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2-4.違和感

「ハルの部屋久し振りだな…」

 階段を昇りきった賢治は遥の自室を前にそんな呟きを漏らす。賢治にとっては遥が事故に遭って以来三年振りに訪れる事になるので実に感慨深い物があった。

「そうだねー」

 やや神妙だった賢治に対してお気楽な調子で答える遥は、特に思う所もなくいつも通りの感覚で扉を開け室内へと入っていく。遥にとっても三年振りの自室ではあるものの、体感時間では一ヶ月半しか経っていないので、賢治とは違い精々ちょっと長く留守にしていた程度の物だ。

 躊躇なく自室に踏み込んだ遥が入り口から室内を一瞥すると、中は綺麗に整頓されており三年間使う者が居なかったにも関わらず埃っぽさも無ない。もっとも遥は部屋を散らかすタイプではないので整頓された様子は遥が最後に見た時の記憶とそう違いは無く、強いて言えば事故に遭った日の朝、家を出る際に脱いだ寝間着が見当たらない程度のものだ。埃っぽさがないのは響子がこの三年間定期的に換気と掃除をしていた為だが、三年という実感の薄い遥はその事に迄は気が回らなかった。

 遥はカーテンを開け、光が差し込み明るくなった自室を改めて見まわすと特に変わった様子がない事を再確認する。

「やっぱり自分の部屋はいいなぁ」

 自分にとって聖域とも言える空間の中、遥は一度大きく伸びをすると病院生活で幾分か疲弊した身体と心を休める為に、自分のベッドへ身を投げ出す様にして倒れ込んだ。

「ボクのベッドぉ…」

 慣れ親しんだ感触を存分に満喫する予定だった遥だがしかし、軽くなった体重は以前ほどマットレスを沈み込ませず、小さくなった身体は妙にベッドを広く感じさせた。思ったほどしっくりこなかったその感触にほんの少しだけ気落ちした遥だが、身体が変わったのだから仕方がないと自分を納得させ、一先ず今は自分の部屋に戻ってきたという満足感の方を優先させた。

 賢治は遥の代わりに持ってきたスポーツバッグを壁のフックに掛け、以前いつもそうしていた様に遥が寝転ぶベッド脇の床に腰を下ろす。記憶と寸分と変わっていない、かつて遥と多くの時間を過ごしたこの部屋に二人で居られる今の状況を実感した賢治は、また一つ戻って来た日常に三年間の空虚だった思いの多くが満たされていった。

 賢治が一人そんな感慨に浸っていると、それまで布団に埋もれていた遥がガバっと起き上がり冴えない表情を見せた。

「うーん…」

 起き上がった遥が難しい顔で唸るので賢治が心配になり「どうした?」と尋ねると、遥は人差し指の背を口元に当て小首を傾げながら難しい顔で賢治に問い掛ける。

「ここ、ボクの部屋だよね?」

 その質問の意味が良く分からなかった賢治は、有りのままを答えるしかない。

「どう見たってハルの部屋だろ」

 間違いなく今いるのは賢治も良く知っている遥の部屋で、状態も三年前とほとんど変わっていない。しかし遥は賢治のその返答にも何か納得がいっていない様子だった。

 遥も勿論ここが自分の部屋であるという事は客観的には分かっていたし、部屋に入った時はその慣れ親しんだ空間にほっとしたのも確かだ。しかし今はどうにも違和感がある。初めは以前と違って感じられたベッドのせいかと思ったがどうやらそうではない。正体を突き止めようとぐるりと室内を見渡せば確かに物のスケール感は記憶と違って見えるものの、それも違和感の原因とは言い難い。今感じている違和感、不快感と言い換えてもいいそれは感触や視覚とはまた違う、もっと別な目に見えない何かに由来していると遥には感じられた。

 遥は正体不明の不快感に首を捻るがいくら考えてもそれらしい原因には思い当たらず、結局その正体が掴めないままギブアップして再びベッドに倒れ込むと長年愛用の枕を手繰り寄せ、そのままそこに顔をうずめさせた。

「どうかしたのか?」

 賢治が一体全体どうしたのかと疑問を投げかけると、今し方倒れ込んで枕に顔をうずめたばかりの遥が再びガバッとベッドから起き上がる。遥はそのまま訝しむ賢治の問い掛けには答えず、抱えていた枕を傍らに置くとベッドの上で四つん這いになって、そこから身を乗り出し賢治の首元辺りに顔を近づけた。

