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2-6.距離感

 賢治のスマホに美乃梨からの着信があった後、美乃梨がどうするつもりなのか二つ三つ言葉を交わしてからは、遥と賢治の間に気まずい沈黙が横たわっていた。遥はベッドに座り、賢治はそのベッドに背を預ける形で座っている為、お互い顔を見ないままで既に二十分以上が経過している。

 賢治は遥に対する供述を保留にしたままで、未だに考えが纏まっていないため何も言えず、片や遥の方は自分が賢治の重荷になっているのではないかと考え切ない気持ちを募らせていた。

 遥は不安な心を賢治に預けてもいいと思えた矢先だったが賢治とは親友同士だ、一方的に依存して負担を強いるような関係では居たくないという思いが強く、あくまで肩を並べ隣に居られる関係を望んでいた。しかし今の自分にそれが出来るのだろうかとそう考えると、遥には正直その自信がない。それどころか不安定な今の心は賢治の支えがなければ再び恐怖に飲み込まれてしまうだろうという、確信に近い予感さえ有る。賢治に依存して負担になりたくないという想いと、賢治に寄りかからなければ立っていられないという相反する想いに挟まれ、遥の心は今や身動きの取れない状態だった。

「ハル、俺に少し時間をくれないか…」

 長い沈黙を破り先に口を開いたのは賢治の方からだった。賢治は結局遥に対する自分の心境を整理できぬままでいたが、ともかく今は遥を安心させなければと、何とか捻り出したのがそんな言葉だった。今はまだ見慣れない遥の見た目に翻弄されているだけで、時間を置けば気持ちも落ち着きまた元の親友として見られるはずだとそう考えたのだ。

「ボク…賢治の重荷になってるかな…?」

 賢治が口を開いたことで遥もつられて今感じている不安を口にする。その声があまりにもか細く弱々しく聞こえた為か賢治は慌てて遥の方へと向き直った。

「ハル、それは無い。それだけは断言する」

 賢治が真っ直ぐな眼差しで躊躇う事なくはっきりとそう答えた事で、遥は少しだけ気が楽になったがしかし、それでもまだ胸につっかえた物がある。疲弊した様子で勘弁してくれと言った事、抱き締めてくれた事を美乃梨に伝えようとしてスマホを取り上げられた事、それらと折り合いがつかないのだ。

「じゃあ…どうして…?」

 呟くような遥の問いかけを前に賢治は答えに窮する。しかし、ここで黙ってしまっては、遥にまた無用な不安を与えてしまう。それだけは避けたい賢治は必死になって言葉を探した。

「あー…その…上手く言えないんだが…そのだな…」

 何とか遥を安心させられる言葉を見つけようと頭をフル回転させるも、二十分間の沈黙の内に見いだせなかった物をそう都合よく見つけられる筈もなく、結局賢治には言い淀む事しかできなかった。

 賢治が必死に言葉を探していると、それまで賢治を真っすぐ見つめていた遥が俯き加減になって、自分の胸元を両の手でぎゅっと掴むような仕草を見せた。遥のその様子はまるで祈りを捧げているかの様で、それを目の当たりにした賢治は最早言葉を選んでいる余裕が無くなった。

「俺は…ハルの事が好き…なんだ」

 追い詰められた賢治が絞り出すようにして口にしたのは、遥が可愛くて意識してしまう等という段階を大きく飛び越えた、赤裸々なまでの身も蓋もない言葉だった。口にした賢治も、言われた方の遥も、その言葉の重大さに一時思考が停止し、二人の間にはまたしばしの沈黙が訪れた。


 追い詰められ思わず核心とも言える言葉を口にしてしまった賢治が、遂に自分は遥を可愛く思う余り真正のロリコンに開眼してしまったのかと言い様の無い自己嫌悪に苛まれ、いやそんなはずはないと必死の自問自答を繰り返していると、賢治の言葉を受けてから呆然となっていた遥が突如声を立てて笑い始めた。

「なっ、何を言うかと思ったら、け、賢治…!」

 突然笑い出した遥に賢治はぎょっとして、笑う程滑稽だったのかと益々自己嫌悪を募らせたがしかし、遥の様子は嘲笑っている様では無く、むしろそれまでの切なげな様子が嘘だったかの様な明るく前向きな笑顔を咲かせていた。

