありがとう…」
光彦の感情に応える遥の言葉は、友人の想いに応えんと万感の思いを込めた精いっぱいの言葉だった。それを認めた光彦はすっと目を細めその瞳に宿していた様々な感情を一つの物に纏め上げる。
「ああ」
相変わらず簡潔で言葉少なに頷いた光彦は、それまで無表情だったその顔にわずかだがハッキリと笑みを浮かべていた。それは普段無表情な光彦が時たま見せる最大の感情表現である事を遥は知っている。そんな光彦の気持ちに応えるために、遥も心からの笑顔を見せ、二人は三年ぶりの再会を喜びの感情と共に分かち合った。




