2-18.覚悟と未来
菅沼教諭の手を引いて約束の場所を目指す遥は、道中すれ違う学校関係者から好奇の視線を浴びせられつつも菅沼教諭のフォローもあって特に咎められる事なく、程なくして所定時間前ギリギリではあったが無事に指定されていた談話室と呼ばれる部屋の前まで辿り着く事ができた。
職員室の横に設けられているその部屋は、通常であれば教職員が来客と相対する時に利用する部屋であるため生徒は普段利用する事が無い。もしその部屋に入る必要が有るとすればその生徒は何か重大な問題を起こしたか抱えているかのどちらかであり、遥も在校時にそういった生徒がこの部屋に入っていく光景を一二度目にした事があった。
遥はそれらの生徒達がいずれも保護者に付き添われ打ち拉がれた様子だった事を思い出すと、入室を前に言い知れぬ緊張感を覚えてしまう。罰せられる為に呼ばれている訳ではないが幼女化という特殊で大きな問題を抱えているのは事実だ。
もしかしたらこの面談で復学を取り消されてしまうかもしれない。そんな不安に駆られた遥が気後れして扉の前で逡巡していると、付き添いの菅沼教諭がそうとは気付かず遥に先立って談話室の扉をノックしてしまった。
「菅沼です、面談に来たという女の子を連れて来たのですが」
ノックと共に菅沼教諭が室内に声を掛けるとしゃがれた女性の声で「どうぞ」と返事が返って来くる。遥はまだ心の準備が完了してはいなかったがこうなっては流れに従うより他ない。
「失礼します」
扉を開けた菅沼教諭が遥の手を引いて一礼と共に談話室に入室すると、遥もそれに倣って「しつれいします」と緊張しながらも後に続いてゆく。室内は意外と明るい印象で白い布張りの応接用ソファーセットが対面する形で配置されており、向かって正面の席には柔和な印象を受ける年配の女性が腰を掛け、その斜め後ろには厳格な面持ちをした壮年の男性が後ろで手を組むピシッとした直立姿勢で遥を待ち受けていた。
「奏さんね」
成人男性と手を繋ぐ小さな女子という構図を微笑ましく感じたのか、年配の女性は顔をほころばせながらその小さな女の子が約束の人物であるかどうかを確認する。
「はい、奏遥です」
年配女性の柔和な笑顔に少し緊張感のほぐれた遥が確かに自分が約束の人物である事を明瞭に返答すると、付き添いの菅沼教諭がやや驚いた顔を見せた。
「本当にウチの生徒だったんだね」
菅沼教諭は遥の主張を半信半疑でいた様だが上司にあたる人物がその身元を認めている以上もう疑う余地がないだろう。
「先生、ありがとうございました」
橋本氏の手から救い出してくれた事と、ここまで付き添ってくれた事に対して遥が礼を述べると菅沼教諭は「疑ってすまなかったね」と優し気な笑顔を見せ握っていた手を離してくれた。
「菅沼先生、案内ご苦労様でした。どうぞ授業に戻ってください」
年配の女性にそう告げられた菅沼教諭は、遥の事が気になる素振りをみせつつも、後はもう自分の出る幕ではない事をしっかりと弁え素直にそれに従う意思をみせる。
「では、僕は授業に戻ります」
年配女性と壮年男性に一礼をして最後に一瞬優しげな眼差しを遥に向けた菅沼教諭は「失礼します」と一言残し教師としての職務へと戻る為に談話室から退室していった。
「それじゃあ奏さん、コートを脱いで座ってちょうだい」
菅沼教諭の退室を見送った年配の女性は改めて遥の方に向き直って柔和な笑顔で、手前に二つ並んだ一人掛けのソファーを手で指し示す。遥はそれに促されるまま大きめのピーコートを脱ぎセーラーカラーのワンピース姿になると一度会釈をしてから自分に近い方のソファーに腰を下ろした。
「私は校長の桃井です。こちらは教頭先生」
遥の着席を認めた年配の女性が自己紹介と共に後ろに控える壮年の男性を手で示すと、壮年の男性も首肯し「教頭の八谷です」と自らも名乗り出る。
「奏遥です…、あっ、えっと…、よろしくお願いします」
少し戸惑いながらも改めて名を名乗りソファーの上で会釈をした遥は、自分の服装が目に入ってセーラーカラーと言えど私服で学校に来てしまった事を咎められはしないだろうかとピントのずれた不安に駆られてしまう。しかしそんな不安の甲斐もなく、対面する二人は場違いな服装については特に何も触れてはこなかった。
