2-12.思惑
退院してから一週間足らずが経過し、事故後自宅で迎える初めての日曜の朝、遥は寝起きでまだぼんやりとした頭の中に多数の疑問符をひしめかせていた。
遥が今いるのは間違いなく自分の部屋で、自分のベッドの上な筈なのだがどうにもおかしい。自室の嗅ぎ慣れない匂は未だに違和感があるものの、過去の自分を受け入れた今ではもう不快とも恐ろしいとも感じなくなっていたので少なくとも環境のせいではない。そもそも今頭を混乱させているのはそういった目に見えない物等ではなく、もっと具体的ではっきりと形のある物だった。
「遥くん起きたのー?」
遥の頭を混乱させている原因その一が左側から間延びした独特な調子でそう言ってくる。
「ね、寝起きの遥ちゃん! ヤバい! ヤバすぎる!」
遥の頭を混乱させている原因その二は右側で朝っぱらからテンション高く興奮した様子だ。
遥は改めて今自分が置かれている状況を順番に整理する。今は朝で場所は自室で間違いがなく、自分はベッドの上で目を覚ましたばかりでまだ寝転がったままの態勢だ。そして何故かそんな自分を挟みこむ様にして、左隣にはうつ伏せで肘をついた真梨香がゆるい笑顔でにこにことしていて、右隣では添い寝をする態勢の美乃梨がこちらもある意味ゆるいだらしのない笑顔を浮かべている。
遥はひとまず自分の置かれている状況は分かったが、何故こんな事になっているのかが全く分からず頭の中の疑問符は減るどころかその数をいたずらに増やしただけだった。
「おはよう…?」
混乱すること頻りの遥はベッドから体を起こし、左右に居る二人を順に見回して一先ず朝の挨拶をしてみたものの、どう考えてもこの状況はおかしい。遥が身体を起こしたので右側にいた美乃梨も起き上がったが、左側の真梨香はまだうつ伏せで寝そべったままにこにことしている。
「えーと…二人とも何で居るの…?」
寝起きの未だ冴えないぼんやりとした頭で遥が一番の疑問を口にすると、真梨香もようやっと身体を起こして相変わらずのゆるい笑顔で遥の少し寝ぐせの付いた髪を手串で整えてくれた。
「マリは昨日の夜、賢治くんから九時に遥くんのお家に集合って言われてぇ」
真梨香は遥の髪を整えながら思い出す様にして事の経緯を説明し始める。
「言われた通り来たら花房先輩が遥くんに添い寝してたからぁ、マリも楽しそうと思って参加してみたのぉ」
以上で真梨香の供述は終わりだった様で、真梨香は自分の説明を反芻しているのか少し目線を上に向け一人で何やら頷いている。真梨香が美乃梨の事を花房先輩と呼んだので、二人は中学校で面識のある先輩後輩の間柄なのだという事が遥には分かったが、今はそんな事を悠長に納得している場合ではない。次なる容疑者から証言を得る為に遥はゆっくりと美乃梨へと視線を向ける。
「それで、美乃梨は何してたの…」
多少断罪の気持ちも込めた遥の質問に対し美乃梨は得意げに胸を張って堂々としたものだ。
「遥ちゃんに添い寝してた!」
何故かドヤ顔の美乃梨に遥は朝一でぐったりとした気分である。美乃梨が添い寝していたのは起きた時の状況と、先ほどの真梨香の証言で分かり切っているので、当然遥はそんな事を聞きたかった訳ではない。
「何で…?」
遥は若干蔑む様な視線を向けたが美乃梨はそんな事にも怯まなかった。
「遥ちゃんの寝顔が可愛かったからだよ?」
美乃梨は何故そんな当たり前の事を聞くのかとでも言いたげな顔だが、寝起きでテンションの上がらない遥は突っ込む気にもなれない。
「うん、で、何の用で家に来たの?」
美乃梨の事なので会いに来たという単純明快な理由も考えられたが、遥は念の為今日やって来た目的を尋ねてみた。すると美乃梨はようやく遥が何を聞きたかったのかを察した様で自分の手の平をぽんと叩く。二人の珍妙なやり取りを見ていた真梨香が横でクスクスと笑っていた。
