2-10.繋がる想い
「ボクもうお腹いっぱいだよー…」
遥はぽっこりと膨らんだお腹を押さえて悔しさをにじませる。辰巳の作った料理はどれもがその見た目の見事さに違わぬ絶品ぶりで、つい調子に乗って次々と食べ進めていった結果、小さな遥の胃袋はあっという間に限界を迎えてしまったのだった。
「むぅ…」
まだ目の前に残る料理の品々に後ろ髪惹かれる思いだが、それでも身体は限界だと訴えている。美味しい物を沢山食べられないのはこの身体の一番残念な点かもしれないと遥は思わずにはいられない。
「残りは明日の昼飯にでもすりゃいいさ」
辰巳はお気楽な調子でそう言って笑うが、遥の隣に座る賢治はその大きな体格故に今でも次々と辰巳の料理をその胃袋の中に取り込み続けている。果たしてこの絶品料理達は残る事があるのだろうかと遥は不安で仕方がない。賢治程の勢いでは無いにしろ響子と正孝もまだそれぞれのペースで着々と箸を進めているのも気がかりだ。
「賢治、全部食べちゃわないでよ…?」
遥が賢治の袖を引っ張り懇願すると賢治はぴたりと箸を止め、ゆっくりと遥の方を見た。
「出された物は完食するのが紬家の掟だ。すまんな」
一瞬口角を上げニヤリと笑うと賢治は再び食卓に向かいモリモリと食べ始める。
「賢治ヒドイ! 暴食は大罪なんだよ!」
遥が袖をぐいぐい引っ張って抗議するも賢治はそんな事は気にも留めずひたすらに食べ続ける。紬家の掟は冗談としても辰巳の絶品料理は食が進んで仕方がないので、いくら親友の頼みとあってもそれをミスミス逃す気はさらさらない。
「遥にはまた明日美味いもん作ってやるさ」
見兼ねた辰巳の言葉に遥はぱっと目を輝かせる。
「辰兄、ボク、あれ、あれが食べたい!」
遥は食べたいものを思い浮かべ明日の昼食のリクエストをしようとしたが、辰巳の見事な料理手腕を目の当たりにしたばかりなので、あれもこれも食べてみたいと中々一つに絞れない。
「そうだな『おねがい、おにいちゃん』って言ってくれたら好きなもん作ってやるぞ」
辰巳が真顔でそう言ったので遥は目をそらしリクエストは断念せざるを得なくなった。食事前に辰巳と賢治に「おにいちゃん」と言ってみてかなり恥ずかしかったのでもう二度と言うまいと誓っていたのだ。
「おにいちゃんって言ってくれないんじゃリクエストは受け付けられないが、まっ、それでも美味いもんは作ってやるから期待しとけよ」
リクエストできないのは残念だが、背に腹は代えられない。いずれにしろ美味しい物は食べられそうなので、遥は前向きに明日の昼食のメニューが何かはお楽しみという事で納得した。
「そうだ遥、ちょっといいかな?」
ビールを三本ほど空け、今はロックグラスでウィスキーをちびちびち飲みながら、子供たちのやり取りを穏やかに見守っていた正孝がアルコールで少し赤くなった顔で口を開く。遥が何だろうかと父の方へと目線を向けると、正孝はグラスに残っていたウィスキーを一口で飲み干し一度響子に目配せをしてから話しを始めた。
「先日、花房さんのお嬢さんが一人でみえてね」
そう切り出した正孝だったが、遥は父が口にした人物が一体誰の事か分からずに首を傾げる。話題に上げた事から自分の知っている人物の筈だが花房なる苗字に思い当たる者がいない。
「はなふささん?」
遥が首を捻って疑問を口にすると以外にも賢治が助け舟を出してくれた。
「美乃梨の事だよ」
賢治の言葉に遥は胸前で手を合わせてそういえばと合点がいく。遥は最初に自己紹介をされて以来ずっと下の名前で呼びならわしていたので、美乃梨の名字が花房だった事を失念していたのだ。対して賢治は連絡先を交換した際スマホにフルネームで登録されていたので、「花房美乃梨」という表記を特にここ最近多く目にしていた為にすぐに美乃梨だと分かったのだ。
父の言う花房さんのお嬢さんなる人物が美乃梨だと言う事は分かったが、遥の中でまた別の疑問が浮かんでくる。美乃梨は確かに今日家に現れたが、父は先日と言ったので、今日の事を言っている様ではないし、そもそも今日美乃梨が家にやって来たのを正孝は知らないはずだ。
