2-3.目線
馴染みのラーメン屋で昼食とちょっとした再会を済ませた遥と賢治は白竜亭から車を走らせる事三分程で閑静な住宅街の一角にある遥の自宅へと到着した。遥が生まれ育ったその家は正孝が響子との結婚を期に自分の生家であった古い日本家屋を建て替えた木造三階建てのモダンな建物だ。因みに父方の祖父母は二人とも遥が生まれるよりも前に他界しているので現在奏家は核家族である。
奏邸の門前に車を止めた賢治は車を降りるとトランクから遥の荷物を纏めたスポーツバッグを下ろして肩に担ぐ。賢治は忘れ物がない事を確認してトランクを閉めるとそのまま荷物を遥の家まで運び込もうと歩き始めたが、やや遅れて車から降りて来た遥が賢治の正面に回り込みその歩みを妨げた。
「自分の荷物くらい自分で持つよ?」
そう言いながら見上げる様にして両手を差し伸べる遥の様子は、まるで上目遣いで甘えているかの様で、そんな遥のあまりに愛らしい様子に賢治は思わずたじろいでしまった。今の遥と賢治には四十センチ以上の身長差があるので遥が見上げる事になるのは仕方がないのだが、賢治は病室での一件以来どうにも意識してしまっているため、今日はそれが幼女的な可愛さでは無く異性としての可愛さに思えてしまうのだ。
「あー…、それじゃあ…」
この可憐で愛らしい女の子は幼馴染で元は男の遥なのだと、賢治は自身に言い聞かせると内心の気まずさを誤魔化す為に少々の悪戯心を働かせる事を思いつく。
賢治は自分の肩からスポーツバッグを外すと待ち手を握って遥の伸ばしている手の上に掲げると、そのままパッと手を離して重力に任せバッグを投下した。
「あゎっ!」
急に預けられたバッグの重量に遥はバランスを崩しそうになったが両手でしっかりとバッグを抱え込み、よろよろとしながらも何とか持ち堪える。賢治は勿論何かあればすぐさま助けに入れるよう備えていたが、そもそもバッグはサイズこそ大きいが中身は数着のパジャマと小物ばかりで、非力な遥でも難なく保持できる程度の重量しか備わっていないのだ。
「もぅ、急に離さないでよ」
賢治の突然な行動に遥は少し口を尖らせながら抱きかかえる様にして受け止めたバッグを一旦地面に下ろしてストラップ部分を肩に掛け担ぎ直す。
「いやぁ、わりぃわりぃ」
笑いながら謝罪する賢治を尻目に、遥はそのまま歩き出そうとしたが引っかかる様な感触に少しつんのめってしまいその歩みを止めた。
「あれぇ?」
遥の訝しむ声に賢治がその姿を確認すると、ストラップは遥の小さな肩にしっかりと掛かっているもののバッグは地面から僅かにしか浮いておらず、歩けば引きずってしまう様な状態だった。病院で賢治が運んだ際に自身が担ぎやすい様にと長さを調整した為、今の一四〇センチに満たない遥の身長では長すぎた様である。大きめのバッグを担ぐも引きずってしまっているその様子は、遥のちんまりとした見た目を際立たせている様で可愛らしくはあるのだが、それ以上にアンバランスさが妙に可笑しく賢治は思わず吹き出してしまった。
「おまっ…、ちっこいんだから…、無理すんなって」
自分で長くしたストラップを棚に上げた賢治が込み上げる笑いに息継ぎしながら揶揄う様に言うと、遥は頬を膨らませて完全に拗ねた表情を見せて自分の肩からバッグを下す。
「やっぱり賢治が持ってって!」
自身の身体には不釣り合いな大きめのバッグを持ち手を掴んで投げる様にして賢治に押し付けると遥はそのまま一人で玄関に向かってずんずんと進みだした。
「ハル、ごめんって、ハルがあんまりちっこいからついな」
押し付けられたバッグを担いで遥に追いついた賢治が笑いを堪えながら謝り半分揶揄い半分に言うと遥がピタリと足を止める。賢治は立ち止まった遥の背中に「ハル?」と声を掛けるがその呼び掛けにも遥は振り返らずじっとその場で静止したままだ。賢治はちょっとからかい過ぎたかと反省しながら横に回ってその顔を覗き込んだが遥の表情を見て背筋に冷たい物が走った。
「は、ハル…?」