「今日貴方を呼んだのは、貴方と直接会ってお話がしたかったからよ」
遥が幼女になってしまった経緯は事前に両親が説明済みで、病院の診断書も提出してある為その件に関しては学校側も了承済みである。その為今回はその事には触れず、当初遥が聞かされていた通りに本人の状況と意志の確認を行うのがこの面談の目的だ。
校長と教頭という普段はあまり接する事がないタイプの人種を前に遥が緊張して固くなっていると、対面する桃井校長は一層柔和な笑顔になって目を細めた。
「それにしても可愛いらしいわねぇ」
唐突に桃井校長からその容姿を褒められた遥だったが、遥本人は可愛いと言う単語を幼さに対する評価だと常々思っている為、先刻その幼さのせいで大変な目に遭ったばかりなのもあり高校生をやるには幼女過ぎると言われているように感じられ不安になってしまう。
「小さすぎてダメ…ですか?」
遥がその不安を口にすると桃井校長は一瞬驚いた表情を見せたが直ぐにまた柔和な笑顔に戻って遥の不安を払拭してくれた。
「発育度合いは人それぞれだから大丈夫よ。ねぇ教頭先生?」
同意を求められた八谷教頭もそれを首肯したので、幼女である事は特に問題視されていないと分かり遥は一先ず胸を撫で下ろす。遥の場合は発育が遅れていたり止まったりしている訳ではなく、純粋に幼女の身体なだけなのだが、いずれにしてもその事に関してはもう心配する事はなさそうだ。
「ところで、貴方自身がどう思っているのか一つ聞かせて欲しいのだけれど」
桃井校長が口にしたその言葉は唯の前置きに過ぎなかったのだが、遥はそれを質問だと早合点して何か答えなければと思わず焦って言葉に詰まってしまう。
「えっ…と…どう…と言われても…」
戸惑った様子で言い淀む遥の様子に桃井校長は一瞬目を細めると、真剣な面持ちになって深みのある眼差しで真っすぐに遥の瞳を覗き込んできた。
「私は貴方を直接この目で見て当校で女生徒として扱っていけると確信できたのだけれど」
そう前置きを増やした桃井校長は本来の質問を遥に向って投げかける。
「貴方は女生徒としてやっていく自信はあるのかしら?」
遥にとってその問い掛けは、幼女である以前のもっと根本的で最も答え難い問題だった。
「あっ…え…っと…」
心を推し量る様な桃井校長の眼差しと、難解な議題を前に遥は再び言葉に詰まってしまう。遥は自分の身体が女の子だという事は受け入れられているが、女の子として生活していくかどうかはまたベクトルの違う問題なのだ。スカートや女の子らしい下着を身に着けるのには依然として若干の抵抗があるし、周囲から女の子として接せられる事にも未だに違和感を覚えている。しかし学校側はそんな遥を完全に女の子として扱う事になる為、それに対する遥の心積もりはどうなのかと確認してきているのだ。
「例えば体育の着替えなんかは他の女生徒達と一緒になるけど貴方は大丈夫?」
女生徒として学校生活を送る上で起こり得るシチュエーションの一端を提示された遥の脳裏に先日温泉に行った際の記憶が蘇る。年頃の女の子二人を前にしてすら目を回してしまったのに、それがひとクラス分ともなれば到底大丈夫とは思えずついその状況を想像して顔が真っ赤になってしまった。
「その様子だと貴方が他の女生徒に悪さをする事はなさそうね」
遥が余りに初心な反応を見せたので桃井校長は上品に笑い八谷教頭は小さく嘆息するが遥は益々顔を赤らめ慌ててしまう。
「そっ、そんな事ボクにはとても…」
遥とて元は健全な男の子なので女の子の身体になった当初はそんな妄想を抱かなかった訳ではないがしかし、元々奥手で異性に免疫が無い上、実際の所は遥よりも周りの女性達が遠慮のない距離感を見せる為、遥はその度困惑して逃げ出したくなっている自分がいる事を身を以て体験している。故に今では悪さなど到底できよう筈もないと妄想すらも抱けなくなっているのが現状だ。
「そうねぇ、貴方はむしろ周囲から可愛がられちゃうタイプねぇ」
