5-41.刹那の出来事
沙穂と楓が昇降口に辿り着く少し前。
遥はそのとき、昇降口の脇から伸びる体育館へと続く連絡通路を歩いていた。
一体全体、どうして遥がそんな所を歩いていたのかといえば、それは勿論クラスメイト達から頼まれていた雑用の一環だった訳だが、では、その足取がやけにゆっくりだったのは果たして何故だろうか。
「…んっしょっ…んっしょっ…」
ゆっくりと、着実に、一歩ずつ、どころか半歩ずつ刻む様にして行くその歩調は、元の歩幅がそもそも狭い事もあり、もはや牛歩を通り越してカタツムリの領域にすら達しようかという勢いである。
「ねぇねぇ、ちょっと見てアレぇ」
「うわっ、マジウケるんだけどぉ」
等と、通りすがりの女生徒達に言われてしまうのも無理からぬ話であるが、別に遥だって何も好き好んでカタツムリの如き鈍足に興じている訳では無かった。
「こ、こんな…事に…なる…なら…、リュック…もって…くるんだったぁ…!」
思わずその口をついて出た後悔の念。遥が鈍足を強いられている理由の全てがそこに集約されている。つまり、どういうことかと言えばそれは遥の全体像に目を向けてみれば自ずと瞭然。ちんまりとした幼女の姿、それ自体はもうこのさい目をつぶるとしても、注目すべきはその体格に違わぬ愛らしくも頼りない両の腕一杯に抱えられていた大荷物だ。
まず、多目に欲しいと言ったら『箱』で渡されてしまった十ケース分の安全ピン。次に、青だけと言わず気前よく彩三十六色入りで借りられてしまった絵具セット。そして極めつけは、小分けにするのが面倒だからという雑な理由で『棒』のまま押し付けられてしまった十巻分のガムテープである。
これらはいずれもクラスメイト達から依頼されていた品々で相違なく、達成率的に言えばこれでもまだ半分ほどではあったのだがしかし、小さくて非力な遥がこれだけの物品を一手に持たされたとなればどうだろうか。そう、それはもうただでさえ遅いその歩調をカタツムリレベルにまで落としてしまっていたとしても致し方の無い話であったのだ。
「…っと…っと…とわっ!?」
あれだけ着実に歩を進めていたにも拘わらず、遥がこうしてほんのちょっとしたくぼみに足をとられてつんのめってしまったのだって、これまたものすごく致し方の無い話なのである。何しろその両腕に抱えている大荷物は重量的な負担もさることながら、視界という観点からも遥の歩みを大いに妨げていたのだから。そして勿論、こうして僅かにでもバランスを崩してしまえば、今度は重量的な負担の方が如実な障害となって遥を襲う。
「あ、あわわっ…!」
唯でさえ貧弱なその身体。依然として発達途上にあるその体幹。そして両腕一杯に抱えられていた視界を遮る程の重量物。これだけの悪条件が揃っていては、もはや遥にはそのまま無様に転倒してしまう以外の道はない。万が一にもこの状況を切り抜けられる手段があるとするならば、それはその両腕に抱えている大荷物を今すぐ投げ捨ててしまう事だがしかし、果たして遥にそんな選択ができるだろうか。
「むーっ…!」
せっかくここまで運んできたのだから、とそんな考えがその頭をよぎったのだろうか。もしくは、ある種の責任感に駆られてという可能性も考えられる。一瞬の出来事であったため、実際のところはおそらく当人に尋ねてみても定かではないだろうが、一つ確かだった事は、遥がその両腕に抱えた調達物資を決して手放そうとはしなかったというその事実だ。
「ぅー…っ!」
小さな身体に備わるありったけの力を振り絞って、遥は何とかかんとか必死に踏ん張ってみようとはするものの、やはりその貧相な身体ではどうしたって限度がある。
「も、もう…ダメ…!」
必死の健闘も空しく、遂に踏ん張り切れなくなってしまった遥は、憐れそのまま万有引力の餌食となってしまうかに思われたがしかし、その刹那だ。
「おっと…!」
不意に、極至近距離から聞こえてきた覚えの有るバリトンボイス。それと同時に、あれほど抗い難かった万有引力からあっさりと解放されていたその身体。因みにそれは、もちろん遥が完全に倒れ伏してしまった結果として起こった現象ではない。もしそうならば、遥は固い地面に激突した衝撃や、それによって在って然るべき痛みを感じられていた筈なのだから。
「――っ!」
いくら待ってもやって来なかった転倒の衝撃や痛み。
「……?」
やっての来なかった痛みと衝撃の代わりに感じられていた両肩に掛かるやんわりとした圧力。
「ふ、ふぇぇ…?」
ここでようやく遥は自分が転倒を免れたらしいという事を何となく理解したが、その一方で依然として視界不良だったことも相まって、何が起こったのかは今一つ呑み込めず、その所為で何とも間の抜けた声を上げながら目をパチクリとさせてしまう。
「フッ…クッ…フッ…」
遥には、再び極至近距離から聞こえて来た覚えのあるバリトンボイスが何やら笑いを堪えている様子だったその理由については良く分からなかったものの、ここで幾つかの事柄にも察しが付いて、自分の身に起こった出来事の全容が徐々に飲み込めて来た。
「えっ…と…」
