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2-5.動揺

 賢治の力強い抱擁によって恐怖を払拭できた遥は、平静を取り戻した心持の中で妙な気恥ずかしさを感じていた。親友である賢治に対して無様な姿をさらけ出してしまった事も要因の一つではあるが、未だ親友の力強い腕に抱かれているという現状が気恥ずかしさを覚える最大の原因だった。

 賢治に抱き締められるというシチュエーションは、十五年間の記憶を遡ってみても遥には覚えがない。入院中、覚束無い身体を抱き止められた事等は何度かあったが、せいぜいその程度のもので正面切っての抱擁となると今回が初めてなのだ。

 知らない匂いのせいで他人のテリトリーの様に感じられる自室において、賢治の腕の中は良く知る賢治の匂いがして絶大な安心感がある事は確かなのだが、平静を取り戻した今、親友の腕に甘える自分という構図を俯瞰的に考えると、情けなさを覚えるのもまた確かだった。故に遥は流石にこの状況からそろそろ脱した方がいいと考え始めたが、賢治の力強い抱擁に対してその小さな身体に備わる膂力はあまりに弱く、到底自力で抜け出す事は出来そうもなかった。そうなると後はもう賢治自らその抱擁を解いてもらうしか道はない。

「賢治、もう大丈夫」

 自力脱出が不可能だと悟った遥は一先ず平静を取り戻した今の心持を申告してみた。自分がもう平気だと分かれば賢治も抱擁を解いてくれるだろうと考えたのだがしかし、遥のそんな思惑に反して賢治はその腕を一向に放さなかった。

「俺が付いてる」

 遥が未だに恐怖に囚われていると思ったのか、賢治は腕を放すどころか一層力強い抱擁と共に力強い言葉を返してきた。親友の思い遣りは遥にとって大変有難いものなのだが、既に十分勇気づけられた事だし、気持ちももう落ち着いているので今はとにかく身体を解放して欲しかった。少し天然な賢治にはストレートに言った方がよかったかと、遥は気を取り直し素直に進言してみる事にする。

「賢治、そろそろ離して…?」

 遥が少し困った調子でそう言うと、賢治もようやく遥の意図を理解したようで、腕の力を緩めゆっくりと身体を離して正面から遥と向かい合う形になった。

「賢治のおかげでもう大丈夫」

 先程まで真っ青な顔で震えていた遥が愛らしく微笑みそう言ったので賢治は一安心したが、それも束の間、遥の可憐な姿を視界に収めた事で、今更になって激しい動揺の波が心に押し寄せてきた。遥を勇気付ける為にとった行動に後悔はないものの、遥を抱き締めたというその事実は、今の遥を異性として意識してしまっている賢治にとって余りにもクリティカルな出来事だ。賢治は動揺すること頻りの自身の心境を前に、俺は本当にロリコンになってしまったのかと自問する。これまで自分は極めてノーマルな人間だと思っていた賢治だが、年端も行かない少女の姿をした遥に強く心を奪われてしてしまっている以上最早言い逃れできない気がして思わず頭を抱えてしまった。

「賢治、どうしたの?」

 抱擁を解いたかと思うと急に情けない顔でそわそわしだした賢治を前に遥は少々困惑気味だ。賢治はどうしたのかと聞かれても、自分は真正のロリコンかもしれない等とは到底言える筈もない。

「あー…いや、なんだ、その…、慣れない事したから…かな…」

 結局そんな歯切れの悪い返答を返すのが精いっぱいの賢治だったが、その解答に遥は疑問を抱く事なくすんなりとそれに納得した様で特に深く追求してこなかった。遥は賢治に抱き締められた自分が妙な気恥ずかしさを覚えた以上、抱き締めた方の賢治が同様に感じても不思議は無いと考えたのだ。

「賢治、ありがとう」

 遥は慣れない行動をしてまで自分を励ましてくれた親友に対する感謝の気持ちを述べると、少し照れくさそうにもじもじとしてポッと頬を赤らめた。

「賢治の匂い、凄く安心した…」

 それは心を救われた遥が感じたままの偽りない率直な感想だったが、身長差のせいで相変わらずの上目遣いで放たれたその言葉は、賢治の動揺を急加速させるにはこれ以上ない物だった。

「お、おまっ…!」

 賢治は目を白黒とさせ、大凡十代の男子が友人に向けて言いそうもない発言をした遥の方こそが間違いなく天然だと確信する。いくら幼女と言えども遥は飛びぬけた美少女だ、そんな遥から今の様な発言を向けられた男は誰であろうと少なからずときめいてしまうだろう。破壊力抜群だった遥の無自覚な攻撃に晒された賢治は、動揺し尽くして最早気力が底を尽きそうになる。

