2-8.余韻
遥は目の前の状況に少々困っていた。
隣に座る賢治はぐったりとした様子で、美乃梨はそんな賢治を恨めしそうに睨んで時たまボソッと「賢治さんのロリコン」と小声で呟いて賢治を更にぐったりとさせている。美乃梨のこの断続的な精神攻撃は遥に密着されている賢治に対する嫉妬心によるものだが、どこまでも無自覚な遥はそれに気付く由もない。
「美乃梨、そろそろ賢治を許してあげてよ」
遥がたまらずそう懇願すると美乃梨は頬を膨らませる。
「遥ちゃんがぎゅーってさせてくれるなら考えるかも…」
美乃梨から提示された条件は遥にとってできれば遠慮したい事柄だったが、賢治を助けると思えばその身を差し出すのもやぶさかではない。美乃梨に抱き着かれて減るのはせいぜい気力くらいの物で、それも現在の恐ろしくぐったりした賢治に比べれば幾分も生易しいはずだ。
「う、うーん…」
しかし美乃梨が「考えるかも」と曖昧な言い回しを用いた事が引っ掛かり遥は即断には至らなかった。最悪のケースは美乃梨に良い様にされた上で、賢治への精神攻撃も続行され二人揃ってぐったりさせられてしまうパターンだ。
「賢治さんのロリコン…」
遥が逡巡している間にも美乃梨の精神攻撃が更に重ねられていく。このままでは賢治が余りにも哀れだ。確信は持てないが親友の為にもその身を委ねてみるしか道はないかもしれない。遥がそう決断しようとしたその時、突然室内に気の抜けた「にゃーん」という猫の鳴き声が響き渡った。
「へ?」
遥も賢治もその素っ頓狂な鳴き声に一瞬ぽかんとしてしまったが、美乃梨が何食わぬ顔でスカートのポケットから自分のスマホを取り出し画面を確認した事から、その脱力物の鳴き声が美乃梨のスマホから鳴った通知音だと分かった。遥はいかにも美乃梨らしいチョイスだとちょっと和んだが、美乃梨がその内容を検める事無くスマホを傍らに置いてまた賢治を恨めしそうに睨み出したので、精神攻撃が続行されると分かり和んでいる場合ではなくなった。
「賢治さんのロリコ―」
美乃梨がそこまで言いかけた所で再び室内に「にゃーん」と猫の鳴き声が響く。美乃梨は仕方なく言いかけた言葉を中断してスマホの画面に目をやると、また内容にまでは目を通さず賢治に視線を戻した。
「賢治さんのロ―」
美乃梨が言い直そうとすると、そこでまた「にゃーん」とスマホが鳴く。美乃梨はピクリと片眉を跳ね上げ明らかに面倒がって今度は画面すら確認しなかった。
「けん―」
スマホには最早構ない美乃梨が賢治への精神攻撃を続行しようとするも、今度は賢治の名前の部分すら言い終わらない内に「にゃーん」とスマホの鳴き声だ。
「…じさんのロリ―」
挫けない美乃梨は無理やり言葉を続けようとしたが、それを遮る様にしつこく「にゃーん」とスマホが鳴くものだから、美乃梨よりもむしろ遥の方が気を削がれソワソワとしてしまう。
「美乃梨、にゃんこが呼んでるよ!」
スマホの鳴き声が気になって仕方ない遥が堪らずそう進言すると、美乃梨がカッと目を見開いて次には緩み切っただらしのない表情になった。
「遥ちゃんがにゃんこって言ったよお…」
どうやら遥の言い方がツボに入ったらしい。遥には別段可愛い子ぶろうとかそんな意識は無かったのだが、よく妹分の真梨香が自分の飼っている猫を「にゃんこ」と言っていたので、それに付き合って遥も「にゃんこ」という呼称を用いる事が多かった為につい癖でそう言ってしまったのだ。しかしよくよく考えればあまりに幼女っぽ過ぎる発言だったと遥は少々気恥ずかしくなる。
「そ、そんな事よりスマホはいいの? なんか用事なんじゃ…」
遥が恥ずかしさを誤魔化すため改めて気になっていた事を言い直すと、美乃梨はちょっと口を尖らせ渋々自分のスマホを手にする。再三にわたって猫が知らせていた内容にやっと目を通した美乃梨は突然勢いよく立ち上がって顔を青ざめさせた。
「あたしクラスの打ち上げで幹事任されてたんだった!」