諸々の事実関係から、バリトンボイスの主が受け止めてくれたお陰で遥が転倒を免れた事だけはまず間違いがない。そしてその声に聞き覚えがあった事から、少なくともそれは遥が知っている人物であった訳だがさて、果たしてそれは一体全体誰だったのだろうか。
学校内に置ける遥の交友関係が依然として極めて狭い事を考えると候補はさほど多くはなく、その人物がバリトンボイスを発せられる『男性』であった事まで加味すれば、挙げられる名前さらに限られて来るが、それに加えてここで更なる重大な事実を三つほど述べておかねばならない。
一つ、校舎から体育館へと続く渡り廊下がグラウンドと昇降口の双方向から視認できる位置関係にあったという事実。
二つ、遥が渡り廊下で転倒しそうになるその直前に、運動部は短縮となっていたその活動時間を終えていたという事実。
三つ、遥がバリトンボイスの『男性』に受け止められて転倒を免れたその直後に、沙穂と楓が昇降口へと辿り着いたという事実。
これだけの情報が出そろえば、もはや答えは出たも同然。遥を転倒の危機から救ったその人物とはそう、一人を措いて他にない。
「…晃人…君?」
遥が口にしたその名前。晃人。遥は確かにそう呼んだ。
成程、そそっかしい遥ならばうっかりとそんな取り違えをしてしまったとしても不思議ではない。きっと、幼女になって久しい遥には、もう『男性』の低い声なんて大して聞き分けがつかなかったのだろう。等と、幾らなんでも流石にそんな事は有る訳が無かった。
そして実際に、遥を転倒の危機から救ったその人物は、旧友光彦の弟、塚田三兄弟の次男坊、塚田晃人その人で相違なかったのである。
「えぇ、どうも御無沙汰しています」
これこの通り、当人も認めているとなれば、最早そこに異論を差し挟む余地は一切無い。例えそれがどれだけ予測や期待を裏切る結果であったとしても、これが現実だったのだから誰が何と言おうともそれはもう覆りようが無いのだ。
「うん、ちょっと久しぶり…かな?」
遥が未だその腕に抱えている大荷物の隙間から上目で窺ってみれば、その人物が晃人であったことがより一層に確定的になる。
「前に、あっ…え、えっと…へ、変な相談…しちゃったとき…以来…かな?」
そう言いながら遥が折角覗かせたその顔を再び大荷物の影にサッと隠してしまったのは、その時のエピソードが今思い返しても恥ずかしいことこの上なかったからだが、それに纏わる話は一先ずこの場では特に関係がない為特に深くは言及すまい。
「そうですね、最後にお会いしたのは相談を受けた後日、それに纏わる顛末を聞かせて頂いた時ですので、その認識で宜しいかと思います」
その細やかながらも大らかな肯定に、改めて記憶を辿ってみれば、確かに『相談』の後日、正確な日時で言えば一学期の最終日、終業式の朝にも晃人とは一度顔を合わせていた事を遥も思い出す。
「あー、そっか、そういえばそうだったねー、晃人君、さすがだなぁ」
その正確な記憶力もさることながら、逆に不鮮明だったこちら側の記憶力を貶めなかったあたりについても遥は感心頻りであったが、その腕に抱く大荷物の向こう側で当の晃人はといえば、何やら若干の苦笑いを見せていた。
「それにしても、何やらとても大変な事になっていますね?」
晃人の言い様がやや遠回し気味であったため、遥は一体何の話だろうかとちょっとばかり小首をかしげてみるも、直ぐに何の事かに気付いて「あぁ!」と感嘆の声を上げる。
「うん、そうなんだよー! それでボク転びそうになっちゃって…あっ、晃人君、たすけてくれてありがとね!」
遥が再び大荷物の隙間から顔を覗かせて愛らしい笑顔と共に遅まきながらのお礼を述べれば、晃人はそれに穏やかな面持ちで頷きながらも、また直ぐに今一度の苦笑いを浮かべさせた。
「貴女をお救いできたのは幸いでしたが…、それにしてもこれは…」
おそらく晃人としては、その腕に抱える大荷物が身に余り過ぎている事を指摘したかったのだろうがしかし、遥はそれと知らずにやる気満点と言った様相の笑顔すら見せる。
「確かにちょっと大変だけど、でもクラスのみんなも頑張ってるんだから、ボクもこれくらいは頑張らないとね!」
もしもこれが遥の口から述べられた言葉で無ければ、その殊勝な心掛けと意気込みにはもしかしたら幾らかの賞賛や激励が返されていたかもしれない。ただ、たった今のこれでは、どうして晃人が肯定になれただろうか。
「…そうは言いますが…、幾らなんでもこれは…流石に無理があるのでは…」
それは案の定かつ至極真っ当な指摘と憂慮の言葉。特につい今し方ちょっとどころではない惨事になりかけていた遥を救っていた晃人であるからして、それはもう受け止めた時のまま今なお遥の肩を支えていたその手にだって些かの力がこもるというものだ。
「遥さん…」
それまで支えるだけにとどめられていた手をしっかりとそのか細い両肩に掛けながら、晃人が僅かにその身を乗り出してしまっていたのだって、遥の身を案じる気持ちの表れだったのだ。
ただ、ここで今一度、思い出して欲しい。三点ほどあった重大な事実を。
「奏さん!」
それは、正しく瞬く間も無い一瞬の内に起こった刹那の出来事。
「えっ…?」
その時、遥に分かった事は、たったの一つ。
「奏さん、こっち!」
気付けば、青羽に手を引かれて、走り出していた事だけだった。




