2-14.誓い
遥が女湯の脱衣所で地獄を見ている最中、辰巳と賢治は既に身体も洗い終わり温泉に浸かって人心地ついているところだった。
「温泉は日本人の心だなぁ」
しみじみと言った辰巳の言葉に賢治も頷き身体の芯から暖まっていく心地よさを体感していたが、美乃梨と真梨香の元に残され今頃女湯に居るであろう遥の事を思うと気が気ではない。
「ハルは大丈夫ですかね…」
賢治の心配を他所に、実の兄である辰巳は鼻歌交じりに温泉を満喫中でお気楽な様子だ。
「賢坊は遥と一緒に入りたかったのか?」
辰巳のその一言に賢治はぎょっとしてしまったが、昔遥と初めて近所の銭湯に行った時の楽しかった記憶が蘇ると辰巳の言葉を一概には否定できなくなった。しかし今の遥が女の子の身体である以上、以前の様に気軽な裸の付き合いをという訳には到底行かない。
「もう、無理ですよ…」
望んだところで叶わない事柄を前に、賢治が一抹の寂しさ覚えぽつりと漏らすと、辰巳はそれを余裕の表情で笑ってのける。
「別に無理じゃねーだろ、遥は嫌がりゃしないぜ?」
その言葉を裏付ける様に、遥は先ほど男湯に来ようとしていた。女湯という完全アウェーの空間を恐れての事だろうが、いずれにしろ遥が共に男湯に入るのを躊躇わないだろう事は賢治にも想像できるところだ。しかしいくら遥が良くとも、遥を異性として意識してしまっている賢治にはあまりにもハードルが高い。
「ハルが良くても俺には無理ですよ…」
遠い目をして自身の心情を吐露した賢治に辰巳は苦笑する。
「賢坊は真人間だからなぁ」
賢治の事を幼い時分から見て来た辰巳は、賢治という人間がどういった性質の持ち主であるかをよく理解していた。生真面目で何事も真っすぐとしか見られない賢治にとって、今の状況はさぞ複雑な思いであろうとその心中を慮る。
「俺…ロリコンなんすかね…」
辰巳が何か助言の一つでもしてやろうかと考えを巡らせていた所に、賢治が真顔でそんな事を言ったので、辰巳は思わず吹き出してしまった。賢治がそこまで拗らせているとは流石に思っていなかったのだ。
「賢坊、お前面白れえなぁ!」
ひとしきり笑った辰巳は賢治の肩をバシバシと叩き尚も愉快そうな表情だが、真剣に悩んでいる賢治としては少々心外である。
「俺、結構本気で悩んでるんですよ!」
やや憤慨気味の賢治に対し、辰巳は片手を上げて「わりぃわりぃ」と謝罪の意志を見せたが未だにその表情は愉快そうに笑っているので賢治としては釈然としない。
「俺はマジで―」
賢治が前のめりになって尚も自身の真剣さを訴えようとすると、辰巳は掲げていた手の平を賢治の眼前に向けてその言葉を制止した。
「真人間のお前がロリコンとかあり得ないだろ」
やや呆れた調子でそう言った辰巳の言葉は、賢治自身幾度となく自問自答を繰り返してきた事だ。しかし幼く愛らしい遥を無用なまでに異性として意識してしまっている現実がある以上素直にそれを肯定する事が出来ない。
「でも俺…、ハルの事が…、その…すげえ…、か、可愛く思えて…」
改めて自身の口からその心情を吐き出し一人気まずさを募らせる賢治に、辰巳は少し優し気な面差しを見せ諭すようにして言った。
「今の遥は誰が見たってすげえ可愛いよ」
辰巳のその言葉は幾分か賢治の心を落ち着かせたが、同時に可憐で愛らしい遥の姿を思い起こさせる切っ掛けとなり、賢治は俄かに心拍数が上がるのを感じ取って堪らず頭を抱え込む。辰巳の言う様に遥の可愛らしさが誰の目にも明らかだとしても、幼女である事もまた明らかな事実であり、にも拘らずここまで心を搔き乱されるとなるとやはり導き出せる答えは一つしかない。
「やっぱり俺…ロリコンなんじゃ…」
結局同じ所に戻って来た賢治の拗れに拗れた思考を認めた辰巳は一つ大きな溜息をつく。
「賢治、いいか、俺の言う事をよく聞けよ?」
明瞭な口調と「賢坊」という通称ではなくはっきりと名前を呼ばれた事で賢治に緊張感が走った。昔から辰巳が明確に自分の名前を呼ぶ時は何か重要な事を告げるサインだと賢治は知っている。
「お前が遥を変に意識しちまうのは遥が可愛い女の子だからじゃない。可愛い女の子が遥だからだ」
真剣な面持ちで言った辰巳の言葉はまるで頓智問答の様で、賢治にとっては難解が過ぎ、どちらも同じ事の様にしか思えず混乱してしまう。
「どう…違うんですか?」
まるでピンと来ていない賢治の様子に辰巳は更に深く溜息をついて頭を掻きむしる。
「あー…、お前と遥はお互い良く知る仲で、信頼して尊重し合ってるよな?」