覗き込んだ遥の表情は先ほどまでのむくれた様子とは打って変わって小悪魔的な笑みを浮かべ黒目がちな大きな瞳を怪しく光らせていたのだ。賢治は直感的にこれは不味いやつだと悟ったが時すでに遅い。
「…賢治のロリコン」
ぼそりと呟いた遥の言葉が賢治の胸に真っすぐと突き刺さる。遥はちっこいと笑われた仕返しにと賢治に最大限のダメージを与えられる言葉を探し、自身の中では一度は封印した諸刃の剣を抜き放ったのだ。賢治がロリコン呼ばわりされるのは完全に遥ありきで、遥自身もその事は重々承知しているのだがこの際多少の犠牲は厭わない構えである。
「お…、おまっ…」
遥の狙い通りその攻撃は絶大な効果があった様で、今最も言われたくない言葉をしかもその疑惑を抱かせる原因になっている当人から投げつけられたダメージは計り知れず、賢治はわなわなと拳を握るともう一方の手で遥の頭を鷲掴みにした。
「お前が、それを言うか!」
掴んだ遥の頭をぐりぐりと押さえ付けこのままでは済まさないと口角を釣り上げた挑戦的な笑みで遥に迫る。遥もその笑みに引き続きの小悪魔スマイルを返して攻撃の手を緩めない。
「美乃梨も真梨香も賢治の事ロリコンって言ってたし!」
賢治に頭を押さえられながら、どうだと言わんばかりに勝ち誇った遥だがしかし、遥本人からロリコンと言われ只では済まされない賢治はそれならと遥の逃げ道を塞ぎにかかった。
「俺がロリコンなら、お前はロリっ娘だぞ!」
賢治のカウンター攻撃に遥は「むぐっ」と一瞬口をつぐみ、こうなれば死なば諸共だと言わんばかりに「ロリコン!」と再度言い返す。それに対する賢治も負けじと「このロリっ娘!」と応戦を続ける。もはや完全にただのじゃれあいで当人達も面白半分ではあるが、互いに自身の尊厳を掛けた一歩も引けない戦いでもあるのだ。傍目に見れば幼女にロリコンと非難されている大学生という事案待った無しの完全に賢治不利な状況だったが、それを咎めたり、まして通報したりする様な人間が近隣住民にいなかったのは幸いである。
邪魔が入らないのを良い事に遥と賢治の二人が「ロリコン」と「ロリっ娘」という身も蓋もない単語を人目もはばからずひたすらに投げつけ合っていると突如奏邸の玄関戸が勢いよく開かれた。
「日中に家の前でロリロリうるさいぞお前らぁ」
そう言って姿を現したのはエプロンを纏い呆れ果てた顔で仁王立ちする辰巳だった。近隣住民に咎める者がいなくとも戦場となっていた当の奏家にはそれを看過できない者がいた様だ。
突然の第三者介入に俄かに冷静さを取り戻した賢治は、辰巳がなぜエプロン姿なのかという疑問はさて置いて遥の頭から手を退け一つ咳払いをする。
「辰巳さん、お久しぶりです」
先日海外ボランティアから帰国したばかりの辰巳とはおよそ半年ぶりの再会になるだろう。遥と常に行動を共にして来た賢治にとっても辰巳は兄貴分に当たる頭の上がらない相手だ。
礼節を欠く事なくきっちりと頭を下げ再会の挨拶をした賢治の横で、遥は自分の乱れた髪をちょいちょいといじりながら気恥ずかしそうな曖昧な笑顔を浮かべ自宅から出て来た兄を見やる。
「えっとぉ…、ただいまぁ…」
少々気まずい気分で遥かが三年ぶりの帰宅を告げると、仁王立ちで呆れ果てた様子だった辰巳は遥の元まで歩み寄ってその肩をポンと叩く。
「おかえり、遥」
兄は満足げな笑顔を見せて三年ぶりに戻った遥を快く迎え入れてくれた。
遥は直前の馬鹿騒ぎを不問に伏した辰巳の後に続いて玄関をくぐると、見慣れた自宅の情景に窮屈だった入院生活から解放された事を実感して大きく伸びをする。体感としては一ヶ月半ぶりなのでそこまで大袈裟に懐かしいとは感じなかったが病院で過ごしている間に里心が付いていたのも確かだ。
「ハル、俺は一旦車置きに行ってくる」
遥の後に続いて来た賢治は遥の荷物を纏めたバッグを玄関ホールに下ろすと家には上がらず、そのまま今しがた入ってきた扉から再び外へと出ていった。車を置きに行くと言っても賢治の家はすぐ隣なので物の数分で戻るだろう。