「お、おい…」

 唐突な行動と間近に迫った遥の愛らしい顔に動揺した賢治は、堪らず距離を取ろうと上体を逸らしたがその動きに遥が追従してきたため距離は全く離れなかった。息がかかる程の距離に迫った遥に気まずさを募らせた賢治は、これは実力行使に出るべきかと考えたが遥は程なく離れ何やら納得した様子で一人頷きを見せる。そして今度はさっきまで顔をうずめていた枕を手に取って、両手でそれを抱きしめるとそこにまた顔をうずめさせた。

「おい、一体何なんだ?」

 訳の分からない賢治が堪らずそう尋ねると遥は抱きしめていた枕を賢治に向って差し出した。

「ちょっと嗅いでみて」

 意味の分からない申し出に賢治は思わず「はぁ?」と語尾を上げ不審を露にしたが、遥はそんな賢治に「いいから」と構わず枕を押し付ける。仕方なく賢治が言われるがまま枕の匂いを嗅いでみるが特に気になる匂いは感じられない。おそらく遥の母が定期的に日干ししていたのだろう、カビ臭さ等もなく、強いて言えばよく知る遥の匂いが微かにするくらいの物だ。

「何ともないが…」

 困惑しながらも賢治が素直に感想を述べると、遥は賢治から枕を取り上げ、無造作にそれを後方へ投げ捨てる。

「じゃあ今度はボクの事嗅いでみて」

 そう言ってまたベッドから身を乗り出した遥は、賢治の眼前に自分の顔を寄せると耳元に掛かるその少し癖のあるふわふわとした自分の髪を指し示す。賢治は堪らず先程よりも強い語気で「はぁ?」と不審の声を上げ、これは何かの冗談か悪戯なのだろうかと間近にある遥の顔を覗き見るがその表情はかなり真剣な面持ちだった。あまりに真剣なので突っぱねる訳にもいかず賢治がどうした物かと逡巡していると遥が「はやくっ」と催促して来たので賢治は仕方なく言われるまま遥の耳辺りにかかる髪に自分の鼻を近づけた。

 イケメンで異性からもモテる賢治だが、何方かといえば硬派な部類なので女性の髪の匂いを嗅ぐなどというキザで変態的な行為は生まれてこの方した事がない。しかし親友の真剣な頼みとあっては無下にもできず賢治は渋々と遥の髪を香ってみるが病院で清潔にしていた遥からは特に目立った匂いは感じられず、遥が病院で使っていたソープ類も香料を含まないナチュラルな物だった為その残り香も殆どしない。訳の分からない賢治が羞恥心に耐えながら遥の香りを確認していると、その訳の分からない要求をしてきた当の遥が何やらもぞもぞとしだした。

「賢治…くすぐったい」

 賢治は遥の耳元辺りに鼻を近づけていた為、意図せず遥の首筋に吐息がかかってしまっていた。遥の言葉にぎょっとした賢治が思わず肺に溜めていた空気を吐き出してしまうと遥がビクリと身を震わせその瞬間、日向を思い起こさせるふわりとした香りが賢治の鼻孔を微かに撫でて行った。

 身じろぎした遥と何より不意に香った芳香に驚いた賢治は咄嗟に遥から顔を離す。むずがゆそうに自分の首筋を撫でる遥の姿と今し方感じた香りを前に、賢治の心拍数が俄かに上昇した。賢治にとってその香はこれまでの人生で何度か嗅いだことのある類の物だったがしかし、それが遥から香ったとなるとその心中は穏やかではない。

「どうかな?」

 遥は首筋を押さえながら賢治をじっと見つめ至極真面目にその感想を求めてくる。賢治はどうだったかと聞かれても、それをそのまま答えるのは何か憚られる様な気がして言い淀んだが、遥があまりにも真剣なので誤魔化すわけにもいかず感じたままを答えるしかなかった。賢治はその香りを正確に表現する語彙力を持ち合わせていなかったが、敢えて言い表すとするならばそれは一つしかない。

「なんつうか…、その…、女子みたいな良い匂いがした…」

 賢治は自分で口にしておきながら何を言っているんだと顔を覆いたくなる。やはりこれは何かの悪戯か罰ゲームの類で、この後きっと遥は例の小悪魔の様な笑みでネタバラしをしてくれるに違いないと自分に言い聞かせなんとか気持ちを落ち着かせたがしかし、遥は真剣な面持ちを崩さず、それどころか次第にその表情を陰らせていった。