「あたしは遥ちゃんのお兄さんに呼ばれてきたの」
美乃梨の意外な回答に遥はまた新たな疑問符を増やす。いつの間にか辰巳と美乃梨が連絡先を交換していた事はこの際良いとしても、辰巳が美乃梨を家に呼んだ理由が良く分からない。真梨香の方は賢治に言われて来たと言っていたので二人は別々の目的でやって来たように思える。
遥が一先ず賢治に確認してみようと枕元に置いてあった自分のスマホを手に取ると、画面に表示されている時計はまだ八時を回ったばかりだった。
「真梨香、来るの早くない…?」
何の目的で来たのかは現段階では分からないが、先程九時に集合する様賢治に言われたと言っていたので随分と気の早い到着に思える。真梨香の家は徒歩五分圏内の近所なのでそんなに急いで来なくてもいい筈だ。
「遥くんと久々にお話したいかなぁって」
にこにことした真梨香のゆるい回答に遥は成程と納得した。真梨香にしても遥とは三年間会っていなかった訳なので色々と積もる話もあるのかもしれない。
「あたしは七時くらいに来たよ!」
美乃梨が聞いてもいない事を答えてくれたが、そうすると美乃梨はおよそ一時間ほど横で添い寝していた事になる。良く飽きもせずにそんな事をしていられたものだと遥は逆に感心してしまったがそれはそれとして、まず賢治が真梨香を家に寄越した真意を本人に問い詰めてみようと、遥がその旨を書いてメッセージで送信すると直ぐに賢治からのメッセージが返って来た。
賢治の返信して来た内容によれば、辰巳から今日の朝九時に家に来るようにと言われ、ついでに真梨香にも連絡を回す様にと頼まれたが目的迄は知らされていないという。美乃梨も辰巳に呼ばれたと言っていたので全ては兄の思惑らしかった。美乃梨は先程何時に呼ばれたとは言っていなかったが、一人だけ早く呼ぶ理由が無さそうなので彼女は自主的に二時間も早くやって来て、一時間近く遥に添い寝していた事になるだろう。
遥は一先ず状況の確認も済み寝起きだった頭もやっと冴えて来た所で、この状況を作り出した張本人にその意図を確かめなければ疑問は解消されない事を悟りベッドから立ち上がった。
「遥ちゃん着替えるの?」
目を輝かせて何か興奮している美乃梨に遥は若干後ずさる。
「先に辰兄と話してくる」
美乃梨には入院中ずっとパジャマ姿を見られていたし、真梨香も今更そんな事に気を遣う相手でもないので今は辰巳の真意を問い質す事の方が先決だ。
「二人は部屋にいてくれていいからね」
遥は言い残すと善は急げと真梨香と美乃梨を自室に置いて階下の辰巳の元へと向かった。
結論から言えば辰巳は特に有用な情報を与えてくれなかった。ただ九時頃に出掛けるから準備しておけとしか言わず、何処に何の目的で、何故賢治、真梨香、美乃梨という面子なのかという事すらも明かさず、ただいつもの人を食った様な笑顔を見せるばかりで、こうなると幾ら問い詰めても辰巳の口を割る事は不可能なので、結局遥は釈然としないまま自室に引き上げるより他なかった。
遥は自室に戻る途中、洗面所で顔を洗いながら、つい良く考えず真梨香と美乃梨を二人っきりにしてきてしまったが大丈夫だっただろかと、そんな事を考える。中学の先輩後輩で面識がある様ではあったが、どの程度の知り合いかまでは分からない。学校社会ではモブ街道を邁進していた遥は先輩というカテゴリの人間には無条件の苦手意識を持っていたので、そんな自分の意識と照らし合わせて、もしかしたら真梨香と美乃梨が今自分の部屋で気まずい雰囲気になっているかもしれないと心配になった。しかし遥が自室の前まで戻ると二人が楽し気に談笑している声が聞こえてきたので心配は杞憂だったと分かる。ほっとした遥が自室に入ると真梨香と美乃梨は和やかな雰囲気で迎え入れてくれた。