遥は賢治が下ろした荷物を今度はさき程の様な失態を演じぬ様にと、持ち手を両手でしっかりと掴んで腰の高さまで持ち上げる。ひとまずこの荷物をどこかに運ばなければと視線を泳がせると玄関から出て来た時からずっと気になっていた辰巳のエプロン姿が目に入った。
「辰兄…、何でエプロン?」
ネックとウエストの結び目がリボン状になったストライプ柄のキュートなエプロンは恐らく本来は響子の物であろうが、過酷な海外生活とハードな船上労働によって遥の記憶よりも随分と厚みを増した辰巳の屈強な外見にはまったくのアンバランスである。
「お前の退院祝いを準備してるんだよ」
何を当たり前の事をと言いたげな涼しい顔で答えた辰巳に、遥は成程と納得したがそのエプロンのチョイスは如何な物かと思わざるを得ない。辰巳が物は使えれば良いの精神であまり見た目に拘らないタイプなのを知ってはいるが、それにしたってこれは中々見る方が辛い出で立ちだ。
「そんな訳でお前は呼ぶまで部屋に居ろ」
退院祝いの内容は出来上がるまでのお楽しみらしく、リビングに立ち入らない様にと辰巳は遥の背中を押して階段の方へと誘導する。
「ほら、上に行った行った」
辰巳が料理している姿を見たことがない遥は大丈夫なんだろうかと少々心配になりつつも、兄が自分の為に手間をかけてくれる事自体は素直に嬉しかった。
「辰兄、ありがとう」
背中を押されながら後ろの辰巳を見上げ遥が感謝の気持ちを口にすると「期待しとけよ」と辰巳は自信に満ち溢れた笑顔を見せる。まだ昼を過ぎたばかりだというのに今から準備に掛かっているとはいったい何を作るつもりなのかと疑問に思わなくはなかったが、一先ずは兄の好意を尊重し遥は促されるままバッグを持って自室へと向かった。
三階にある自室を目指すため階段を昇り始めた遥は、自宅の階段が記憶よりも幾分か長く急である様に見えた事に若干の戸惑いを感じたが、この手の認識のズレは身体が小さくなったせいだと、この一ヶ月半での体験を思い返し気を取り直す。今はそれよりも大きめのスポーツバッグが邪魔で昇りにくい事の方が明らかな問題で、バッグは元々遥の持ち物なのだが今の体格で扱うには少々大きく、階段にぶつからない様にするには胸前くらいまで引き付ける必要がありその態勢は重心が上がってしまい非常にバランスが取りにくい。ストラップを丁度いい長さにして肩から下げられればそれが一番楽なのだが、賢治の腕力で調整されたストラップは金具がガッチリと噛み合っており遥の握力ではビクともしなかった。結局仕方がなく持ち手を掴み自分の胸前に引きつける形で保持してバランスを崩さぬようゆっくり慎重に階段を昇っていくしか方法がない。そんな調子で遥が四苦八苦しながら階段を昇っていると車を自宅の車庫に納め戻って来た賢治が後ろから追いつき「貸せよ」と遥の手からバッグを取り上げた。
「あっ、ありがとう」
身軽になりほっとした遥が振り返って礼を述べると賢治は「気にすんな」といつも通りの落ち着いた口調で簡素に答え引き取ったバッグを肩にと担ぐ。賢治はそのまま階段を進もうと次の段に足を掛けたが前に居た遥が先へ進まず身体ごと振り向いてきたので足を止めた。
「どうした?」
何事かと不思議に思い問い掛けると遥はなぜか嬉しそうに笑ったので賢治は少々戸惑ったが、遥は目を細め引き続き嬉しそうな笑顔で水平にした手を自分の目の前に掲げて見せる。
「賢治の顔、やっと前と同じ高さで見れた」
階段の段差で遥と賢治の目線の高さは丁度以前の身長差と同じくらいになっていた。身体が小さくなったせいで賢治と合わなくなっていた目線を少し不満に思っていた遥はそんなちょっとした事が嬉しかったのだ。
「本当だな…」
賢治は賢治でようやく上目遣いではない遥と目が合った事に安堵して笑みを漏らす。賢治の意図を知ってかしらずか遥はその笑みに満足そうに一度頷くと正面に向き直り歩みを再開した。
階段を昇り切るとすぐ手前の部屋が遥の自室であり、そこは二人にとって多くの時間を過ごした日常を象徴する空間だ。二人は階段を昇りながらそこでまた親友との時間を共有できる事に大きな充足感を覚えていた。