 突然顔を近づけたり匂いを嗅がせたり、あまつさえその感想を言わせたりと、散々自分を振り回した遥がみるみる暗く沈んでいった為賢治はもう唯々困惑するばかりだ。

「ハル…、言ってくれねえと分かんねえよ…」

 賢治が内心の困惑を露にすると遥は虚ろな表情で賢治へと視線を向けぽつりと呟いた。

「この部屋…ボクの匂いがするんだ」

 暗い表情でそう言った遥に賢治は一層混乱する。遥の部屋で遥の匂いがするのは当たり前の事だ。落ち着きこそすれ落ち込む理由が分からない。現に賢治は三年ぶりにこの部屋に入った時、その慣れ親しんだ空気感に大きな安心感を覚えていた。

「一体何を―」

 言いかけて賢治ははっとなる。遥が長年使っていた枕、そして遥から香った女の子の香り。その二つはまるで性質の違う匂いだった事を思い起こす。ここで賢治はようやく遥の意図と遥が最初に妙な疑問を口にした意味が分かった。得てして人は自分自身の匂いには鈍感だ。だから遥は自分の事をより客観的に熟知している賢治に確かめさせたのだ。

「ハル…お前…」

 賢治が遥の瞳を覗き込むと暗く沈んだ表情の中でその瞳がゆらりと光を反射して揺れる。

「ボク、知らなかったんだ…。知らない匂いなんだ…」

 そう言って目を伏せた遥の黒目がちな瞳に長い睫毛が影を落とす。これまでの十五年間、自分の匂いを意識してこなかった遥は身体が変わった事によって自分が十五歳の男子だった頃の匂いを感じ取れるようになっていた。それは、遥にとっては全く知らない他人の匂いも同然で、遥が十五年間を過ごしてきた自室にはそんな他人同然の過去の自分の匂いが染み付いている。それこそ遥が自室に戻って以来感じ取っていた不快感とも思える違和感の正体だった。

 それまで漠然としていたその不快感は、実態をハッキリと認識した事によって、明確なイメージとなって遥の心に大きな影を落とす。聖域のはずだった自分の部屋は今ではまるで知らない人間のテリトリーさながらで、それは同時に過去の自分が今の自分を拒絶しているかの様だった。

 俄かに不安を増大させた遥の心に何者かが『お前は誰だ』と問い掛ける。遥は駄目だと分かりつつもそれと向き合う事を拒めなかった。何故ならそれは、自分自身の声に他ならない。遥の心を十五歳の男子だった頃の自分が幻影となって光の宿らぬ瞳で覗き込む。

『お前は誰だ…』

 再度投げ掛けられたその問いは、遥が目覚めた直後に膨らませた自分は誰なのかという妄想等とは比べ物にならない、自身に対する明確な否定だった。過去の自分に拒絶され否定された遥は世界が大きく歪む様な感覚に陥り、その心からは波が引くようにして色が消え去った。

「ぼ、ボク…は…」

 灰色の世界に囚われた遥の脳裏に、病院を出てからこの半日の出来事がフラッシュバックする。

 知らない建物が目立つ住み慣れた街、椅子が妙に高く感じた馴染みの店、平らげる事の出来なかったいつものメニュー、身体に不釣合いだった自分のスポーツバッグ、長く急に思えた自宅の階段、しっくりこなかったベッドの感触。どれも些細な事だと気に掛けない様にして来た。身体が変わったのだから仕方がないと割り切ろうとしていた。しかし、今ではこの半日で目の当たりにしてきたその些細な事柄の全てが、自分の存在その物を否定しているかの様だった。自分は世界から拒絶されもうどこにも居場所が無い、そんな妄想が膨らむと遥の心を急激に恐怖が満たしていく。

「賢治…、ぼ、ボク…怖い…!」

 両手で自分の身体を抱え込む様にして、小さな姿をさらに小さくさせた遥が堪らずその恐怖を溢れさせる。賢治の名前を口にしたのは、色の無い世界の中で頼れるものを必死で見つけようとしたからだ。