「えっと、ボクが病院にいる時って事だよね…?」
遥がその事を確認すると正孝は頷きそれを肯定する。美乃梨が今日やってくる以前に家に来ていたのならば先刻場所も聞かず現れた事に納得がいく。そして何故美乃梨が自分不在の家を訪れたのか考えを巡らせると、その答えに思い至るにはそう時間は掛からなかった。
「美乃梨は事故の事を謝りに…」
自分不在の家を訪れる理由が遥にはそれしか考えられなかった。遥は病室で美乃梨が見せた思いつめた表情が脳裏に浮かんで胸が苦しくなる。美乃梨からみれば家族は親友である賢治以上に自分とは密接な繋がりを感じる相手の筈だ、あの美乃梨がそんな家族を前にして平然としていられるはずがない。遥のそんな想像を裏付けるかの様に、美乃梨は入院中、遥の家族とはニアミスしないよう会いに来る時間を選んでいた節があった。しかしそんな美乃梨が一人で家族に会いに家までやって来たのだと言う。遥はその時の美乃梨の心境に思いを馳せると切なくなった。
「あの子、遥の事を一生懸命謝ってくれたわ…」
穏やかな口調で語った響子の言葉に、遥は病室で賢治と向かい会った時の美乃梨の様子を思い出し、今回一緒にいてあげられなかった自分の事が悔しくなる。きっと美乃梨は、あの時の様に沢山泣いたに違いない。
「遥、大丈夫よ」
美乃梨の心境を想って表情を辛くした遥に響子が優しく諭すと、隣で正孝も穏やかな面持ちで頷きを見せる。
「お母さん達ね、あの子を責める気持ちなんて元々ないのよ」
そう言った響子の眼差しは慈しみに溢れ、その時の美乃梨の姿に感情移入したのか少し目に涙が浮かんでいた。
「遥が救った命だ。それを責められるはずがない」
響子から引き継いだ正孝のその言葉に横で辰巳も誇らしげな笑顔で頷く。
「遥も生きてるし、何も問題ないわな」
遥はそれぞれの想いを口にした家族を順に見回し、その表情が皆穏やかである事を認めると心が暖かくなった。自分の家族ならきっとそう言ってくれるものと信じていたし、それを裏切らなかった家族の思い遣りが嬉しかった。
「ありがとう…」
美乃梨はきっと自分の家族と相対した時、いや、相対すると決めたその時から、ものすごく怖かったに違いない。それでも逃げださなかった美乃梨を想うと遥は美乃梨の事が愛おしかった。親愛の情を深め、次に会った時には思いっ切り優しくしてあげたいと心から思う。自分が助けた女の子、命ある事の尊さを気付かせてくれた女の子。そんな美乃梨にはいつも明るく朗らかでいて欲しい。家族に気持ちを伝えた美乃梨は笑顔で帰れただろうか。遥は家族と話終えた後の美乃梨の様子を思い描く。きっと自分の家族ならば、美乃梨を笑顔にしてくれた筈だ。
「遥は当事者だからね。知らせておきたかったんだ」
穏やかな口調でそう言った正孝を認め遥は頷きを返す。家族はきっと自分よりもよっぽど上手く美乃梨の気持ちを楽にしてあげられたに違いない。今日のすこぶる元気だった美乃梨の様子を思い出して遥はそう確信することが出来た。
深く安堵した遥は、最後に一つだけ残った小さな疑問を口にする。
「美乃梨はどうやって家の場所を知ったのかな?」
美乃梨が今日家にやって来れたのは事前に家に来ていたからだが、その時はどうやって家の場所を知ったのかが分からない。
「遥が事故に遭った直後に美乃梨ちゃんのご両親は一度ご挨拶に見えたから、多分家の住所はご両親に聞いたのね」
響子の言葉に遥は納得すると共に、自分の知らなかった事故後の出来事を僅かに垣間見れた事に新鮮な感覚を覚える。自分が事故に遭ってから目覚めるまでにあった出来事については、賢治がその三年間を苦しく過ごしていたのを目の当たりにていた為、余り話題にしない方がいいと感じて、特に周りに尋ねる事もせず殆ど知らない事ばかりだった。
「当時お嬢さんはショック状態で一緒には来られなかったけれどね」
父の補足に遥はまた成程と納得する。思えば人一人の身体が無くなる程の大事故を目の当たりにしているのだから一時的に心神喪失に陥っても不思議ではない。そこからよくあれだけ明るい性格に持ち直したものだと遥は今更になって感心してしまった。美乃梨の本来の性格なのか、美乃梨の両親のケアあっての事か。遥のそんな胸中の疑問にも響子が答えをくれた。
