5-42.夢と現実
「…っ…はぁ…っ…はぁ…っ!」
どれだけ走ったのかは、もう分からない。
とうの昔に息は上がりきって、酸素不足にあえぐ頭と身体は今すぐの停止と休息を要求して来ている。
「…ッ…はぁ…はァ…ッ…ハァ…!」
今どこを走っていて、どこへ向かっているのかも、もはや全く定かではない。
覚えているのは渡り廊下を突っ切って正門を走り抜けたところまでで、いま分かっているのは履き替える間もなかった上履きを通して伝わって来るアスファルトの固さだけ。
「…っ…ハァ…っ…ハァ…っ!」
そもそもどうして走らなければならないのか、その理由すらも未だに分かっていない。
それを確かめている余裕なんて有りはしなかったし、それを確かめられる機会だって有りはしなかった。
「…ッ…ハァ…ッ…ハァ…ッ!」
いったい、あとどれだけ走ればいいのだろうか。
とうの昔に息は上がりきって、酸素不足にあえぐ頭と身体はいよいよ限界が近い。
「…ッ…ハァ…ッ…―ァ…!」
たしか前にも、こんな事があった様な。
朦朧とする意識の中、ふっと蘇る記憶。
それは忘れもしない。だいすきな男の子と両想いになった大切な日の思い出。
「はっ…はっ…はっ…!」
前を走る背中、きつく握られた腕。重なる情景、連なる情感。
もしかしたら、その先にあるのかもしれない。今、走らなければならないその理由。
だったら、それを見つけたい。だってそれは、たぶんとても大切な事だから。
「…ッ…―ァ…ッ…―ァ…ッ……!」
まだ頑張れる。まだ頑張りたい。
とうの昔に息は上がりきって、酸素不足にあえぐその頭と身体が遂に限界を迎えたのは、そう気持ちを奮い立たせた矢先の事だった。
「―あ…、―――て…、―は…ど、―――て…――な…」
声がする。これはそう、青羽の声だ。
でも何故だろう。青羽が何を言っているのか、良く聞こえない。
それに、一体どういう訳なのか。声はするのに、姿がどこにも見当たらない。
もしかしたら、これは夢なのだかろうか。
だとすれば、一体、いつの間に眠ってしまったのだろう。
「――た――――に―――よ…!」
また声がする。ただこれは、青羽の声じゃない。
だってこれは女の子の声で、そう沙穂だから。
「――だ―! ――で――――――せ――の!」
また別な女の子の声。こっちはそうだ、楓で間違いない。
二人共やっぱり姿は見えないし、何を言っているのかは良く聞こえないけれど、何かとても怒っているみたいで、何故だか酷く胸が苦しくなる。
「――ただ…、―――を――なきゃって…」
今度のこれは青羽の声。ただ、どうしてか。その声が思わず耳を塞いでしまいたくなるほどに憔悴しきっているのは。こんなのとても、聞いていられない。
もしこれが夢なのだとしたら、早く目を覚まさなければ。
そうすればきっと、沙穂と楓の怒っている声や、憔悴しきった青羽の声なんて、もう聞かなくて済むはずだから。
それに、いくら夢だからって、声だけなんて寂しすぎる。
こうしている今だって、皆の顔が、皆の笑顔が見たくてたまらない。
だから早く、目を覚まさなければ。そうすればきっと、沙穂や、楓や、そして何より青羽の笑顔を見られるはずだから。笑顔を見ながら、たくさん、たくさん、話したい事だってあるのだから。だから早く、目を、覚まさなければ。
「…んっ…んぅ…」
真っ白な天井と、青白い蛍光灯。それを囲む銀のレールとそこからぶら下がる染み一つない乳白色のカーテン。
目を覚ました遥の視界が最初に捉えたものは、そんな見覚えのある光景だった。
「…ほけん…しつ…?」
前にも、こんな事があった様な。と、本日二回目となる既視感を覚えながらも、遥が状況の理解に努めようと記憶の糸を辿りかけたその時である。
「ハル…? 気が…付いたのか…?」
それは、保健室―と言うよりも学校ではもう聞く事が無いと思っていた予想外の声。
「…えっ? あ、あれ…? けん…じ…?」
声のした方へと視線をやってみれば、そこに居たのは確かに賢治で間違いは無かったのだがしかし、こうなって来ると話は少々ややこしくなって、状況の把握も幾らか難易度が上がって来る。
「えっ…と…」
保健室で目覚めた自分とそこに居合わせていた賢治。いま分かっている事はそれだけで、後の事はといえば、目覚めたばかりでまだうまく頭が働いていないのか、どうにもこうにも判然としない。
「う、うーん…」
せめて保健室送りになった経緯くらいは何とか思い出せないだろうかと、再び記憶の糸を辿りかけた遥であるが、そこでふとある事に気が付いて思わず眉を潜めさせた。
「…ん? あれ…? なんか…ちょっと…おかしいような…」
それは、理由の良く分からない漠然とした違和感。
「ど、どうしたハル!? まだ具合が悪いのか!? それともどこか痛むか!? 何かあるなら言ってくれ! すぐに先生、呼ぶからな!」
何やら早とちりして大騒ぎし出してしまった賢治であるが、果たして遥は気付いただろうか。そこにこそ違和感の正体を暴く手がかりが隠されていた事に。
「えっ? あっ、違う違う! そういうんじゃないから、とりあえず落ち着いて!」
