5-44.ささぐ祈り、たてた誓い
病院の駐車場に停められた白いSUV車の前に座り込み、月影に見上げる沢山の窓。
等間隔に並ぶ窓々からこぼれる蛍光灯の明かりはどれも同じ筈なのに、その中で一つだけ、まるで一等星の様に明るく瞬いて見える窓がある。
「……奏さん」
本当にそこが遥のいる病室の窓だったのかどうかは分からない。
けれども青羽は、そうだと信じていた。そうだと信じて、待ち続けていた。
「…奏さん」
祈るような気持ちでその名を繰り返しながら、青羽は四角い一等星を仰ぎ見る。
今の青羽に出来る事は、そうして待ち続ける事だけだったから。
「奏さん…」
一等星に祈りを捧げながら、青羽は信じて待ち続ける。
「奏…さん…」
永遠にも等しく思えたその時間。その分だけ積み重なっていった後悔の念。
「……俺は」
こんなつもりじゃなかった。こんなはずじゃなかった。
「…俺は…ただ…」
遥を守りたかった。だからその手を取って、走り出した。
見知らぬ男が遥に詰め寄っているのを見た瞬間に、守らなければと、強く、強く、そう思ったから。
それなのに、何処で間違えてしまったのか。どうして間違えてしまったのか。
それは、積み重なる後悔の数だけ繰り返された自問。
「俺は…」
沙穂と楓が教えてくれた。遥に詰め寄っていた見知らぬ男の素性。
青羽は知らなかった。あの男が遥と旧知の間柄であった事を。あの男が遥の数少ない『良き理解者』であった事を。
だから間違えてしまったのか。それが間違いだったのか。
いや、きっと、そうじゃない。青羽はもう、気づいてしまっていた。
知らなかったから、間違えてしまったのではない。
間違えてしまったのは、知らなかったからではない。
「俺は…最低だ…っ!」
吐き出さずにはいられなかった強烈な自己嫌悪。
それも、青羽が気付いてしまっていたからだ。
「俺は…俺は…っ!」
ただ、遥を守りたかった。
遥の両肩に晃人の手が触れるのを目にした瞬間に、強く、強く、そう思ったのは、決して嘘なんかじゃない。
けれども、青羽はもう、気付いてしまっていた。
遥を守りたいと思ったあの気持ち。遥の手を取って走り出したその理由。考えるよりも早く、自分の身体を突き動かしていたあの感情。それが、一体何だったのか。青羽はもう、気付いてしまっていた。
「俺は…最低の…クズだっ!」
尚も吐き出さずにはいられなかったより強烈な自己嫌悪。
いっそ、誰かがそれを肯定してくれたなら、どれほど良かっただろうか。
けれども、今やその願いを聞き届けてくれる者なんて、どこにも居やしない。
沙穂や楓が去ってしまったのは、もう随分と前の事だ。
尤も、例え沙穂と楓が今この場に居たとしても、青羽の願いが叶う事はおそらくなかっただろう。確かに沙穂と楓は、青羽が犯してしまった間違いを猛烈に責め立てはしたが、それでも二人は、間違いを犯してしまった青羽自身を否定する事だけは、決してしなかったのだから。
「……どうして…ッ!」
きっとそれは、二人が遥の友達だからだ。優しい遥の、優しい友達だから、だから二人は、どれだけ自分を責めても、決して自分の罪を肯定してはくれなかった。
「……うッ…うぅ…ッ!」
やり場のない自己嫌悪。積み重なる後悔の念。
それでも青羽に出来る事は、ただ、待ち続ける事だけ。
遥の意識が戻るそのその時を。そして何より、断罪者がやって来るその時を。
だから青羽は、そこで待ち続けている。病院の駐車場に停められた白いSUV車の前。そこで待っていれば、必ずやって来てくれると、そう信じていたから。
「…………」
月影に見上げる四角い一等星。永遠にも等しかったその時間。
どれだけの祈りを捧げて、どれだけの後悔を重ねて、どれだけの自己嫌悪を繰り返したのかは、もう分からない。それでも青羽はただひたすらに、ただ愚直に待ち続け、そして遂に『それは』やって来た。
「よぉ、青羽」
ハッキリとその名を呼び掛けながら、ゆっくりと、けれども真っ直ぐに、青羽の元へと歩みを寄せていった一つの影。
必ずやって来ると、青羽は信じていた。そして青羽は、強く、強く、信じている。
「賢治…さん…!」
青羽がかつてない歓喜と共にその名を口にしたのも、強く、強く、信じていたからだ。
彼ならば、きっと、果たしてくれる筈だと。間違いを犯してしまった自分を、自分の犯してしまった間違いを、必ず『断罪』してくれる筈だと。
「…青羽」
再びその名を呼び掛けて来た影は、もう目と鼻の先で、確かにそれは、青羽が待ち焦がれていた人物、賢治その人で間違いは無かった。
「賢治さん…、俺は…、俺は…っ!」
逸る気持ちを抑えきれず、青羽が溜まらず賢治に縋りついてしまったのは、それまで重ねて来た後悔や、繰り返して来た自己嫌悪を考えれば、きっと無理も無い事だったのだろう。ただ、青羽は知らなかった。賢治が此処へやって来た目的も、此処へやって来る前に、賢治が他でもない遥に対して『ある誓い』をたてていた事も。
「俺…! 奏さんを、守りたかったなんて…、嘘だったんです…!」