「そんな、いきなり、す、好きって!」

 遥は込み上げる笑いに息も絶え絶えになりながら、賢治の自己嫌悪とは裏腹に親友の示してくれたその単純明快な気持ちが心底嬉しかったのだ。本当に何でそんな簡単な事に気付かなかったのかと、遥はネガティブになっていた自分の思考を省みる。依存だ重荷だと物事を深刻に考え過ぎていた。慣れない身体と賢治に頼りきりの状況を前に見落としていた。賢治の示してくれたシンプルな感情を前に、遥の思考は明るく見晴らしがよくなり一気に気持ちが浮上する。思えば賢治とはこれまでの十五年間、一緒に居るのが当たり前の関係だった。そこへ来て今更そんな根本的な事を言われるとは思ってもいなかった。賢治とは親友同士、そんな言葉上の形式に囚われ対等に肩を並べられる存在で居たいという思いばかりが先行していた。しかし、何も思い悩む必要などはなかったのだ。

 一頻り笑い終えた遥は一つ大きく深呼吸をして、黒目がちの大きな瞳で真っすぐ賢治の姿を捉える。賢治の言ってくれた言葉と、自分自身の気持ちを確かめ、遥は笑った事で目にたまった涙を指先で拭い去り、親友の気持ちに極上の笑顔でもって応えた。

「ボクも賢治の事、大好きだよ」

 賢治が示してくれた気持ちを、そのまま同じ気持ちとして賢治へと送り返す。

 いつか辰巳が言っていた。『人は助け合って生きていく』と。今は助けられる側でも、賢治と二人、変わらず共に歩んで行けるのならば、何より賢治がそれを望んでくれるのならば、これから先いくらでもそれに報いる機会は有る筈だ。兄の教訓と賢治が示してくれた気持ちを胸に、遥はそう前向きに思いを改める事が出来た。

 俄かに気を取り直した遥の一方で、対する賢治は少々混乱気味である。急に笑い出した遥が花のような愛らしい笑顔で「大好き」と言ったので一時は口から心臓が飛び出すかと思ったが、そのあっけらかんとした様子を鑑みるとどうにも互いの認識にはズレがあるのではないかと思い至った。賢治は自分の発言を、遥の愛らしい外見を意識するあまり完全に特殊性癖を目覚めさせてしまったが故の物と思っていたがしかし、遥の方はほぼ間違いなく親愛の気持ちとして受け止めているだろう。遥の認識は勘違いも甚だしいのだが、うっかりと口を滑らせてしまった体の賢治にとっては九死に一生を得た形だった。

「あー…、うん、親友だからな…俺達…」

 賢治は一先ず今は遥の勘違いに便乗して、この時ばかりは遥が天然で助かったと引きつった笑みを浮かべる。

「頼りにしてるよ、親友!」

 遥が明るい笑顔でそう言ったので、一先ず自分の存在が重荷になっているという自責の念は解消されたのだと分かって、賢治はその事には胸を撫で下ろしたのだがしかし、その一方で自身の問題は解決されないまま、むしろ告白紛いの言葉を口走ってしまう程、悪化してしまっていると気が付き再び頭を抱えそうになった。

 賢治が更なる自己嫌悪を募らせ、自分は一体今後どう遥に接していけばいいのかと頭を悩ませていると、遥が不意にピョコッとベッドから飛び降り何やら妙にソワソワとした様子を覗かせた。

「ど、どうした…?」

 突然の動きにビクッとした賢治が恐る恐る尋ねると、遥は少々恥ずかしそうに俯き加減になる。

「ボクちょっとトイレ…」

 不安が解消され気が緩んだ為か、生理現象に見舞われた遥はそう言うと一旦部屋を出て行った。


 中座した遥は部屋に戻ると相変わらず不快感を漂わせる自室に顔をしかめ室内を一瞥する。中は当然出た時と変わった様子もなく、気持ちが浮上したからと言って、初めからそこにずっと存在し続けていた不快感が急に消え失せる訳もない。そんな中にあって賢治の姿が妙に頼もしく見えたのは遥の心理的には無理からぬ事だろう。半ば無意識にふらふらとそちらの方へと歩を進めた遥は、賢治の前で足を止めそう言えばと首を傾げる。

「ねえ、賢治は何を勘弁してほしかったの?」

 気持ちを持ち直し、今ではそれほど深刻には受け止めていなかったが、それでもやはりどこか引っかかっていた。美乃梨との通話を途中で遮られた事もそうだ。

 遥の質問に賢治はギクリとしたが、折角遥が気を取り直した今ここでまた言い淀んでは元も子もない。賢治は遥が席を外している間に、急場凌ぎではあるが一先ずの対応策と方針を何とか纏め上げていた。

