2-11.新しい思い出
遥は退院した日の翌日、賢治の部屋で昼下がりのひと時をのんびりと過ごしていた。
今日も空は快晴で、日当りの良い室内はぽかぽかと暖かく、賢治のベッドの上でごろごろしていた遥は昼食後の程よい満腹感もあってついうつらうつらとしてしまう。
賢治はそんな遥の傍らで自分の机に向かって、ノートパソコンにピンクゴールドの真新しいスマートフォンを接続して作業を行っている。この真新しいスマホは今後必要になるだろうと、響子が退院祝いも兼ねて昨晩遥に贈った物だ。
新規に契約され初期設定だけ成されているスマホは、アプリケーションは必要最低限でアドレス帳等もまっさらな状態だが、幸いこのスマホは事故以前に遥が使っていた物の後継機種である。互換性が有る為、ID管理されたクラウド上のバックアップによってかつて遥が使っていたスマホの状態をある程度復旧させる事が出来る見込みなのだ。賢治が今行っているのは正にその作業だった。
持ち主である遥ではなく賢治がこの作業を行っているのは、遥がパソコン関係にめっぽう弱いからである。
「よし、あとはIDとパスワードだな」
賢治とてパソコン関係は大して強くはないが、それでも遥よりは幾分かはマシで、オンラインマニュアルと格闘し、悪戦苦闘の末に何とか後は遥が設定したIDとパスワードを入力して、データを同期させるだけの状態にまで持っていくことが出来た。
「ハル、IDとパスワード入れてくれ」
賢治が作業を引き継ごうとベッドの上でごろごろとしていた遥の方へと向き直ると、当の遥は陽気に誘われるまま、遂に小さな寝息を立てて夢の中に入ってしまっていた。
「ハル…?」
遥があまりにも穏やかに眠っているので、賢治は控えめに声を掛けてみたがその程度で遥が目を覚ます気配はない。遥がIDとパスワードを入力しない事には復旧は完了しないし、賢治は夕方からバイトが入っているのでそれまでには遥のスマホを使える状態にしなければいけない。
「はーるー」
可哀そうでも多少強引に遥を起こして作業を進めなければと、賢治は声を掛けつつゆっくりと立ち上がって自分のベッドで安心しきった様子で眠る遥に近づいてゆく。
昨日美乃梨があれだけ興奮した様子で遥に対して自分が可愛い女の子だという自覚をもって危機管理をしろと言ったにもかかわらず、やはり賢治は幼馴染で親友という関係性上、遥の中では完全に大丈夫な相手と見なされている様で実に無防備だ。
遥に異性を感じている賢治だが、流石に幼女の寝姿に劣情を覚える程には理性を失ってはいないし、元々女の子の寝込みを襲う様な下衆な趣味もない。しかし遥の可愛らしい寝顔にドキドキとしてしまうのもまた事実で、このままではいかんと思いつつも、つい遥が寝入っているのを良い事に本来の目的も忘れてまじまじとその姿に見惚れてしまった。
恐らく響子のコーディネートだろう、少しクラッシックなデザインをしたブルーのブラウスとボリューム感のあるクリーム色のミディアムスカートという装いであどけない顔をして眠る遥は白雪姫を連想させる様な愛らしさだ。そんな遥の姿は賢治の心臓の鼓動を幾分も早くさせたが、同時にその安らかな様子はどこかほっこりと心温まる光景でもあった。
賢治が優しく見守る中ですやすやと眠る遥がわずかに身じろぎをすると、遥の肩口まで伸びたちょっと癖のあるふわふわとした髪がその頬に掛かる。
「んぅ…」
小さく声を漏らした遥がぱちりと目を開いたのは、賢治が遥の顔に掛かった髪をよけてやろうと無意識に手を伸ばし、その手が触れるかどうかという直前のタイミングだった。
「あれ…、ボク寝ちゃってた…?」
遥が少しぼんやりとしたまだ眠たそうな眼差しで、ベッドに寝転がったまま上目で見やってきたので、賢治は我に返ってゆっくりと遥の髪に触れようとしていた手を引っ込める。
「あ、ああ…、その…起こそうとしてたんだ」
問い詰められたりした訳ではないが、賢治は遥の眼前まで伸ばしていた自分の手と、見惚れてしまっていた事が気まずく、つい言い訳じみた事を言ってしまった。そんな賢治を遥は別段気にした風もなく、ゆっくりと身体を起こすと口元に手を当て、小さな欠伸と共にのんびりと一つ大きく伸びをする。
「あ、ボクのスマホどうなった?」
伸びの態勢のまま問いかけた遥の言葉に、賢治は寝入っていた遥に近づいた本来の目的を思い出して、少し慌てた素振りで自分の机の方へと向き直り、その上で開かれているノートパソコンを指し示す。
「後はハルがIDとパスワード入れたら、ほぼほぼ終わりだと思う」
賢治の回答を受けた遥は「そっか」と嬉しそうに言ってぴょこっとベッドから飛び降りると賢治の横をすり抜け、先ほどまで賢治が座っていた椅子に座ってノートパソコンと向かい合った。
