2-17.学校
そろそろ三月も下旬に差し掛かろうかというある日の午前中、遥はクローゼットの前に立ちこれから出掛ける為に着ていく服をどうするかに頭を悩ませていた。赴く先はこの四月から復学する事が決まっている高校で、目的は学校側が希望した遥本人の状況と意志を確認する為の直接面談だ。
遥の価値観では高校へ足を踏み入れる為には、適切な装い、即ち制服を纏って行かなければならない事になっているのだが、四月から着ていく予定の制服は先日注文したばかりでまだ手元には届いていない。制服の持ち合わせがない遥は必然として私服を着て高校へ赴かなければならないが少々問題がある。響子が買い揃えた洋服はどれもこれもが高校という神聖な学び舎へ着ていくにはあまりにも場違い感甚だしい可愛らしすぎる物ばかりなのだ。
遥がクローゼットから引っ張り出した多数の洋服に囲まれ途方に暮れているとノックと共に兄の辰巳が姿を現した。
「そろそろ支度できてないと不味いんじゃないのかぁ?」
遥のスケジュールを関知していた辰巳は遥が中々降りてこない為に様子を見に来たようだ。しかし遥は依然として着て行くものが決められずパジャマ姿のままである。
「辰兄、ボク何着てけばいいかなぁ…」
遥が無数の洋服を前にしてまるで初めてのデートに着ていく服が選べない乙女の様になっていたので辰巳はついつい笑ってしまう。内心では着ていく服等何でもいい様な気がしている辰巳だが、困り果てている様子の遥はこのままじゃいつまで経っても埒が明かなそうだと、広げられていた洋服の中から一着を手に取って提示して見せた。
「おー、これなんかいいんじゃねーか?」
辰巳が選んだのは大きなセーラーカラーが可愛らしい藍色のワンピースで確かに見ようによっては制服っぽくも見える。遥の中でも最有力候補ではあったがしかし一つ気がかりがあった。
「うちの高校ブレザーなんだけど…」
渋い表情を見せた遥の拘りは辰巳にとっては相当にどうでもいい次元の問題だ。
「そんなもん見学に来た中学生のフリでもしとけよー」
そもそも何を着た所で幼女にしか見えないのでどのみち同じだろうと、適当な理由付けと共に辰巳は嘆息したが、意外にも遥は感心した表情で「なるほどー」と納得した様だ。
「ほら、早く着替えないと時間ねえぞ」
辰巳に言われ遥は時計を確認するがまだ所定時間の五十分も前で余裕がある様に思える。
「学校までは歩いてニ十分だからまだ大丈夫だよ?」
遥がお気楽な表情でそう言うので辰巳は溜息をつき一つ思い違いを指摘してやった。
「お前、今の短い脚じゃ高校まで三十分くらい掛かるぞ」
言われて気が付いた遥の顔がさっと青ざめる。完全に今の身体の事を計算に入れてなかったのだ。学校まで三十分は掛かるとなると残されている時間は残りニ十分。約束の十分前には到着していたいと考えていた遥にはもう悠長にしていられる時間はなかった。
「このままじゃ遅れちゃう!」
遥は辰巳の目も気にせず慌ててパジャマを脱ぎ捨て大急ぎで着替えを開始する。
「何だったら賢坊に車出させるか?」
辰巳は自身が遥を送って行ってやっても良かったのだが、遥に対する賢治の内情を知っているので賢治が少しでも遥と一緒に居られる様にと気を回したのだ。大学が春休み中の賢治は大抵午前中は家にいる筈で、例えそうでなくとも遥の為と有れば喜び勇んで駆けつけるだろう。
辰巳の示した魅力的な提案に遥は着替えの手を一旦止めて有りかもしれないと考えたものの、退院してからこっち賢治にはすっかりと頼りっぱなしなので、自分でできる事はなるべく自分一人ですべきだと賢治に甘え過ぎている自分の気持ちを嗜める。
「大丈夫、ボク一人でいけるよ!」
遥が独立心を見せたので辰巳も必要以上に賢治を押し付けるような真似はしなかったが、この事を知れば賢治は逆に残念がるかもしれないなと、賢治の複雑な心境を思い浮かべ一人苦笑した。
辰巳の見守る中、五分程で着替えを終えた遥は時計を確認して、今直ぐ出れば当初の予定通り少し余裕をもって学校に辿り着ける筈だと気持ちに勢いをつける。遥はその勢いのまま辰巳の横をすり抜けて部屋を出て行こうとしたがしかし、その小さな身体は辰巳の繰り出した屈強な腕に遮られ元の位置にまで押し戻された。
「辰兄、ボク急いでるんだけど!」
予定外に行動を阻まれた遥は少し口を尖らせ愛らしい顔で兄を見上げ抗議するが、辰巳は遥が飛び出していかぬ様にと抑えながら一つ忠告をする。
「今日はちょっと冷えるから上着てけ」
三月の中頃とはいえまだ寒い日も多く今日は晴れではあるが気温はそれほど高くない。遥も辰巳の言葉で薄手のワンピース一枚で出掛けようとしていた自身の出で立ちを省みて、確かにこれは寒そうだと再びクローゼットの前に立ち戻った。