「ハルは…、俺が抱き締めたら…その匂いに、安心したって…言ったろう」

 賢治は言葉にしながらその時の状況と自分の心境を思い出して気まずさを覚えながらも、なんとか淀みなく話の道筋を作っていく。

「俺達その…、元々男同士だろ? だからちょっと抵抗がないか?」

 予め用意してあった言葉を言い切った賢治はぎこちない笑みを見せて、これで何とか言い訳が立ってくれればと内心で冷や汗を流す。それは遥を女の子として意識してしまっている本心とは裏腹の、有りのままを語れない賢治の導き出した苦肉の策だった。自身で若干苦しい言い訳だとは感じているものの今は遥の男としての価値観に一縷の望みを託すしかない。

 賢治の解答を受け取った遥は、口元に人差し指の背を当て何やら考え込む仕草を見せてから、ややあってその表情をぱっと明るくした。

「なんだ、そういう事かぁ」

 遥としても、親友の腕の中で平静を取り戻した時に感じた気恥ずかしさを思い起こせば、賢治の説明は理解できる話で、美乃梨との通話を遮ったのも同様に気恥ずかしかったのだろうと納得する事が出来た。

 遥が得心のいった様子を見せたので賢治はほっと胸を撫で下ろしたがしかし、次の瞬間、遥が何の前触れもなく自分の真横に引っ付くようにして腰を下ろした為に賢治の心臓は再び口から飛び出そうになった。

「なっ…!」

 遥のその行動は、不快感を感じる自室の中で一番安心できる場所を求めた一種の防衛本能が取らせた半ば無意識の物だったが、そんな遥の行動原理はともかくとして、今し方男同士の過度な接触やあるまじき態度は抵抗があると言ったばかりの賢治にしてみれば完全に計算外で想定外の事態だ。

「は、ハル…近く…ないか?」

 賢治は動揺しつつもなるべくやんわりとした口調で遥に進言する。男同士の距離感では無いと気が付けば遥の方から位置を改めてくれるのではないかと期待しての事だ。

 無自覚だった遥も自分の位置取りを把握すると、賢治の言わんとしている事に気が付いて、確かに近いかもしれないと感じた物の、賢治の傍は絶大な安心感があるため、正直気恥ずかしさや抵抗感よりも離れ難いという心理の方が大きく働いた。

「ダメ…かな…?」

 できればこの位置をキープしたい遥は賢治に懇願の眼差しを向けこのままが良い事をアピールする。そんな遥の甘えるような上目遣いは賢治の内心を益々と動揺させたが、賢治は何とか平静を装い引き続き男同士路線で遥を説得してみようと今度はその事をはっきりと明言した。

「ダメっつうか…その…、男同士の距離ではない…よな?」

 遥も思考の上では賢治の言う事をもっともだと理解するのだが、心理的にはどうしても離れ難い。遥はどうすれば賢治に嫌がられずにこの位置を維持できるだろうかと考えを巡らせるが、そもそも考えるまでも無かったと直ぐに一つの解答を導き出すに至った。

「でもボク、今は女の子だから良くない?」

 賢治が男同士で引っ付くのが嫌だと思う気持ちは十分理解できたが、なにせ今の自分は女の子で幼女なのだから、むしろ何の不都合もないのではないだろうかと遥は考え付いたのだ。しかしこれに参ってしまったのが賢治である。賢治はあくまで遥を誤魔化す為、便宜上男同士路線を取っているに過ぎず、そこへ遥の側から女の子だからと言われてしまっては全くもって返す言葉がない。遥が女の子だからこそ、その距離を改めてほしかった賢治にとっては完全に裏目の結果だった。

 遥に密着されて気まずい賢治がどうしたらいいのかと困惑していると、遥がその小さな手でキュッと袖を掴み体重を預けてきた。

「なっ…!?」

 突如そんな如何にも女の子っぽい仕草をみせた遥に賢治はぎょっとして、思わず遥を振り解きそうになってしまったがしかし、そんな行動を取った遥の実際の様子を目の当たりにして寸前の所でそれを思い留まった。

「賢治の傍が一番安心するから…」

 少し目を伏せ弱々しく笑ってそう言った遥の表情はどこかいじらしく、それは必然と先刻恐怖に震えていた遥の姿を想起させるものだったのだ。賢治が抱き締めた時に感じた遥の身体は驚くほど小さく華奢で、それに比べ垣間見せた感情は測り切れない程重く大きな不安に押しつぶされそうになっていた。それを思い出した賢治にはもう遥の事を振り払う事など出来はしなかった。

「そう…だよな…」

 賢治は一つ大きく息を吐いて、遥が抱えている問題に比べれば自分の動揺や戸惑い等はちゃちな物だとそれらを頭から追い払う。自分は遥の傍で遥を支えていくと決めたのだと、先程誓ったばかりの気持ちを確かめると、今この時はもう遥との距離を改めようは思わなくなった。

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