辰巳が突然二人の関係性について話し出したので賢治はますます混乱したが、問われた事には間違いが無いので質問の意図は分からずともひとまず頷き肯定する。
「俺はそう思ってますけど…」
困惑した表情を見せる賢治を認めつつ辰巳は両手を広げたオーバーリアクションで肩をすくめて嘆息と共に核心に触れた。
「そんな相手が可愛い女の子なら、惚れちまうのも無理ないさ」
さもありなんと言った辰巳の態度に賢治は思わず「えっ?」と聞き返し、それからややあって言われた言葉の意味を理解すると愕然として思わず湯船から立ち上がった。
「余計不味くないですか!?」
驚愕の余り抑えの利かなかったその声が浴室内に反響すると、他にも居た入浴客の視線が一斉に集まったので賢治は慌てて湯船に浸かり直す。
賢治はかつてない程心臓の鼓動が早まっているのを感じながら、先程辰巳が口にした頓智問答の様だった言葉の意味もようやく理解した。
賢治は遥が初めてワンピースを着たその日から、その可憐で愛らしい姿に心を惑わされ異性を感じてしまっているのだと思っていた。遥の自室で告白紛いの事を口走った際ですら、それは外見に対する感情だとばかり思い込んでいた。だからこそロリコンなのではないのかと自身に疑惑を掛けていたのだが、辰巳の示した事はそんな生易しい物ではない。
賢治を悩ませていた遥の愛らしい容姿は只のきっかけに過ぎず、遥が遥という個を心に宿したまま女の子になってしまったが為に、賢治にとって何よりも気の置けない関係性であったが故に、必然として女の子になった遥に「惚れて」しまったのだと言う。それは最早性癖がどうのと言う次元の問題ではない。
賢治が浮き彫りになった自身の感情に騒然となっていると、辰巳が人差し指を立て確信を持った面持ちで「もう一つ教えてやる」と言ったので賢治の背中に温泉で暖まった身体にそぐわぬ冷たい汗が流れた。
「遥が女の子になって無くても、お前はきっと同様の感情に行き当たってたよ」
賢治は再び湯船から立ち上がって信じられないことを言った辰巳を凝視する。
「いや、流石にそれは!」
再び周囲の視線が集まったが賢治はそれどころではない。遥が女の子になっていなくても、つまり遥が以前と変わらぬ男の姿であっても賢治は遥に惚れていたと辰巳はそう指摘したのだ。いくら何でも荒唐無稽が過ぎると思わずには居られない。
「遥のいなかった三年間を苦しく過ごしたお前は、今じゃ遥に対する感情が振り切れてんだよ」
ありえないと思っていた賢治は確信に満ちた真剣な面持ちで言葉を重ねた辰巳を前にはっとなった。そして「振り切れている」と言われた自身の感情を省みて一層愕然とする。
見えない遥の姿を追い続けた三年間、遥が戻ってからのこの一ヶ月半、遥の事を想う気持ちは本当に親友に対する親愛の情に留まっていたのか。今にして思えば遥を追い求めていた三年間に募らせていた感情はまるで恋い焦がれている様ではなかっただろうか。遥に再会してから言い知れぬ幸福感を覚えたのは寂しさが埋め合わされた事よりも愛しさが勝っていたのではないのか。自問するそれらの問いに真人間と評された賢治の理性は答えを出すことが出来なかったが辰巳の言葉を真っ向から否定できないでいるのも事実だ。
「そんな…」
同年代の少年だった遥、愛らしい女の子になった遥、その二つの姿が賢治の脳裏に並び立つ。白日の下に晒された感情はどちらの遥も同様に変わらず何より愛おしい存在だとそう訴えていたが為に賢治は最早認めざるを得なくなった。
「俺は同性愛を否定しないが、お前にとっちゃ遥が女になっちまった事は、ある意味じゃ良かったのかもしれないな」
呆然としている賢治にせめてものフォローだと辰巳は言葉を投げかけるが、それも今の賢治に届いているかどうかは怪しい。
「俺は…どうしたら…」
力なく項垂れる様にして浴槽にもたれ掛かった賢治は、自分が特殊な性癖なのかもしれないと頭を悩ませていた時とは比べ物にならない苦悩を滲ませていた。
「賢治、お前はどうしたい?」
賢治の心境を思い遣り目を細めた辰巳は苦悩に揺れる賢治のその心に問い掛ける。
「俺は…、俺は…」
賢治は浮き彫りになった遥に対する想いと理性との間で、自分の望みとは何かと自問するが到底答えなど出る筈もない。賢治にとって遥の親友という立ち位置はある種の絶対的な領域だ。しかしそれが今では自身の感情を前に崩れ去ろうとしている。
賢治はこれまで遥の親友として過ごしてきた膨大な時間に想いを馳せその掛け替えのない日々の尊さを噛みしめる。常にその隣を歩み、あらゆる感情を共有してきた何物にも代え難い無二の親友。遥が事故に遭う前も、遥が事故に遭ってから姿を消していた三年間も、そして変わり果てた姿で戻って来た今でも、心は常に遥に寄り添っていた。振り切れてしまったという感情を胸に抱えた賢治は脳裏に並び立つ遥の姿を直視できず目を逸らそうとしたが、その時二人の遥が心に触れて同時に微笑んだ。