「ハル…勘弁してくれ…」

 動揺と精神的疲弊から賢治が無意識にそんな言葉を口にすると、遥は急に切なげな表情をして俯き加減になってしまった。

「あ…、そう…だよね…」

 そう言った遥の声が余りに弱々しかった為に賢治ははっとなり無意識とは言え自分がとんでもない失言をしてしまっていた事に気が付いた。遥はただでさえ物事を深読みしやすい性格な上、今は精神的にかなり弱っている。そんな遥に対して否定的なニュアンスを含んだ発言をすれば、それは当然ネガティブな感情だと受け取られても仕方がない。その発言の無神経さを非難される程度ならまだいいが、最悪の場合、遥は自身を親友に負担を強いる不甲斐ない存在だと思い込んで自責の念を抱きかねない。

「賢治…ごめんね…」

 下を向いた遥が消え入りそうな声で謝罪の言葉を口にした事で、賢治は自分の予測した遥の心境が大凡で当たっていたと確信し自分の迂闊さを激しく後悔した。

「いや、違うんだハル! っと…その…だな…」

 賢治は慌てて弁明を図ろうとするも、親友という立場もあり遥が可愛すぎて異性として意識してしまう等とは到底本人に対して言える訳もない。何かうまい言い訳は無いかと必死で考えるが動揺と焦りに気が逸るばかりで全く良い案は浮かばず、せめて何か言って何とか誤解を解かなければと思うと益々焦って思考は混迷していくばかりだ。纏まらない考えと切なげな遥を前にして、もうこの際全てぶちゃけるしかないのかと賢治が思考のどん詰まりにまで追い込まれたその時、突如室内にけたたましい電子音が鳴り響いた。

「ぬぁっ!?」

 気が焦っていた賢治は突然の音にぎょっとして思わず妙な声を上げてしまったが直ぐにそれが自分のスマホの着信音だと気が付き、慌てて立ち上がってズボンのポケットからスマホを取り出す。

「す、すまん、着信だ」

 賢治が取り出したスマホの画面を確認すると、表示されていた名前は普段見るとややうんざりとした気分になる相手だったが、今回ばかりはその名前が救いの神に思えた。遥への弁明を一旦保留にできる体のいい口実をくれた事に感謝しつつ賢治は応答を示す緑色のアイコンをタップして、耳元へとスマホを持って行く。

「はい紬―」

 賢治が言い終わるよりも早く耳に当てたスピーカーが咆哮を上げた。

『遥ちゃんと今一緒ですか!? 今日退院なんですよね!? 今どこに居るんですか!?』

 スピーカーから鳴り響いたのは賢治が画面で確認した通りの相手、元気の有り余った美乃梨の声だった。その溢れんばかりのエネルギーにまかせた声量に耐えかねた賢治は思わず自分の耳元からスマホを離す。

「声でけえよ!」

 遠ざけたスマホに向って堪らず声を荒げ抗議した。

「美乃梨から…?」

 美乃梨の大きな声は遥にも聞こえた様で、賢治は頷き肯定すると再びスマホを耳元にかざす。

『ごめんなさーい、それより遥ちゃん! 遥ちゃんは!?』

 美乃梨の声はさっきよりも音量抑え目になったが、遥を求める気持ちまでは抑えめにはならなかった様だった。着信があった時点でこの流れを予想をしていた賢治は予想通りの美乃梨の様子に思わず苦笑する。

「あー、今ハルの部屋で一緒にいるよ」

 賢治が現在の状況を簡潔に告げるとスピーカーから奇声とも悲鳴ともつかない美乃梨の声が上がったので賢治は再び耳からスマホを離す。

「だから声でけえよ!」

 再度強い語気で抗議しスマホを戻すと美乃梨の荒々しい息遣いが聞こえて来た。

『遥ちゃんと、へ、部屋で二人っきりとか…なにそれヤバい!』

 何を想像しているのか妙に興奮した様子の美乃梨に、何を言ってるんだこいつは、と賢治は呆れずにはいられない。美乃梨は散々病室で遥と二人きりの時間を過ごしていたはずなのだが、公共の場とプライベートな場所では違う物なのだろうかと疑問に思うが余りその解答を聞きたいとは思えず、賢治は敢えて突っ込まなかった。

『遥ちゃんと代わってください!』

 気持ちを抑えきれない美乃梨が遂には遥を直接要求してくると、遥への対応で疲弊していた賢治は今美乃梨のテンションに付き合うのは中々辛い物があったために、大人しく遥へと自分のスマホを手渡した。

「美乃梨が喋りたいってよ」

 賢治からスマホを受け取るとそれまで切なげだった遥の表情が和らぎ小さく笑みをこぼしたので賢治はやはり救いの神か、とこの時ほど美乃梨の存在に感謝した事はなかっただろう。