「うわぎー、うわぎー」
クローゼットをひっかきまわして上着を探すが、折角制服に見えなくもないワンピースを着たのに響子が取り揃えていたアウターはどれもこれも無用にふわっふわとした乙女チックな物が多く遥は再び迷ってしまう。その間も時間は無常に過ぎ、このままでは所定時間に間に合わないと焦った遥はクローゼットの隅に掛けられていた一着のコートを手に取りそれを羽織った。
「これでいいや!」
遥が咄嗟に選んだコートは遥が中学に上がりたての頃に使用していた黒いピーコートで、成長と共に体格に合わなくなりもう随分と袖を通していなかった物だ。当然今の遥には少々大きいが男子高校生時代の物に比べれば幾分かはマシで何よりもデザインが落ち着いている。
「それじゃあ行ってきます!」
セーラーカラーのワンピースに大きめのコートを羽織った遥は幼女感が一層強調されていたが、辰巳は元々見た目に大して拘らない質で着る物などは機能していれば問題ないと特に気に留めず、何とかかんとか準備を終えた遥が慌ただしく出掛けていくのを苦笑交じりに見送った。
家を飛び出した遥は、かつて徒歩ニ十分程だったその距離を、兄の予測通り三十分は掛けながらもなんとか所定時間の十分前には学校に辿り着く事が出来た。走ればもう少しタイムを縮められそうではあるが、遥はまだまともに走れる程には運動能力を回復できておらず、体力面でもたった今歩いた距離だけでもかなりの消耗が見られる。遥は幼女になって初めて歩いた通学路に今後高校生活を送る上で解消しなければいけない課題を一つ認識させられた。
正門をくぐった遥は体力づくりの為に毎日ジョギングでもした方が良いかもしれないと、そんな事を考えながら、面談の為に指定された場所へ向かう為高校の敷地内を進んでゆく。正門からは校舎に続く石畳がまっすぐ伸びており、左手側には駐輪場、体育館、講堂と建ち並び、反対の右手側には多目的グラウンドと野球場、そして部室棟が併設されている。
遥にとっては体感二月程前まで毎日通っていた場所なので見慣れた物ではあるが、高校の敷地内を歩く可愛らしい幼女という光景はグラウンドで体育の授業に励んでいた生徒達には見慣れない物だったらしく皆一様に興味の視線を注いできた。
視線を感じ取った遥はセーラー服っぽい恰好でもやはり目立ってしまったかと気恥ずかしさを覚え足早になったが、実際は大きめのコートを羽織っているので中に着ているワンピースはスカートの裾くらいしか見えずかなりの見当違いである。
在校生から注がれた好奇の視線を受けつつも遥は程なく昇降口まで辿り着き、所定時間にはまだ多少猶予がある事を確認すると一先ずほっと胸を撫で下ろす。遥が一旦気持ちを整えてから二学期分慣れ親しんでいた校内に以前と同じ感覚で入ろうとしたその時だった。
「勝手に入っちゃダメだよ!」
不意に強い語調で背後から咎められ、遥はビクリと肩を震わせ後ろに振り返る。
「どこから迷い込んだんだ、まったく!」
振り返ったその先には作業着姿の体格が良い中年男性が一人怪訝な眼差しで遥を見下ろす様にして立っていた。遥がかつて男子高校生だった頃には見た事のない人物であるが、恰好から察するに恐らく教師ではなく用務員だろう。
「あ、えっと…ボク…面談に呼ばれて…」
見知らぬ人物に咎められた事により緊張してしまった遥はたどたどしく事情を説明したがしかし、用務員の男性はこれに全く聞く耳を持とうとはしなかった。
「ここは小学生が来るような処じゃないよ!」
語調を強め頭ごなしに遥を言い咎めた用務員の男性は、闖入者を強制的に連れ出そうと遥の腕を掴んで、その小さな身体を力尽くで引きずる様にして校門に向かって歩き出した。
「あっ、あの! ボク小学生じゃなくて四月から復学する生徒なんです!」
このまま放り出されてしまう訳には行かない遥は、その場で踏ん張り必死になって訴えかけるが、やはり用務員の男性はこれに耳を貸そうとはしない。
「下手な嘘つくんじゃないよ! どう見たって小学生じゃないか!」
どう見たって小学生という言葉は少なからず遥にダメージを与えたものの、今は悠長に落ち込んでいる場合ではないと、遥は更なる抵抗を試みる。
「本当なんです! 信じてください!」
引き続き必死で訴え掛けるも用務員の男性は最早遥の言葉をシャットアウトして、遥の腕を掴む力を更に強固な物にして強引に遥を引きずってゆく。
「い、痛いっ! 誰か、誰か助けて!」
きつく握られた腕に走った痛みと、このままではいけないという焦りから遥が藁にも縋る思いでつい声高にそんな言葉を口走ると、用務員の男性がピタリと足を止め腕を掴んだまま赤黒い顔で遥に向き直った。
「君ね! それじゃまるで私が変質者みたいじゃないか!」