『賢治、傍に居て』
それは、混沌とする賢治の心が見せたただの願望だったのかもしれない。だがそれは、同時に心の奥底で燦然と輝く最も確かなただ一つの想いでもあった。
「俺は…ハルの傍に…居たい…」
躊躇いながらも自身の願いを口にした賢治を認めて辰巳は満足そうに頷き優し気な笑顔を見せる。
「なら、お前は遥の傍にいてやってくれ。遥もそれを望んでる」
それが遥の為だと、そう言った辰巳は遥と賢治の兄貴分として、二人の心を思い遣る大きな愛情を見せていた。
賢治は遥の望みだとそう言った辰巳の言葉を噛みしめ、かつて傍に居て欲しいと願った遥の言葉と、ずっと傍に居ると応えた自分の想いを心の中心に据える。それは賢治にとって何よりも尊い遥と交わした違える事の出来ない絶対の誓いに他ならない。
「俺は、ハルが望む限り親友としてハルの傍に居ます」
遥に対する特別な感情を自覚した賢治は、今まで通り遥と接していけるかどうかには確信が持てないでいたが、それでも遥が必要としていてくれる限りは傍で支え続けていきたいと、それだけははっきりと明言出来た。
「ああ、今はそれで良いさ」
賢治の選んだ答えは、最善の選択ではあったが、同時に苦難の道である事を辰巳は知っている。そんな心境に追い込んだ責任感から辰巳は一つ希望を与えてやっても良いと思えた。
「賢坊、これはあくまで可能性の話なんだがな…」
そう前置きをすると賢治が食い入るような視線を向けて来たので辰巳は少し怯み「あくまで可能性の話だぞ?」と念を押す。
「遥は今でこそ中身は純然たる男だが、今後は身体や環境にひっぱられてその在り方を変えるかもしれない」
余りはっきり言うと過度な期待を抱かせてしまうと、辰巳はやや遠回しな表現を用いたが、賢治には上手く伝わらなかった様で眉をひそめている。理解の遅い賢治に焦れた辰巳は結局その意図を明確にしてやるしかなかった。
「遥が女心に目覚めてお前の気持ちを受け入れてくれる日が来るかもしれないって事だ」
その言葉を聞いた賢治は目を見開きまた湯船から立ち上がって両の拳をぐっと握りこんだ。
「俺、それまで待ちます!」
実に男前な表情で賢治はそう言ったので、一先ずこれで気持ちに整理が付けられただろうと辰巳は胸を撫で下ろす。
「まあ…気長に待ってやってくれ…」
辰巳は可能性の話と前提を置いたが、長い時間を掛けて遥がその心の在り方を変える可能性はかなり高いと踏んでいた。遥が形に囚われ易い性格なのを知っているし、現在進行形で女の子になってしまったという事実を受け入れ前向きに生きようと努めているのを近くで見ているからだ。また遥が完全に女心を目覚めさせなくとも、遥は遥で賢治の存在に大きく寄りかかっている為に、賢治同様その気持ちが振り切れる可能性も少なくない様に感じられる。もしかしたらそちらの方は意外と早い段階でやってくるかも知れない。いずれにしろ今後遥と賢治の関係性はタイミングさえ間違えなければ決して悪い様には転ばないだろうと辰巳は半ば確信していた。
「賢治…、もし近いうちに遥がお前の気持ちを受け入れられる日が来たら―」
辰巳は「その時は頼む」と続けようとしたが、仁王立ちで決意を固めている賢治の下半身に備わる男たる象徴が堂々とした姿でぶら下がっているのが目に入った為に、その平均を大きく上回るサイズ感からふと余計な気を回してしまった。
「性的な事はもうちょい育つまで待ってやれ…」
突然の飛躍した発言に賢治はぎょっとして辰巳の顔を窺うがその表情は至って真剣だ。
「た、た、辰巳さん! 何言ってるんですか!」
いくら遥が愛おしいと言っても、遥はまごう事無き幼女なので流石の賢治もそんな遥に対して性的な欲望を剥き出しにする程には物事見失ってはいない。
「これじゃ遥が壊れちまうな…」
ぼそりとそう言った辰巳の視線が自身の下半身に注がれている事に気が付いた賢治は、健全な男であるが故の想像力をうっかりと働かせてしまい辰巳の視線が注がれているその一点に熱が集約されそうになり慌てて首まで湯船に浸かって必死に心を落ち着かせる。
「勘弁してくださいよ!」
賢治はつい思い浮かべてしまった有り得ない光景を頭の中で打ち消しながら言い知れぬ罪悪感を覚え、心の中で遥に向って何度も何度も謝罪し、遥を身も心も絶対に傷つけたりはしないと決意を固くしたのだった。