美乃梨は賢治の傍から遥を掻っ攫った際に放り投げた自分のスクールバッグを拾い上げると、そのまま慌ただしく部屋の入口へと向かう。
「遥ちゃんごめんね! またくるね!」
ドアノブに手を掛けた美乃梨は一瞬足を止め名残惜しそうな顔で謝りを入れると、それから遥の返事も待たずに大急ぎで部屋を出て行った。
「なんだありゃ…」
賢治が思わずそう呟くと遥は苦笑する。再三にわたるスマホの鳴き声は幹事不在で立ち行かなくなっていたクラスメイト達からの呼び出しだった様だ。
「そういえばボク達も中学の卒業式の後打ち上げやったね」
遥がちょっと懐かしい気分になってそんな思い出話しを持ち出すと、それまで美乃梨の精神攻撃でぐったりとしていた賢治が若干遠い目をしながら僅かに笑みを見せた。
「あんときゃカラオケだったか…」
それを切っ掛けに二人は嵐の様だった美乃梨の余韻を一時忘れ懐かしい思い出話に花を咲かせる。その時間は賢治が時々遥にどぎまぎとさせられる以外はこの部屋で今日一番穏やかな一時となった。
遥と賢治が思い出話に盛り上がっていると扉をノックする音と共に辰巳が姿を現した。例のミスマッチなエプロンをもう身に着けていない所を見ると、遥の退院祝いは既に準備し終えている様だ。
「おう、親父達帰って来たしそろそろ始めんぞ」
遥は話に夢中で響子と正孝が帰宅した事に気が付いていなかったが、時計を見れば午後六時を回ろうかと言うところだ。
「じゃあ俺はそろそろ帰らなきゃな」
賢治はこれから遥の退院祝いが始まる事を察して、遥の隣から立ち上がり帰宅の意図を見せる。しかし辰巳がそんな賢治を制止した。
「何だ賢坊水臭せえな、お前も参加してけよ」
平然とした笑みで辰巳はそう言ったが賢治は躊躇する。遥が三年ぶりに帰宅した日の夕食は家族にとって特別な意味が有るはずだ。そんな席に他人である自分が参加するのは厚かましい気がしてならない。
「いや、でも今日は家族水入らずがいいんじゃ…」
賢治が素直に自分の心情を述べると辰巳は溜息をついて大げさな身振りで嘆いてみせた。
「それが水臭いってんだよ。賢坊は家族みてぇなもんだろうが」
確かに賢治は奏家と家族同然の付き合いだが、それでもやはりこんな日ばかりは遠慮したほうがいいのではないかと常識的に考えてしまう。賢治がどうすべきかと迷っていると遥が立ち上がって賢治の袖を引っ張った。
「賢治も一緒がいいな」
遥が相変わらずの上目遣いで哀願するので賢治はぎくりとしてしまう。隣に引っ付いて座っていた時は意識しすぎると動揺してしまう為、なるべく遥を見ない様にしていたのだが、こうして改めて見るとやはり今の遥はどうしようもなく可愛く思える。
「ほれ、姫が王子の列席をご所望だぞ」
辰巳が冗談めかしてそんな事を言ったので賢治は更にぎくりとしてしまった。何でも見透かしたような辰巳なら自分が遥を異性として意識してしまっている事に勘付いているかもしれないと気まずくなる。
「辰兄…その言い方はどうなの…」
気まずい賢治の代わりに姫呼ばわりされた遥が少し口を尖らせ抗議すると、辰巳は愉快そうに笑った。
「まっ、ともかく今日は賢坊にゃ運転手役頼んだし、このまま帰すわけにゃいかんよ」
賢治にその事を直接頼んだ響子もそれを望んでいると辰巳が付け足すと、流石の賢治もそこまで言われて固辞するのは逆に失礼かと考えを改める。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
賢治が参加の意志を示すと、遥が袖を掴んだまま嬉しそうな笑顔を見せたので、それを見ていた辰巳が思わず唸った。
「そうしてると賢坊のが遥の兄貴っぽいなぁ」
実の兄としては複雑なところだろうが、今の誰が見ても美少女な遥は自分よりも、イケメンである賢治に近い人種だと辰巳はそう感じたようだ。辰巳はブ男という訳ではないが、平凡の代表格だった遥の兄だけあってそこまで整った顔立ちをしていないし、今は海外生活で得た屈強さもあって可憐で儚げな遥とは確かに似ても似つかない。事情を知らぬ人々にどちらが遥の兄かと問えば恐らく十人中九人が賢治の方を選ぶだろう。