慌てて賢治を嗜めた所までは良いとして、そのあと再び眉を潜めさせて難しい顔になってしまったところを見ると、どうやら遥は気付けていない。それだけに、遥が次の様な質問を賢治に投げ掛けてしまったのは、半ば無理も無い事だったのだろう。
「あ、あのね…えっと…そう、そうだ! どうして賢治は、ここにいるの?」
もしこの問い掛けが、例えば沙穂あたりの行間を読む事に長けた相手に投げ掛けられたものであったならば、遥は違和感の正体からはじまって、今の自分が置かれている状況に至るまで、大凡の事柄について余すことなく理解できたに違い。ただ残念な事に、鈍感、生真面目、馬鹿正直の三拍子がそろった賢治に対してその問いを投げ掛けたとなれば、それはもうそれ相応の回答が返って来るに決まり切っていた。
「どうしてってお前、ハルの事が心配で飛んできたに決まってるだろ!」
これこの通り、案の定、賢治から返って来た回答は真っ直ぐド真ん中のドストレートで、遥が思わずこれに頭を抱えてしまったのは言わずもがなである。
「あ…うん…、ごめん…、ボクの聞き方が悪かった…」
賢治の性格を熟知していながらも、実に初歩的なサインミスをしてしまった辺り、もしかしたら遥は自分で思っている以上に寝ぼけていたのかもしれない。
「あー…えっとね…、聞きたかったのは、賢治はどうやってボクが保健室送りになった事を知ったのかなって…そういう話しだったんだけど…」
気を取り直して、より明確な質問を投げ掛けてみた遥は、流石にこれならば伝わった筈だと、そう信じて疑わなかったがしかして、実際のところはどうだったか。
「…あ?」
たったの一語、賢治から返って来たその短い疑問符。それは、質問の意図を読み取れなかった事を意味する明確な意思表示。であったならば遥には最早打つ手は無く、それこそもう頭を抱えるより外なかった事だっただろう。ただ幸いな事に、賢治が返して来たその疑問符は、遥の投げ掛けた質問の意図を読み取れなかったが為のものなどでは無く、それどころか、それこそは正しく遥が感じていた理由の分からない違和感や、いま置かれている状況を明らかにするこれ以上ない位に開けた最大径の糸口にもなった。
「ハル、お前は…そうか…、そういうことか…」
賢治がまず口にした納得の意図。どうやら質問の意図は伝わっていたらしいと、胸を撫で下ろしかけたところで遥はすぐさま思い知る事となる。
「お前…分かって…なかったんだな…」
確かに遥は分かっていなかった。それも自分が思っていた以上に、それこそそう、分かってると思っていた事さえも、まるで分かってはいなかった事をも。
「いいか、ハル…、良く聞け…、ここはな、病院だよ!」
その瞬間に、遥はようやく理解した。そしてだからこそ遥は、それを返さずにはいられなかった。ついさっきの賢治と同じ様な、たった一語だけの短い疑問符を。
「…え?」
ここは、病院。賢治が其処に居た理由。自分の置かれている今の状況。そして漠然とした違和感の正体。遥の中でそれら全てが一本の線として繋がろうとする。
「ど、どう…いう…」
思わず口にしかけたその疑問。それは残された最後のピース。それさえあれば、全てが繋がって、全ての事が明らかになる。けれどその答えはもう、たぶん敢えて聞くまでも無い。今になってようやっと鮮明になって来た記憶の中で、遥はその答えを見つけつつあったのだから。
「ぼ、ボクは…ただ…は、走って…」
その先で、見つけたかった理由。それはとても、大切な事だった筈なのに。
「…あぁ、そう…だな」
その肯定は、そのまま最後の答えとなって、遂に遥の中で全ての線が繋がってしまう。
「あっ…ボクが…こ、こんな…こんなだったから…」
なにも見つけられないまま、どこにも辿り着けず、そのあげくに目覚めてしまった病院のベッド。それだけならまだしも、遥の中で繋がった線には、まだ続きがある。
「ボク…ゆ、夢を…」
そう、それは、鮮明さを取り戻していった記憶と共に呼び覚まされてしまったもの。目を覚ましさえすれば、終わってくれる筈だった夢の記憶。
「あ、あれは…あれは…」
胸が苦しくなるくらいに怒りが満ちていた沙穂と楓の声。
思わず耳を塞いでしまいたくなるほどに憔悴しきっていた青羽の声。
「あれは…、夢…だよね? ねぇ、賢治、ボクは、夢を見たんだよね!?」
もしも賢治がそれを肯定してくれたなら、どれほど良かっただろうか。けれども賢治は首を立てには振らず、気難しい顔でこんな時だけ尤もらしい事を言う。
「どんな夢を見たのかは知らないが…ハルの考えてそうな事は…何となく分かるよ」
その後に続く言葉は、もう聞きたくなってなかった。だってそうだ。普段の賢治は、憎らしいくらいに鈍感で察しの悪いのに、本当にこんな時だけ分かってしまうのだから。
「三人とも…ハルのこと…本気で心配…してくれてたからな…」
その珍しく言葉を選んだ遠回しな表現が遥にハッキリと教えてくれていた。
胸が苦しくなるくらいに怒りが満ちていた沙穂と楓の声は、思わず耳を塞いでしまいたくなるほどに憔悴している様子だった青羽の声は、決して夢などでは無かったのだと。