「二人は仲いいの?」
遥の何気ない質問に二人は顔を見合わせてから、真梨香はゆるい笑顔でにこにことし、美乃梨はちょっと誇らしげに胸を張る。
「あたし達中学のバドミントン部でダブルス組んでたの」
大会でも優秀な成績を収める名コンビだったのだと美乃梨は追加で説明してくれた。
競技バドミントンというとかなり激しいイメージを持っている遥には、元気の塊のような美乃梨はともかく、おっとりとした真梨香が優秀なプレイヤーだったと言うのは少し意外だ。
「東中のペアーズって言えばぁ、結構有名で人気もあったんだよぉ」
相変わらずのゆるい口調の真梨香にあまりその凄さが伝わってこなかった遥だが、おっとりとした癒し系の真梨香と、明るく健康的な美乃梨の組み合わせは確かに人の目を惹き付けるだろうし、それに実力も備わっていれば人気があったと言うのも頷ける。しかしそれとは別に遥は真梨香が口にした呼称が少し気になった。
「ペアーズって?」
二人組を指すなら単純にペアでいい筈なので違和感のある呼び方だ。そんな遥の疑問には美乃梨が答えてくれた。
「あたし達二人とも名前に『梨』っていう字が入ってるから!」
美乃梨がそう言ってから女の子二人が顔を見合わせて「ねー」と頷き合ったので、本当に仲がいいんだなと遥は笑みをこぼしつつペアーズという呼称の由来に納得がいった。二人組を指すPairでは無く、西洋梨を指すPearでそれが二人なのでPearsという事らしい。
「マリは遥くんと花房先輩が知り合いだった事が驚きかもぉ」
その言葉とは裏腹に余り驚いている様には見えない真梨香に遥は苦笑しながら、言われてみれば確かにそれもそうだと思い至る。本来の年齢差を考えれば、真梨香の様に近所付合いでも無ければ普通は余り接点のある相手ではないだろう。
「遥ちゃんとは運命なんだよ!」
朗らかな良い笑顔でそう言った美乃梨に対し真梨香は「おー」と感嘆の声を上げたが、遥はその説明は何の説明にもなっていないけど伝わっているだろうかと疑問に思う。案の定真梨香が感嘆しつつもちょっと困ったような微妙な目配せをしてきたので、やはり伝わっていない事を察して遥は補足に回った。
「美乃梨とは入院中に仲良くなったんだよ」
遥が事故の事には触れずそれ以降の事だけを説明したのは美乃梨に気を使った為だ。美乃梨は恐らくもう気持ちの整理はついているのだろうが、それでも良い思い出ではない筈である。せっかく和やかな雰囲気なので遥はそれを壊したくなかったのだ。
無難な遥の説明に美乃梨は肯定の意味でうんうんと頷き、真梨香は納得の意味でうんうんと頷いたので、遥はこの話はこれで終にしても大丈夫そうだと安心する。
話がひと段落して遥がふと時計を見ると八時半を回ろうかという所で、自分が未だにパジャマ姿でいる事を思い出した。これからどこへ出かけるのかは知らないが、取りあえず準備はしなければならないだろう。
「ボクそろそろ着替えないと」
遥がそう進言すると美乃梨がぱっと瞳を輝かせた。
「あたし手伝ってあげる!」
期待と欲望に満ちた美乃梨の表情に遥は思わずひきつった笑みを見せる。遥としては着替えるから一旦席を外してほしいと言う意図だったのだが、美乃梨に対しては余りに不用意な発言であった。
非モテ系十五歳男子の精神構造を持つ遥にとって年頃の女の子に着替えシーンをまじまじと見られたり、あまつさえそれを手伝ってもらう等という事は羞恥プレイ以外の何物でもないのだ。遥は真梨香にアイコンタクトを送って助けを求めてみたが当の真梨香は相変わらずのゆるい笑顔でにこにことしてその場を動こうとはしない。