「お父さんね、美乃梨ちゃんのご両親がみえた時に言ったのよ『事故の事は気に病まず、お嬢さんはどうか健やかにあって欲しい』って、それが遥の為でもあるからって、ね?」
響子に確認されて正孝は珍しく少し照れ臭そうな顔を見せる。
「立派に成長した彼女が一人で家に現れた時は正直に嬉しかったよ」
遥は未だ少しはにかんだ様子でそう言った父の様子に笑みをこぼしながら、頭の中で一本線が繋がった様な妙にスッキリした気分になった。美乃梨の明るい様子は父が推した生き方で、自分はそんな美乃梨と出会って命の輝きを目の当たりにし、それが今の身体を受け入れようと言う気持ちに繋がっている。父がどれほどこの状況を見通していたのかは分からないが、人の想いが巡り巡っている。
「なんか、すごいね…」
遥は目を細め人の繋がり、心の繋がりに気持ちを馳せる。
横で話を聞いていた賢治も深い感銘を受けていた。遥が理性的で心根が優しいのは間違いなくこの家族あっての事だ。そんな遥の行いとその想いは結果的に、全て遥に帰結し遥の道を照らしている。片や怒りと憎悪に駆られ我を見失っていた自分を省みると情けない。
「美乃梨ちゃんに関しちゃ、ウチよりも賢坊の方が複雑なんじゃねーのか?」
まるで見て来たかのような辰巳の言葉に賢治は飲みかけていたオレンジジュースを吹き出しそうになった。
「賢治と美乃梨はもう仲直りしたから大丈夫だよ」
遥がフォローを入れてくれたので助かったが、賢治はこのつかみどころが無くなんでもお見通しな親友の兄にはやはりまるで敵う気がしない。
「そうか。でも賢坊も大変だよなぁ、ライバルがあんな可愛い娘じゃなぁ」
改めておオレンジジュースを飲んで心を落ち着かせようとしていた賢治は、辰巳のこの言葉に堪らずむせ込んだ。
「ちょっ、辰巳さん…!」
遥は急に話題が明後日の方向へ流れたので、一体何の話かわからずきょとんとしてしまう。しかし辰巳の揶揄いは賢治に留まらず遥にまで余波して来た。
「美乃梨ちゃん遥の事大好きみたいだったけど、遥も女の子じゃなぁ」
そう言って愉快そうに笑った辰巳に遥は呆れてしまったが、ふと白竜亭で再開したすっかり魅力的な娘に成長した真梨香の事が頭を過る。年近い女の子に好意を示されるという、未だかつて経験した事の無かった事態が立て続けに二つも起きているこの状況は、もしかしたら人生で初めてのモテ期なのかもしれないと思うと何やら妙に幼女の身体が口惜しくなった。
「ボクの初めてのモテ期が…」
思わず気持ちが口をついて出たがそれこそ兄の思惑通りだったようで辰巳は愉快そうに大笑いする。そんな兄の様子に悔しさを覚えた遥は少し口を尖らせ横に座る賢治に助けを求めた。
「賢治ぃ…ボクのモテ期ぃ…」
イケメンで常時モテ期の様な賢治だが、それはそれとして、遥が良くモテてみたいとボヤいていたのを知っているで、少なくともその口惜しさは分からなくもない。
「あー…、今のハルならきっとモテるよ」
何かフォローをと思って賢治はついそんな事を口走ったが余りにも的外れだ。純粋な可愛がりや美乃梨の様な特例を除けば、今の遥に好意を寄せる相手は遥の本来の性別と同じ相手、つまり男に限定される筈なのだ。流石の遥もそれが分からない程鈍くは無い。
遥は自分が男にモテている様子を想像してげんなりとする。
「賢治…洒落になってないよ…」
ジト目でそう反論した遥に賢治は「すまん」と謝りながら、多数の男に言い寄られる遥を想像して穏やかではない心境を覚えている自身に、これは完全にドツボにハマっていると確信し乾いた笑みを漏らす。
「まー、頑張れよ賢坊」
全てお見通しと言った様に辰巳は笑うが、賢治は果たして頑張っても良い事柄なのだろうかと頭を悩ませる。ただ響子が何やら後押しする様なウィンクを見せたのと、正孝が警告する様な眼差しを向けて来た事は、どちらも見なかった事にした方が良さそうではあった。