「えーっと…IDとパスワード…っと…」
そんな独り言を漏らしながら右手の人差し指だけでキーを一つずつゆっくりと押していく遥の不慣れな様子が妙に可愛らしく、賢治は自然と頬が緩んでにやけてしまう。
「できた!」
IDとパスワードを入力し終わった遥が景気よくエンターキーを押すと、画面が進み進行状況を示すブルーのゲージが徐々に伸びていく。無事スマホとクラウド上のバックアップの同期が開始された様だ。
遥は画面を見守りながら賢治の椅子で床に届かない足をぷらぷらとさせ、賢治はそんな遥の様子を微笑ましくぼんやりと眺めながら同期が完了するのを待つ。
「あれ、賢治なんか出たよ?」
ゲージが中ほどまでやってきた所で遥は画面の変化に気付いて賢治の方へと顔を向ける。遥をぼんやりと眺めていた賢治は自分の方を向いた遥と視線がばっちりと合ってしまい、一人で妙な焦りを感じたがなるべく何気ない風を装ってノートパソコンの画面へと視線を逃がした。
パソコンの画面上では簡単な警告文と共に可否を問うポップアップウィンドウが開いており、内容を読む限りでは、遥が以前使っていたスマホよりもOSが何世代か進んでいる為に、完全な同期はできないと言っている様だ。賢治は椅子に座る遥の背後から腕を回し詳細を確認するためにマウスを駆る。
「古いデータから引き継げるのは、アドレス帳と後は写真データ位だな」
その説明に対して遥の「へぇー」という分かった様な分かってない様な気の抜けた感嘆の声が賢治の直ぐ耳元から聞こえて来た。賢治は一時画面の内容に集中した為、気付かない内に遥と顔を並べる様にしてその距離がかなり近くなっていたのだ。
賢治はそのあまりに近い距離に気が付いてぎょっとしたがしかし、ここで慌てて離れると如何にも不自然だと理性を働かせ、なるべく自然に距離を改めるべきだと考える。しかしそんな賢治の思惑を知らない遥がそれを阻止するかの様に賢治の肩口の袖をひっぱった。
「ボクよくわかんないから、賢治がやって?」
至近距離にある遥の愛らしい顔が少し困った表情でそう懇願して来たので、賢治は内心かなり動揺しつつも、冷静に冷静にと必死に心を落ち着かせ、このままの態勢は如何にも心臓に悪いと解決策を模索する。
「あー…、じゃあ…ちょっと場所変わってくれ…」
その進言は位置と距離を改めたい一心によるものだったが、遥は特に疑問も抱かず素直に椅子から降りて賢治へと場所を譲り渡した。賢治はほっと胸を撫で下ろし、遥が座っていた自分の椅子に腰を落ち着けノートパソコンと向かい合う。
「復旧できるデータはさっき言った通りだけど、それでいいよな?」
賢治が確認するために遥の方を向くと、遥はパソコンの画面を見る為に身を乗り出してきていたので、結局遥との距離関係は大して変わり映えはしなかった。
「アプリとかは後で入れたらいいよね?」
間近で遥が可愛らしく小首を傾げるので賢治はしきりに頷き、この距離を改めるにはもう一刻も早く復旧作業を終わらせてしまうしかないと焦る。しかし後はデータの同期が終わるまでをひたすらに待つしか手立てはなく、賢治は中々伸びない進行状況ゲージにじらされ、間近にいる遥にはドキドキとし通しで、データの復旧が終わるころにはすっかりと気力を使い果たしてしまっていた。
「ハル、終わったぞ…」
賢治は少しぐったりとしながら復旧が終わったスマホを遥へと手渡す。作業的には大した事は無かったものの、相変わらず無警戒で無防備な遥の距離感に終始ドキドキとさせられっぱなしだった為に、まるでランニングでもしたかの様な疲労感だ。
スマホを受け取った遥は賢治が妙に疲れた様子でいるので、難しい事を頼んでしまったのかなと、ちょっと申し訳ない気持ちだったが、手渡された自分の新しいスマホに浮かれ、賢治には後でお礼をすればいいかなと、楽観的になって早速と復旧されたスマホの内容を確認し始める。
これまで至近距離だった遥がベッドまで引いて嬉しそうにスマホをいじりだしたので、賢治は何はともあれ良かったとようやく人心地ついた気分だ。
「番号変わった人とかいないかな?」
アドレス帳を開いて親しかった友人たちの名前を確認していた遥は素朴な疑問を口にする。三年経っているので、もしかしたら中には連絡先の変わった者もいるかもしれないと思ったのだ。
「どうかな、少なくともタケ達は変わってない筈だが」
賢治は遥のアドレス帳に登録されている全ての名前を知っている訳ではないので、自分の知る範囲で遥と共通する親しい友人達の連絡先がそのままである事を答える事しかできなかったが、遥にはその解答で十分だった。