「真梨香ちゃん、遥ちゃん押さえて!」
美乃梨がそんな事を口走ると頼みの綱だった真梨香はあっさりと美乃梨の側につき「たのしそぉ」とゆるい笑顔で立ち上がる。そして思いの他俊敏な動きをみせアッと言う間に遥を背後から取り押さえてしまった。
「遥ちゃんの着替えはどこに入ってるのかな?」
取り押さえられた遥を認めて美乃梨は満足げな笑みを浮かべながら室内をぐるりと見渡す。遥はささやかな抵抗として着替えのある場所は断固として明かすまいとしたが無駄な抵抗であった。
「花房先輩、遥くんの着替えは入り口横のクローゼットの中ですよぉ」
完全に美乃梨の側に回った真梨香があっさりと情報をリークしてしまうと、美乃梨は浮かれた足取りでクローゼットまで行ってその中を物色し始める。
「うわー、可愛いのばっかり!」
いつの間にか響子が買いそろえクローゼットに収められていた女の子物の可愛らしい洋服の数々に美乃梨は歓声を上げ、あれも良い、これも可愛いとはしゃいだ様子だ。
「真梨香…離して…」
美乃梨のはしゃぎっぷりに、どんな格好をさせられるのかと戦々恐々な遥は駄目元で懇願してみたが、真梨香はにこにこと楽しそうに笑うだけで解放してくれる気配はない。
「よーし、これに決めた!」
しばらく迷っていた美乃梨が一組の洋服を手に取って実に良い笑顔で遥に向き直る。美乃梨が選んだのは白のレースを襟と袖に大きくあしらった黒いボレロと、スカートがふんわりと広がる胸元にプリーツの入ったアイボリーカラーのワンピースだ。遥本人では大凡選びそうもない少女感満載のコーディネートだが、自分をしっかりと取り押さえる真梨香と、嬉々とした表情の美乃梨を前にして遥には選択権や拒否権はなく、最早大人しくその可愛らしい洋服を可愛らしく着こなして見せる以外に道はなさそうだった。
「それじゃあ真梨香ちゃん…遥ちゃんを脱がせよう!」
爛々とした瞳で興奮気味に美乃梨が言うと真梨香はゆるい口調で「はーい」と応え遥の両手を掴んで万歳させる。美乃梨は遥に着せる洋服を一旦ベッドの上に置くと遥のパジャマを脱がしに掛かった。
「遥ちゃん、すぐ済むからね! 痛くしないからね!」
興奮して呼吸の荒い美乃梨の様子に身の危険をヒシヒシと感じる遥だったが、絶妙なコンビネーションを見せる東中ペアーズを相手取っては遥など無力もいいところだ。もはや遥にできる事はこの羞恥プレイ紛いの状況が一刻も早く終わるようにと願い唯じっと耐え事だけだった。
無抵抗になった遥はあっという間にパジャマの上着を脱がされ、次には美乃梨が怪しい手つきで遥の下半身へと迫る。
「次は下を脱がせちゃうからね、うへへへ」
完全に変なスイッチの入っている美乃梨の手がパジャマのズボンを下ろしかけたその時、前触れなく遥の部屋の扉が開かれた。
「ハル、そろそろ出掛ける準備できて―」
そう言ってその場に硬直したのは普段のノリでノックも遠慮なく遥の部屋に踏み込んできた賢治に他ならない。賢治の眼前に広がる上はキャミソール一枚で下は脱がされかけたズボンの隙間から白い布を覗かせている遥と、それを襲う東中ペアーズという構図。賢治は直ぐにドアを閉め部屋を出れば良かったのだが、遥を助けた方が良い物かどうかという思いに一瞬動きを止めてしまったので完全に動き遅れていた。
「賢治さんの変態!」
美乃梨の辛辣な言葉と共に手近にあった遥の枕が投げつけられると、賢治は枕を受け止めながら慌てて動きを取り戻す。
「すまん!」
遥は謝罪の言葉を残し部屋を飛び出した賢治を可哀そうにと思ったが、今の自分のこの状況とどちらがより可哀そうかを考えると七対三で自分の方が可哀そうに思え、もうなんでもいいから早く服を着させてくれと大きく溜息をついた。