「いや、でも辰巳さんには俺、敵わないですよ…」
それは賢治の嘘偽りない気持ちだった。賢治は遥を良く知る様に、遥の兄としての辰巳も良く知っている。辰巳は歳の離れた弟を良く可愛がっていたし、遥もまた助力を惜しまない兄の事を頼りにし尊敬していた。遥と一緒にいる事が常だった賢治も辰巳の世話になった事は一度や二度ではない。
「まっ、俺もお前も遥が大事なのは一緒だ。別に勝ち負けの問題じゃねぇやな」
辰巳が堂々とした笑顔でそう言って笑ったので賢治は辰巳の度量の広さを認めて、やはりこの人には敵わないなと改めて実感する。片や遥は兄からはっきり大事だと言われ少し照れくさかったが、兄が示す確かさは頼もしい限りだ。
「辰兄、ありがと…」
遥が兄に対する感謝の気持ちを述べると辰巳は嬉しそうに笑ってから真面目な表情を見せる。
「遥、俺の事は『おにいちゃん』って呼んでくれていいんだぞ」
冗談とも本気ともつかない辰巳の言葉に遥は堪らず脱力する。見舞いに来た時も同じ事を言っていたので、辰巳は割りと本気で『おにいちゃん』と呼ばれたがっている様だ。それなら試しに一度くらいは呼んでやってもいいかと考えた遥は、どうせなら思いっ切りそれらしく言ってやろうと少々悪戯心を働かせた。
「おにぃちゃん?」
小首を傾げた上目遣いでわざと舌っ足らずな発音を心掛け、ついでに口元に人差し指を添えて、そんな考え得る限りの幼女っぽさを装って遥はそう言ってみた。
「おお…!」
念願のおにいちゃん呼びに辰巳はかなり嬉しそうだが、遥はやってみてから自分の中で猛烈な恥ずかしさが込み上げてくる。
「ごめん、今の無しで…」
そうは言ったが最早後の祭りだ。辰巳を『おにいちゃん』と呼んだのは恐らく物心ついてからは初めての事だろう。辰巳は嬉しそうな顔で一人何度も頷き今し方の言葉の響きに浸り、遥の横では賢治が手で顔を抑え明後日の方を向いて肩を震わせていた。
「遥、賢坊の事も『けんじおにいちゃん』って呼んでやれよ」
しばらくおにいちゃんと言われた余韻に浸っていた辰巳が突然真顔でそう言ったので、不意に話の鉢が回ってきた賢治は大慌てである。
「い、いや、俺はいいっすよ!」
辰巳に向けられた言葉と分かりながら、遥のあまりに可愛らしい様子を目の当たりにして悶絶していた賢治としては、それが自分に対して放たれたらひとたまりも無いと確信できる。
「ハル、言わなくていいぞ! 絶対だぞ!?」
遥としても親友の賢治を「おにいちゃん」と呼ぶのは、実の兄をそう呼ぶのとは比較にならないほど恥ずかしそうだと思わなくはなかったがしかし、賢治がお笑い芸人の前フリみたいな事を言うので、羞恥心よりも悪戯心の方が勝ってしまった。
「けんじおにぃちゃん…」
羞恥心を圧してそう言った遥は、頬を赤らめはにかんだ様子で、先ほどよりもさらに破壊力を強めていた。そんな遥を前にして賢治は完全にノックアウトである。賢治がよろよろと壁にもたれかかってぐったりすると一部始終を見ていた辰巳は大笑いだ。どうやら完全に確信犯である。
「そんじゃ俺は先に下行ってるから、お前たちもぼちぼち降りて来いよ」
ひとしきり笑った辰巳がそう言い残して階下へと戻って行くと、残された遥と賢治の間には何とも言い難い微妙な空気が横たわった。
「流石に言わせもらうが…」
ふらついた足取りで壁から戻った賢治が引きつった笑顔で遥に向かう。
「あー…うん…」
遥も同様にややひきつった笑顔を返す。辰巳の言葉と賢治の前フリに乗せられつい悪乗りが過ぎたが、言った遥本人も内心では今のは完全に無しだったと感じていた。
「勘弁してくれ…」
賢治が近頃口癖となりつつあるその言葉をぐったりとして口にすると、遥も今回ばかりはその言葉の因果関係が明白な為に素直な気持ちで自分の行いを謝罪した。
「ごめん…」