ヒステリックな怒号にも近い荒々しい口調と、怒りに満ちた形相で上から迫られた遥は蛇に睨まれた蛙かの如く完全に委縮状態になってしまう。自分は何も悪い事をしていない筈なのにどうしてこんな目に遭うのか、自分の通っていた高校に入る事も許されないなんてどうしてなのか。そんなやるせない思いから遥の胸に悲しい気持ちがじんわりと湧き上がる。
「ぼ、ボク、ほんとうに…うっ…うぅ…」
腕の痛みと湧き上がった悲しみに堪らず遥が涙目になってしまと、これを目にした用務員の男性は一層目を吊り上げ尚更逆上した。
「泣けばいいってもんじゃないんだ!」
今度は明確な怒号の声と共に用務員の男性は空いている方の手を拳に握りわなわなと震わせ今にも遥に手を挙げそうな勢いを見せつける。遥は恐怖に竦みもう言葉も声も出せず涙を堪えるのが精いっぱいだった。
「ほら! とっとと出てくんだ!」
用務員の男性は手こそ挙げなかったが一層強引に遥を引っ張って再び正門へと歩き始める。話を聞いてもらう事も抗う事もままならず、遥がもう駄目かもしれないと絶望感に打ちひしがれていると、騒ぎを聞きつけたのか校庭で体育の授業を指導していたジャージ姿のまだ若い男性教師が駆け寄って来た。
「橋本さん、どうかされましたか?」
用務員の男性を橋本と呼んだ男性教師も遥には見覚えのない人物だったが、聞く耳を持たず興奮状態にある橋本氏よりかは話が通じそうだと僅かに希望を見出す。
「ボク怪しい物じゃありません! 今日は四月から復学する為の面談に呼ばれて来たんです!」
遥が腕を掴まれながらも若い男性教師ににじり寄り事情を説明すると、橋本氏はそんな遥を乱暴に引き戻し尚も興奮した口調で闖入者を捉えた自身の正当性を主張した。
「菅沼先生! この子校舎に忍び込もうとしてたんですよ!」
二人の主張を前にした菅沼と呼ばれた男性教師が腕を組み思案の姿勢を見せたので、遥はどうか自分の話を聞いてくれますようにと祈るような気持ちだ。
「橋本さん、とりあえず離してあげてください。痛がってますよ」
遥の祈りが通じたのか思案していた菅沼教諭は落ち着きのある口調で、大きな瞳に涙を浮かべ苦痛に表情をゆがめている遥の現状を申告しひとまずの状況緩和を提案してきた。橋本氏は冷静な態度でいる菅沼教諭を前にして若干手の力も緩めたものの未だ遥を解放するまでには至らない。
「ボク、本当に約束があるんです!」
遥は菅沼教諭を見上げ救済を求める懇願の眼差しで訴えかける。
「んー、何か事情が有りそうですし、ひとまず僕が引き受けますよ」
遥の必死な態度にほだされたのか菅沼教諭がそう進言すると橋本氏も「先生がそう言うのであれば…」と渋々ながらもようやく遥を解放しやや怨めしい視線を残しつつ校舎の裏手へと消えて行った。
「四月から復学するって言ってたけど、そうするとウチの生徒なのかな?」
橋本氏を見送った菅沼教諭が対話する姿勢を見せたので、やはり断然話の分かる人だったと遥は安堵したがしかし、余計な時間を食ってしまった為急がねばならない。
「奏遥と言います。酷い交通事故に遭って今まで休学していましたが四月から復学する事になっていて、今日はその為の面談があると言われて―」
時間が切迫している遥は名乗りと共に可能な限り早口で自分の事情を一気に説明したが言い終わるかどうかというそのタイミングで背後にあった昇降口の入口に掲げられている時計が目に入った。
「あぁっ! 時間…!」
時刻はもう間もなく遥が指定されていた刻限を回ろうかという時でもう一刻の猶予もない。
「ちょっと、僕には判断できないけど…」
菅沼教諭はそう前置きをするとあわあわとしている遥の前に手を差し伸べてきた。
「一緒に行ってあげるって事でいいかな?」
遥は菅沼教諭の顔と差し出された手を交互に見ながら、これは手を繋げという事なのだろうかと若干の抵抗感を覚える。しかし最早これ以上悪戯に時間を食う訳にも行かない為に渋々ながらも菅沼教諭の手を取った。
「それじゃあ行こうか」
菅沼教諭の手は大きくごつごつとしており、何より大人の男性と手を繋ぐと言う幼少期以来の行為はやはり遥にいくばくかの抵抗感を与えたが、付いて来てくれると言う申し出自体は校内でまた先程の様に呼び咎められたりする可能性を考えると有難くはある。
急がねばならない遥は一先ず手を繋ぐ行為の微妙さには目を瞑り、菅沼教諭の手を引いて先導し歩き始めた。しかし昇降口をくぐったところで、そう言えば自分は在校生では無いので下駄箱も上履きも無いのだと思い至って戸惑い足を止める。
遥が戸惑っていると菅沼教諭が「こっちだよ」と優しく手を引き来客用のスリッパが収められた箱まで誘導してくれたので、遥はそれを履きようやく校舎に入ることが出来た。