賢治がタケと呼んだのは遥達の小学校からの親しい友人で、フルネームを竹達淳也と言うひょうきんで少しお調子者の青年だ。
どちらかといえば狭く深い遥の友人関係は、この竹達淳也に加え特に親しかった友人が後二人いる。遥と賢治を含めその五人で良くつるんでいる事が多かったので、賢治の指したタケ達というのはその連中の事だと遥には理解できた。
「皆もう大学生だよね、元気かな?」
かつて同級生だった友人達は、三年を経って今では皆それぞれの進路に進んでいるだろう。遥は自分の時間差を少し切なく思ったが、それよりも今は友人達の現状の方に興味が湧いている。
「タケは専門だが、後は大学生だな。最近は―」
自分が分かる範囲の事を答えようとした賢治だったが、それよりも手っ取り早い方法がある事に気が付いて途中で言葉を止めた。
「ハル、LIFE入れろよ」
遥はせっかく文明の利器であるスマートフォンを手にしているのだ、それを使わない手はないと、賢治はより簡単確実に友人達の近況を確かめられる方法を提案した。
LIFEは文字とスタンプを用いたメッセージのやり取りができるアプリケーションで、その名称に込められた意味合い通り、スマートフォンユーザーには生活の一部として広く普及し活用されている定番中の定番アプリだ。遥も以前のスマホで使っていたので、それをインストールしろと言った賢治の意図は聞くまでもなく理解できた。賢治は本人達に直接自分で聞けと言っているのだ。
LIFEもユーザー情報をIDで管理しているので、インストールして設定すれば以前使っていたフレンドリストやグループ設定等を復元できる為、既知の友人達とコミュニケーションを取る事は容易だろう。しかし遥は頭を悩ませる。十歳前後の幼女になってしまった自分の現状を、友人達に知らせる心の準備がまだできていないのだ。連絡を取りたい気持ちは勿論あるが、それ以上に今の自分を友人達は何と言うか想像すると一種の恐怖心を覚えた。
「淳也達には…、もうちょっと落ち着いてから連絡するよ」
結局現段階では決心することが出来ずに遥は、友人達と直接連絡を取る事は一旦保留とする。賢治はそれに対し「そうか」と頷き、無理強いする様な事もなく遥の意志を尊重した。
遥は一先ず友人達の現状をあれこれと想像するに留まり、一通り見終わったアドレス帳を閉じると、次にアルバムアプリをタップして、自分が過去に撮っていた写真を何気なく見始める。
写真データはスマホを初めて持った中学時代の物から始まり、遥が事故に遭った年までの思い出が多数撮り貯められている。初めは単純に懐かしい気持ちで順番に写真を見ていた遥だったが、一枚の写真が画面に表示されたところでピタリと指が止まった。
「あっ…」
それは、高校の入学式、普段殆ど自撮りをしない遥が珍しく自分をフレームに収め、賢治と二人で一緒に撮った思い出の一枚。そこに映っている遥と賢治は高校生になったばかりの少年で、その二人の姿は三年という歳月と、変わってしまった自分の運命を遥に知らしめる残酷な一枚だった。
「ハル?」
賢治が心配そうに声を掛けてくると、遥は自分のスマホから顔を上げ、親友の姿をその大きな黒目がちの瞳で真っすぐにとらえる。そして自分の胸に手を当て心の中で「大丈夫」と言い聞かせるとパッと賢治のすぐ横へと飛びついた。
「は、ハル?」
突然の行動に賢治は驚いた様子を見せたが、遥は構わず手に持っていた真新しいローズピンクのスマホを目の前に掲げ上げる。
「賢治、撮るよ!」
遥は明るい声でそう言うと掲げたスマホに向って笑顔を作り、賢治の返事を待たずにカメラモードに切り替えたスマホの撮影ボタンをタップした。
カシャリという疑似的なシャッター音を確認した遥は、賢治の傍から離れてスマホの画面を確かめる。そこには高校の入学式の時よりも幾分か大人びた十九歳の賢治と、あの頃とはまるで違う十歳前後の幼女の顔で明るく笑う自分が寄り添う光景が収められていた。
遥はその写真をしばし見つめてから満足そうに微笑み、賢治に向って自分のスマホをかざして今し方撮ったばかりの、二人の新しい思い出の一枚を見せつける。
「ほら、綺麗に撮れてるよ」
姿はあの頃とは違うけれども、これから先も二人はこうして一緒にいられる筈だ。今までの十五年間で積み重ねて来た分に負けないくらい、これからまた時間と思い出を積み重ねていけばいい。遥はそんな想いを胸にして賢治へと笑顔を向ける。
賢治は慌てた表情の自分の姿に苦笑しながらも、笑顔で映っている遥の姿を認め、遥がこれからもこんな笑顔で居られる時間が少しでも多くなれば良いと心から願った。