「美乃梨?」

 遥が賢治のスマホに向ってそう問いかけると美乃梨がまた奇声だか悲鳴だかわからない声を上げるのが賢治の耳にも届いた為、賢治は美乃梨神説を不相応に過ぎると頭から消し去った。

 美乃梨の奇声に一旦スマホを遠ざけた遥が再び耳元にスマホを戻すと美乃梨は明るく朗らかに遥の退院を祝福してくれた。

『遥ちゃん! 退院おめでとう!』

 遥は美乃梨の真っすぐな言葉に心が和らぎ、そういえば美乃梨にとっても今日は祝いの日だったと病院を出る時にした賢治との会話を思い出す。

「ありがとう、美乃梨も中学卒業おめでとう」

 美乃梨が遥の退院に駆けつけられなかったのは、今日が中学の卒業式だったためだ。そうでなければ美乃梨は間違いなく遥の退院の場に居合わせた事だろう。

『ありがとう! それより遥ちゃん! 今遥ちゃんの部屋で賢治さんと二人っきりってほんと!?』

 卒業式の事には一切触れず美乃梨が興奮気味にそう問い詰めてきたので遥は苦笑する。

「うん、賢治の車で家まで送ってもらって、家に帰ってからはずっと一緒だよ」

 遥が有りのままを答えるとそれまでハイテンションだった美乃梨が一段声のトーンを落とした。

『賢治さんに変な事されてない?』

 遥は美乃梨の質問の意味が良く分からず首を捻る。賢治はたまに悪ふざけをする事はあるが突拍子もない事をするタイプではないので賢治に変な事をされる状況がどんなものか、遥にはいまいち想像がつかない。

「変な事って?」

 遥が素直に問い返すと美乃梨は引き続き声を潜め質問の内容を改めた。

『変わった事とかない?』

 相変わらず質問の意図が良く分からない遥だが、賢治が慣れない行動に出てまで自分を励ましてくれた事は、今までになかった変わった出来事だったかと思い至った。

「そういえば賢治はさっきボクの事をだき―」

 遥がそう言い掛けたところで賢治は咄嗟に遥からスマホを掻っ攫った。間違いなく遥は「抱き締めてくれた」等と言うはずだっただろう。ただでさえ度々ロリコン呼ばわりしてくる美乃梨にそんな事を聞かれた日には何と言われるか分かったものではないので、賢治は思わずスマホを取り上げてしまったのだった。話の途中で急にスマホを取り上げられた遥は唖然としていたが、このままスマホを返すとまた同じ会話を続けかねないと、賢治は一旦仕切り直す為スマホを自分の耳元に当てる。

「あー、あのだな…」

 通話を変わった物の何を言おうかまでは考えていなかった賢治が言葉を探していると、賢治の声を聞いた美乃梨の方が先に口を開いた。

『賢治さん! どういう事ですか!? さっき遥ちゃん「だき」って言ってましたよ!?』

 どうやらそこまではしっかりと聞き取れていたようだ。賢治はこれは不味いと内心冷や汗を流す。

『まさか…、抱き着いたりとかしてませんよね?』

 図らずも正鵠を射た美乃梨の察しの良さに賢治は絶望する。

「いや…それはだな…」

 遥を抱き締めたのは事実なだけに賢治は否定もできずひたすらに言葉を濁す事しかできなかった。

『否定しないって事はやっぱり遥ちゃんに抱き着いたんですね!』

 益々勘の良さを発揮させる美乃梨を前に、賢治は通話を切ってしまいたい衝動に駆られたが、しかしその必要はなかった。

『今からそっち行きます!』

 興奮気味にそう言い放った美乃梨の方から一方的に通話が打ち切られたのだ。賢治はスマホを持っていた手をだらりと下げ乾いた笑いを漏らす。これはいかにも不味い状況の様な気がしてならない。やはり美乃梨は救いの神等ではなかったのだと賢治は改めて美乃梨神説を一人全力で否定した。

「あれ、切れたの?」

 遥はスマホを耳元から下げた賢治の動作から通話が終わった事を察し、自分はまだ話の途中だったのではと首を傾げる。

「なんか、今からこっちに来るって言って切れたわ」

 美乃梨が言い残した言葉を賢治が伝えると遥はちょっと驚いた顔を見せた。

「えっ、来るって…家に?」

 遥の疑問に賢治は頷いて返すしかない。来ると言ったからには来るのだろう。

「家の場所知ってるのかな?」

 遥がもっともな疑問を漏らすと賢治も首を傾げた。

「さぁ…?」

 少なくとも賢治は美乃梨に場所を教えていないので美乃梨が場所を知っているのか、知らなかった場合どうするつもりなのかは分からなかったが、ただ状況的に考え場所がわからずこの場に現れないでくれたら助かるのだがと、賢治は一人都合のいい顛末を願った。

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