遥の両肩に晃人の手が触れるのを目にした瞬間に、強く、強く、そう思ったのは、決して嘘なんかじゃない。けれども、青羽はもう、気付いてしまっている。その気持ちの正体。遥の手を取って走り出したその理由。考えるよりも早く、自分の身体を突き動かしていたあの感情が何だったのか。
「俺は…俺はただ…! 奏さんを…誰にも、渡したくなかったんです! 奏さんを、誰にも渡したくなかっただけなんです!」
それは、醜い嫉妬心と、愚かな独占欲。
だから間違えてしまった。それが間違いだった。
「俺は…! 最低のクズです…! だから…、だから…!」
待ち続けていた賢治を前にした事で、青羽はこれまでに募らせてきた後悔と自己嫌悪を思う様にぶちまけてゆく。賢治が此処へやって来た目的も知らずに。賢治が『ある誓い』を立てていたとも知らずに。
「だから賢治さん…! 俺を…俺を…!」
いつかの様に、その内で渦巻いている筈の怒りに任せて、自分を叩きのめして欲しい。賢治はきっと、その為にここへやって来た筈なのだから。
青羽はそうだと信じていた。そうだと信じて疑わなかった。
「殴ってくれ…か?」
賢治から返って来たそれは、青羽が期待していた通りの言葉。だがしかし、その後に続いた言葉は、果たしてどうだっただろうか。
「なぁ、青羽…」
あくまでも穏やかだったその口調。優し気ですらあったその眼差し。そして、その後に続いた耳を疑うような言葉。
「俺は…、お前を許すよ…」
青羽には、賢治が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
青羽は信じていたから。賢治ならきっと、自分を断罪してくれ筈だと、そう信じ切っていたから。
「…えっ…なっ…えっ…?」
どうして。そんな疑問が青羽の頭を埋め尽くす。
賢治は、自分を『許す』と確かにそう言った。けれども、そんな事あるはずがない。
だってそうだ。自分は、嫉妬心と独占欲に駆られて、賢治が何よりも大切にしているものを酷く傷つけてしまったのだから。
「な…、なん…で…」
自身の中で決して成り立たない道理を前に、青羽はただただ困惑するばかりで、それをそのまま言葉にする事しかできなかったが、それに対する賢治の返答はこれ以上ない位に単純明快だった。
「そんなもん、ハルの為に決まってる」
その言葉で、青羽は俄かにハッとなる。
「あっ…そ…それ…は…」
遥の為。だから賢治は、自分を許す。
青羽にとって、これ以上腑に落ちる道理が外にあっただろうか。きっとそんなものは、世界中のどんな哲学書を読み解いたって、見つかりはしないだろう。
「青羽、お前だって、覚えてるだろう? あの日のこと…」
賢治の問い掛けは些か大雑把ではあったものの、それが一体いつの事を指しているのかは、もはや確かめるまでも無い。
「…忘れた事なんて…ない…です…」
青羽は今の今まで、積み重なる後悔と繰り返さずにはいられなかった自己嫌悪から、賢治に『断罪』される事ばかりを考えていた。だがしかし、今ならそれがいかに浅はかな考えであったのかが分かる。どれだけ間違えようとも、どれだけ見失おうとも、確かに青羽は忘れた事なんて無かったのだから。在りし日の駅前で、自分や、賢治が振り上げたこぶしの前に、躊躇なく飛び込んできた遥の姿を。
「…あぁ…俺は…俺は…やっぱり…どうしようもない…最低の…クズだ…」
あの日の事を忘れた事なんて無かった筈なのに、自らが犯してしまった間違いの大きさに耐え切れず、『断罪』される事ばかりを考えていた。そんな思いから、青羽は今、一層の自己嫌悪に陥らずにはいられない。
ただ、賢治はそんな青羽に殊更優し気な眼差しを注ぎながら、今や項垂れるばかだったその頭を大きな手でポンッと撫でやった。
「なぁ、青羽、誰だってそうなんだよ」
強い実感がこもっていたその言葉。青羽はそれに、気付いていただろうか。
「だから俺は、お前を許すよ」
それは、何も遥の為だけではない。その事に、青羽なら気付けるはず。賢治はそう信じて、言葉を投げかけ続ける。
「だからお前も、それ以上自分を責めるな」
その言葉は、青羽にとっての救いにはなり得ない。賢治はそれを、誰よりもよく知っていた。けれども、誰かがそう言ってやらなければ、誰かが許してやらなければ、きっと青羽は前に進む事すらできなくなってしまう。だから賢治は今一度、その言葉を贈る。
「青羽、俺はお前を許す」
青羽は気付いていただろうか。その許しに込められた賢治の想いに。
「賢治…さん…」
ようやく顔を上げた青羽の瞳には、まだかつての様な真っ直ぐさが見られなかったが、それでもきっと伝わった筈だと、賢治はそう信じて最後の言葉を送る。
「だから青羽、お前はハルのところへ行ってやれ」
その為に、賢治はここへやって来た。青羽を断罪する為なんかでは無く、そう言ってやる為に、賢治はここへやって来た。
無論それは、青羽を救いたかったからではない。
在りし日に、賢治は誓いをたてたのだから。
在りし日に、賢治は遥と約束したのだから。
何があっても、自分は遥の力になり続けると。
どんな時でも、自分が付いていると。だから大丈夫だと。