「ハル…」

 賢治は真っ青な顔で恐怖を露にした遥を前にして胸が詰まる思いだった。遥のいる日常が戻って来た事ばかりに気を取られ、どこか舞い上がっていた自分を恥じずにはいられない。

「俺は、気付いてやれてなかった…」

 賢治は遥が病院での一ヶ月半を過ごす内にすっかり前向きになったのだと思っていた。それ故に自虐にもなりかねない冗談を口にするのを厭わないのだとそう思い込んでいた。しかし実際はどうだ、高々一ヶ月半で十五年間過ごしてきた身体と全く違う自分をすんなりと受け入れられる筈がないではないか。思慮深い遥の事だ、周囲を安心させる為と何より遥自身が前を向くために感情を圧して必死にそう努めていたに過ぎないのではないか。よくよく考えれば分かる事だった筈なのにそれを見落としていた。気づいてやれていなかった。賢治は自身の不甲斐なさに唇を噛みしめる。

「賢治…どこにいるの…」

 恐怖に震えながら呆然自失状態の遥が虚ろな視線を泳がせると賢治は堪らず遥の正面に回ってその両肩に手を掛ける。

「ハル、俺はここにいる…!」

 賢治のその声に遥は焦点の定まってない瞳を向けたが、灰色の世界に囚われた心は唯一信じられる親友の姿さえも霞ませてしまう。

「賢治…ボク…もう…」

 遥の瞳を満たしていた涙が一筋こぼれ落ちると賢治の感情は激しく揺さぶられ、何よりも強い想いが心の奥底から湧き上がった。

「ハル、俺が…、俺が付いてる!」

 賢治は肩を掴んだ手で遥の身体を引き寄せると沸き上がった感情に任せ、そのまま両の腕で力強く遥を抱き締めた。悪夢に苦しむ自分に遥がそうしてくれた様に、今度は自分が遥の心の助けになりたい。そう思うと遥を抱き締める事に躊躇は無かった。

「けん…じ…?」

 全身を覆った賢治の体温と力強い言葉がモノクロだった遥の心に一滴の色を落とす。その色は陽の光を思わせる眩さを持って波紋の様に広がっていくと、それまで霞んでいた賢治の姿が何よりも鮮烈な色彩を得て遥の心に落ちた大きな影を駆逐する。それは自分の人生全てに等しい十五年間を纏った過去の幻影にさえ匹敵する、遥にとって最も確かな、自分自身以上に信じられる半身に他ならない。

 遥は賢治の存在感を中心に色を取り戻していった心と共に、その身をそのまま賢治に寄せると、良く知る賢治の匂いに包まれ驚くほどに心が安らいだ。

 思えばいつだって賢治は自分を支えてくれている。自分を見失いかけていた時も、その距離が遠く感じられた時も、そして今も、賢治はそこに居てくれている。賢治にはいつも助けられてばかりだ。そんな気持ちが少し遥の心を切なくさせたが、ふいに病室で聞いた辰巳の言葉が蘇る。

『お前が望めば必ず力を貸してくれる』

 兄は以前確信めいた態度でそう言っていた。その言葉を聞かされた時は確かに目の覚めるような思いだったが、未だ十代の自意識にどこか自分の問題は自分で解決しなければという意固地な気持ちが残ったままだった。しかし今、遥の弱った心に辰巳のその言葉は抵抗なく吸い込まれ、やがてそれが心の奥深くまで浸透すると不安と恐怖に揺れる心をこのまま賢治に預けてもいいと素直にそう思える様になった。自分の存在をどれだけ見失いそうになろうとも、賢治が傍にいてくれるのならばこの先もやっていける。恐怖の代わりに遥の心をそんな気持ちが満たしていく。『お前が望めば』そう言った辰巳の言葉を胸に留め、遥は心を満たした気持ちをそのまま願いに変える。

「賢治、ボクの傍に居て…」

 遥のその言葉を受け止め賢治は一層強く遥を抱き締めた。

「ああ、ずっと傍に居る」

 賢治はこの先何があっても自分は遥の力になり続けると心に誓う。抱き締める遥の身体は信じられない程華奢で、この薄く小さな身体でかつて悪夢に苛まれていた自分を包み込んでくれたのかと思うと、賢治は遥の存在が堪らなく愛おしく思えた。それは親愛の情を幾分も逸脱した物だったが、賢治はその事には気付かず今はただ親友の力になりたいと、それだけを強く想い遥を抱き締め続けた。

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