5-49.予感
青羽たちからバトンを受け取って、賢治が遥の元へと向かったその時点で、病院の定める面会時間は既に締め切られてしまっていたが、そのあたりは然したる問題にはならなかった。
無論それは、遥の為ならば病院が定めたルールなど問答無用、等という乱暴な話ではなく、賢治は保護者代理という形で付き添いの許可を正式に得ていたのだけの事である。
普通ならば、血縁でも無い者に付き添いの許可などそう易々と下りはしないのだが、遥の担ぎ込まれた病院がかつて入院していた元々の掛かりつけだった事が賢治にとっては幸いした。
遥が入院生活を送っていた当時、足しげくその見舞いに通っていた賢治は、病院スタッフからの覚えが非常に良く、遥の母、響子に一本、口添えの電話を入れてもらうだけで、存外あっさりと付き添いの許可がもらえてしまったのだから。
ただ、そんな幸いがあった一方で、賢治は知りもしなかった。
もし予めそうだと知っていたなら、賢治はもっと違った選択肢を選んだだろうか。
その答えは、分からない。
賢治は知らなかったから。予感すらもしていなかったから。
「ハル、俺だ」
遥の病室前に辿り着いて、扉をノックしながら呼びかけていたその時も。
……。
…………。
……………。
扉の向こう側から一向に返事が返ってこなかったその時も。
「…もしかして…、もう寝ちまった…か?」
賢治はまだ何も知らず、予感すらもなく、その時あったのは寧ろ『期待感』だった。
「ハル…、入るぞー…?」
一応の念押しと共に、ゆっくりと押し開けた扉の先では、確かに遥がベッドの上で小さな寝息をたていただけに尚のこと。
「あぁ…、やっぱりか…」
何も知らなかったが故に、賢治は想っていた通りの光景に小さく笑みをこぼしもする。
「すぅ……すぅ……」
静かに歩み寄って、その愛らしくも安らかな寝顔を見てしまえば、『予感』は益々遠ざかって、賢治はいっそ『幸福感』さえも覚えずにはいられない。
「あぁ…ハル…、きっと…、泣き疲れちまったんだな…」
それを物語る様に、まるでアイシャドウでも入れたかの様に赤く色づいていたその目元。それでいて安らかだったその寝顔は、遥の流した涙が暖かなものであった証に他ならない。
「すぅ……すぅ……」
あれほど憂いや悲しみに暮れていた遥が、今は穏やかな面持ちで気持ちよさそうに寝息を立てている。見ている方まで安らいだ気持ちになってくるその光景こそは、正しく賢治が『期待』していたものの一つで相違ない。そんなものを見てしまったなら、何も知らなかった賢治がそこに『幸せ』を感じてしまったとしても、それはきっと無理も無い話だったのだ。
「ハル…」
賢治はベッドの脇に腰を下ろし、遥のちょっと癖のあるふわふわとした前髪を指先でそっとかきわける。
「はは…、寝顔は完全にお子様だな…」
肉体的にはまだ十歳前後の幼女なのだから、ともすればそれは至極当たり前の話ではあったのだが、賢治は今、そんな当たり前のことが嬉しくて仕方が無かった。
「よかった…、ほんとうに…よかった…」
青羽たちが受け止めてくれた分だけ、遥の『重荷』は確かに幾らか軽くなっている。
遥の穏やかな寝顔からそう確信できた賢治はいま、自分もまたそうであれる事を願って止まない。
「大丈夫…、きっと大丈夫だ…」
遥を想う気持ちならば、誰にだって負けない自信がある。
青羽たちのような『子供』ではいられないのだとしても、それならそれで、『大人』の自分だからこそできるやり方だってきっとある筈なのだ。
「ハル…俺は…」
自分にはいったい、何ができるだろうか。そんな事を考えながら、賢治はシーツの下からちょこんとはみ出ていた遥の小さな手を半ば無意識のうちにギュッと握りしめる。
「……っぅ……すぅ…」
それまで規則的だった遥の寝息に僅かながらも現れた乱れ。ただ、無意識に遥の手を握ってしまう程度には物思いに耽りつつあった賢治がそれに気付けた由も無い。
「俺は…ハルの為だったら…」
何だってしてやりたい。否、何だってしてみせる。
「そうだ…俺はあの日…誓ったんだ…」
今こそそれを果たすべき時。そう思った気持ちは、青羽たちからバトンを受け取った事で、今いっそう強くなっている。
「だから俺はもう…迷わない…!」
人知れず高まってゆく気持と共に、賢治は独り固く結んだ拳に決意を新たにもしたが、そのもう一方では無意識に握ってしまっていた遥の小さな手。
「…~~っ!」
もしも賢治がこのとき遥の方に正対していれば、気付けた事が色々とあったかもしれない。ただ残念ながら、賢治はベッドの脇に腰を下ろしていた事もあって、基本的にはずっと遥を背にする恰好で居る。それでもついさっきまでは、斜め下を向いて遥の愛らしい寝顔をその視界に捉えてはいたのだが、今では其れすらも盛り上がる気持ちと共にもうすっかり前を向いてしまっていた。
「ハル…、大丈夫だ…、大丈夫だからな…っ!」
その意気込みたるや良し。しかして、その分だけよりいっそう握る拳にも力がこもっていったとなれば、流石にそろそろ限界であろう。
「…った」
短く、小さく、それでも確かに上がったその可愛らしい声。それはそう、どんどん強まってゆく賢治の握力に耐えかねて、遥が思わず洩らしてしまったもので相違ない。