耳まで真っ赤になっている遥の様子を認め桃井校長は和やかに笑う。学校側にとってはかつて男の子だった遥を女生徒として扱う事は、羊の群れに狼を放つ様な事かもしれないという危惧が当然としてあったのだろう。しかし遥という人物を目の当たりにした今では、その純朴な反応と何より遥自身が他の誰よりもか弱い幼女である事から特に大きな問題にはならないだろうと認識されたようだ。
「さて、そうなると後は貴方自身が女生徒として上手くやっていけるかだけど」
桃井校長により本来の議題が再提起されると遥は現実に引き戻され改めて直面している問題の難解さに困窮する。しかしこればっかりは嘘や誤魔化しで切り抜けた所で自分の身に返ってくる事柄だ。現段階では素直に本心を告げるしかない。
「正直…、自信はない…です」
病院や自宅における生活では身体が女の子である事を認識させられながらも、自身の心持ちとしてはあくまで奏遥という十五歳男子の精神ありのままでいる事を許されてきた。しかし学校社会で女生徒というタグを付けて生活していく以上そうはいかなくなる。それは遥にとって全く経験のない未知な事柄であり到底自信など持ちようもない。
不安な気持ちから遥が俯き加減になってしまうとそれまで沈黙していた八谷教頭が口を開いた。
「それでは困るな」
その言葉は厳しい物だったが、誰よりも困ってしまう立場にあるのは遥自身であり遥もその事を理解できるために益々俯き加減になって言葉に詰まってしまう。
堪らず縮こまりその小さな身体をさらに小さく見せた遥の様子に、桃井校長は手厳しい八谷教頭を嗜めことさら柔和な笑顔を遥に向けた。
「そうねぇ、急には無理よねぇ」
理解を示してくれる桃井校長を前にしても、遥自身はこのままでは高校生活その物が無くなってしまうのではないかとあらぬ焦燥感に駆られ、本当に自分は女子高生としてやっていけるのかと自問する。自宅に戻ってからの数日間ですら様々な出来事に翻弄されその度挫けそうになっていたのに、その上女子高生という全く未知の世界に飛び込んでいく事には正直恐怖すら覚える。しかし、運命の分岐点を通過したあの日以来、遥にはもう選択肢など残されてはいないだ。
「ボクはもう…女の子として生きていくしか無から…」
もう元の身体に戻る事は出来ない。そう生きていくしか道はない。遥の意志など関係なく運命は後戻りできない地点までとっくに来てしまっている。
「覚悟はしているんだね」
遥の複雑な心境を聞き届けた八谷教頭は先程よりは幾分か優しい口調だった。
半ば諦めの心境でそれしか無いと感じていた遥は「覚悟」と言われた言葉によって大切な事を思い出す。それは日常に戻った初日に歪んだ世界の中で一度は崩れ去ってしまっていた物だったがしかし、今でも想いその物までは失ってはいなかった。
遥は胸に手を当てその想いを確かめる。命の尊さ、生きる事の喜び、未来ある事の眩しさ、そしてそれを喜び共に歩んでくれる家族や友人。自分が今こうして生きて居られるのは彼らが願い、望んでくれた結果に他ならない。自分はそんな彼らの想いに応えたい。少しずつでも彼らに想いを返したい。そうする事でその想いはきっとまた巡り巡って自分の前に確かな道筋を照らしてくれるはずだ。心に暖かかく灯る想いを胸に遥は顔を上げ前を向く。
「ボクは…、女の子としてやっていきます」
そう口にした今でも女子高生をやれる自信などは到底ない。それでも一度取りこぼした高校生活を再び送る事には大きな意味が有る。それはこれから先の長い長い人生を女の子として生きていく為のファーストステップだ。そこを乗り越えられなければ到底明るい未来などありはしない。
今度こそ明確に覚悟の意志を示した遥を認めた桃井校長は柔和な笑顔で頷き、八谷教頭も厳格さを保ってきたその表情を和らげた。
「大変でしょうけど、頑張りましょうね」
桃井校長の思い遣りの籠ったその言葉に遥は取り戻した覚悟を胸に真っ直ぐな瞳で頷き返す。
「ボク、頑張ります!」
四月から女子高生。それがどんな日々になるのかは誰にも想像できない事だ。それでも遥は覚悟を胸に未来へ向かって進んでいく。