「…は、ハル…!?」
不意に上がった声にギョッとしてしまった賢治がベッドの方へと向き返れば、そこでは確かにさっきまではスヤスヤと寝ていた筈の遥がその大きく黒目がちな瞳をぱっちりとあけていた。
「…あ…うん…、えっと…、おかえ…り…?」
どことなくバツが悪そうな様子で躊躇いがちに挨拶を送って来る遥であるが、バツが悪いどころの話ではなかったのがもちろん賢治である。
「す、すまん…、お、お、起こしちまった…か…?」
そんな謝りを入れつつも、賢治はさっきまでの一人決意表明を聞かれていたとすればこっぱずかしいことこの上なく、内心ではもう汗が滝だ。
「あ、うん…、でも、だいじょぶ…だよ…」
そう言ってくれる遥の心遣いそれ自体は嬉しく有ったものの、それだけでは何一つとして『だいじょぶ』ではなかった賢治としては、こう尋ねない訳にはいかない。
「ち、因みに…、どれくらい前から…起きちまってた…?」
できればそれほど前では無い事を祈らずにはいられない賢治であったが、物事そうは都合よくいってくれないのが世の常だ。
「えっとぉ…、『俺はもう迷わない』辺りから…かな…」
これこの通り、どうやら遥は比較的序盤の方で目を覚ましてしまっていた様で、これにて賢治は祈りも空しく敢え無く轟沈である。
「そ、そうか…、そうかぁ…」
確かに一人決意表明の中で口にした言葉は、そのどれもが遥に対する偽らざる心からの想いではあったものの、だからと言って独白形式だったそれを当の本人に聞かれたかったかと言えばそれはまた話が別であった。
「はぁ……」
穴があったら入りたいとは正しくこの事で、思わずの深々とした息くらいは幾らでも出るというものだ。
「えっと…なんか、ごめんね…? ボク、ほんとは、最後まで寝たふりしてるつもりだったんだけど…」
事ここに至っては、是非ともそうして欲しかったと、そう思わざるを得ない賢治であったが、そんな考えを持てたのも次の瞬間までである。
「賢治があんまり強くするから…、思わず声が出ちゃった…」
捉えようによっては、意味深でしか無かったその発言。
「…はっ!?」
全く身に覚えの無かった賢治が思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのは無理も無い話であるが、身に覚えが無かった事もまた無理も無い話である。
「あっ、今くらいの強さなら、だいじょぶだよ」
そう言いながら遥が『それ』を持ちあげなかったら、もしかしたら賢治は今一度の素っ頓狂な声を上げてしまっていたかもしれない。ただ、『それ』が今もなお遥の小さな手を握ったままでいた自身の手であったとなれば、賢治の上げる声は次の様なものだった。
「おわっ!? いつの間に!?」
半ば無意識に遥の手を握ってしまっていた賢治からすれば確かにそれは全くもって身に覚えのない話ではあったものの、だからと言って勝手にほどけたりもしなかった様である。
「いつの間にって…、賢治が握ってくれたんでしょ…?」
幾ら無意識下の行動だったとはいえ、動かぬ証拠がそこにある以上、もはや賢治が自身の犯行を否定すべくは無い。
「す、すまん…、マジで…」
自身の犯行を認めた事で、一人決意表明を遥に聞かれてしまったの事に関しても全面的に非を認めざるを得なかった賢治は今やただただ猛省するばかりである。
「ううん、だいじょぶ」
そう言ってもらえるのは、賢治としても大変に有難い話ではあったものの、そこに一言とこう付け加えられたとしたらどうだろうか。
「それにボク、嫌じゃない…よ?」
言ってみたら意外と気恥ずかしかったのか、顔半分をシーツの下に隠しながらだったその発言たるや、賢治が被った衝撃的には先ほどの意味深発言など比では無かったかもしれない。
「なっ…!」
そんな短い一言と共に、賢治がしばし文字通りの絶句をしてしまったとしても、それはもう仕方がなかったのである。因みに、その間も賢治が遥の手を握ったまま一向にはなせずにいた点については、敢えて言うまでも無いだろうか。
「……あー…、まぁ…その…なんだ…」
ややあってから、ようやくある程度の平静さを取り戻して来た賢治は、場の仕切り直しを試みて取りあえず口を開いてはみたものの、これが存外に容易くはなかった。
「ん…」
肝心の遥が顔半分をシーツの下に隠したまま、未だにモジモジしてしまっているものだから、賢治としてはやり難いことこの上ない。こうなっては最早、話の流れがどうこうというよりも、この場を仕切り直す為にはもうすっかり緩んでしまったこの空気そのものをどうにかする必要がありそうだった。
「あー…すまんハル、ちとコーヒー買ってきていいか…?」
結局、このままでは埒が明かないと踏んだ賢治は、文字通りのブレイクタイムを提言するよりなかったが、後にして思えばそこが運命の分かれ道だったのかもしれない。
けれども賢治はやはり、知りもしなかった。
「あ、うん」
相変わらずシーツの下に顔半分を隠しながら、遥が小さく頷きを返して来たその時ならまだ引き返せたことも。
「んじゃちょっと行ってくる」
賢治は予感すらしていなかったから。
だからきっと、そのとき手放してしまったのだ。遥の小さなその手とともに。




