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5-39.もう一つの視点

 遥はその日、全授業を終えて放課後を迎えた瞬間に、脱兎の如く勢いで教室を飛び出して、そのまま一切の脇目もふらず一目散に下校してしまいたかった。

 理由は言わずもがな、今朝方は今一つ消化不良で終わってしまった『結婚』についての話しを賢治と改めてするべく、一分一秒でも早く家に帰りたかったからだ。

 特に、沙穂と楓を大いに困惑させた昼休みの一件を踏まえた事で、遥が午後の授業を受けている間に、今朝の自分が如何に言葉足らずであったのかを深く省みて、それと共に「今度こそもっと上手く伝えるんだ」というある種の使命感すらも燃やしていたとなれば、その気持ちの逸り様がどれ程のものであったかは容易に想像できるだろう。

 ただ、そんな遥の都合を他所に、折しも学校では、気付けば開催まで残すところあと一週間を切っていた文化祭に向けての準備が正しくの佳境に入ってしまっていた。

「ただいまー!」

 遥が扉を開け放って発したその帰還報告が、その逸る気持ち通りにかつてない速さで帰りつけた自宅の玄関をくぐってのものであったのならどれ程良かった事か。

「ちょっと奏さん、遅いじゃない! 美術室なんてそう遠くないでしょ! もうあんまり時間が無いんだからもっとテキパキやってよね!」

 帰還したばかりの遥に向っていきなりの剣幕でそう捲し立てて来たのはクラスメイトの遠藤恵であり、それが意味するところはつまり一つしかない。そう、遥が帰りついたのは隣の家で賢治が待ってくれている筈の自宅などでは無く、クラスメイト達が連日以上の忙しなさでせっせと文化祭の準備に勤しんでいる放課後の教室に他なからないのである。

「ご、ごめんなさい…、とりえずこれ…、頼まれてた絵筆…です…」

 遠藤恵の剣幕に若干気圧されながら、絵筆の束を握っていたその両手をおずおずと差し出しているその間にも、もちろん遥は早く家に帰りたい気持ちでいっぱいではあった。ただ、クラスメイト達が一丸となって頑張っているこの状況下で、良く言えば協調性があって、悪く言えば主体性の無い遥にそれを言い出すなんて事は到底無理な相談であったのだ。

「まったくもう、雑用くらいしか任せられる仕事が無いっていうのに、もっと要領よくできないのかしら…」

 絵筆を受け取とって一先ずは用の無くなった遠藤恵が立ち去り際にこぼしていった通り『要領のよくない』遥は、せっかく早く帰りたい気持ちを圧して参加しているというのに、文化祭の準備で担えている仕事はといえば、相変わらずの雑用程度ではある。尤も、たかが雑用と侮ること無かれ。文化祭の準備もいよいよ大詰めともなれば、これだって中々どうしてそう馬鹿にしたものでは無い。

「奏さーん、戻って来てすぐで悪いんだけどー、もうガムテがないから追加でもらってきてー!」

「あっ! それならついでに生徒会室まで行ってもっとカーテン借りられないか聞いて来て欲しいかもー!」

「あー! だったらついでのついでに、安全ピンの補充もお願いしていいかなー!」

「奏ちゃーん、こっちは青い絵の具がもうないんだけどー、それも頼めるかなー?」

 これこの様に、一つお使いが終わったかと思えば、教室内のあちこちから更なる要求が次々と飛んできて、流石の佳境ともなればそれはもう雑用係だってそれ相応に忙しい。

「ひぇっ…そ、そんないっぺんに言われたら分かんなくなっちゃうよぉ! メモとるからちょっとまってー!」

 遥は元来それなりに記憶力が良い方ではあったものの、流石にここまで一気に要求されてしまうとその全てをそのまま空で覚え続けられる自信はなかった為、一先ずメモを取る為の筆記用具を調達すべく自分の机の方へ慌てて駆けてゆく。もう少し機転を利かせられれば誰か手近に居たクラスメイトに紙とペンを借りれば済んだところを、入口から一番遠い窓際にある自分の席にまで行ってしまう当たり、遥が遠藤恵に「もっと要領よく」と言われてしまう所以だろうか。

「ガムテ、カーテン、安全ピン、青い絵の具…、ガムテ、カーテン、安全ピン、青の絵具…」

 要求された事を一つずつ復唱しながら、何とかその全てを忘れる事無く無事自分の机にまで辿り着けた遥であるが、さていざメモを取ろうと思ったその矢先の事だ。

「あー、奏さーん、飾りに使う色紙も足りないんだけど―!」

「ゴメン奏さーん、ホッチキスの芯ももう無いやー!」

 ただでさえ一度に沢山の事を頼まれて些かオーバーフロー気味だったところへ、更に追加で飛んできた二つもの要求。

「ほわっ!? 色紙!? ホッチキスの芯!? えっと、ガムテ、カーテン、色紙、ホッチキスの芯…それから…あ、あれ!?」

 幾ら遥の記憶力がそれなりに良い方とはいえ、些かの不意打ちで更なる要求が二つも飛んで来たとなれば、流石に少しばかり頭の中がこんがらがってしまったとしても、きっとそれは無理からぬ話である。

「え、えっと…、ガムテと、カーテンと、色紙と、ホッチキスの芯とぉ…、あっ、あと安全ピン! それと…もう一つあったと思うけど…えぇとぉ…えぇとぉ…」

 確かに要求は全部で六つあった筈で、五つ目までは何とかかんとか思い出す事ができた遥ではあったものの、最後の一つがなかなか出て来ない。こうなってはもう素直に、「ゴメン、何だっけ?」とクラスメイト達に聞き直した方が早かったのだが、直ぐにその判断を下せない辺りも遥の要領がよくない所だろう。ただ幸いにも、そんな要領の良くない遥には、こういった時すかさずの助け舟を出してくれる頼もしい味方がいた。

「青い絵の具、青い絵の具よカナ」

 遥がどうしても思い出せずにいた最後の一つをボソッと呟いて教えてくれたその人物はそう、今やその友人史上において頼れる存在選手権ダントツナンバーワンをマークしつつある沙穂その人で相違ない。

「あっ! そうだ! 青い絵具!」

 沙穂のお陰でようやくすべての要求を思い出せた遥はその表情をパッと明るくしながら、早速それらをノートから切り取った紙片にせっせと書き込んでゆく。

 メモを取る為にだけにわざわざ自分の席まで行ってしまうなどという何とも要領の悪い行動を取ってしまっていた遥だが、お陰でその直ぐ隣の席で楓と机を並べて縫物に勤しんでいた沙穂にこうして助け舟を出してもらえた事を考えると、案外そう悪手では無かったのかもしれない。というのは、流石に結果論ありきの好意的すぎる解釈というやつだろうか。

「ガムテ、カーテン、安全ピン、青い絵の具、色紙、ホッチキスの芯…っと、よしっ! これでバッチリ! ありがとうヒナ!」

 無事にメモを完成させられた遥がそれを掲げながら元気いっぱいにお礼を告げると、それに対する沙穂は若干の苦笑をうかべながら、手にしていた縫い針でさりげなくある一点を指し示す。

「なら、早いとこ行っといで、さもないとほら、遠藤さんがそろそろ限界っぽいから」

 その言葉にハッとなった遥が沙穂の指し示す方を恐る恐るチラ見してみれば、そこでは確かに遠藤恵が案の定の苛立った様子で大変に怖い顔をしていた。

「あわわ、そ、それじゃあボク、行ってくるね…!」

 遠藤恵の爆発まで最早一刻の猶予も無いと見るや否や、遥が大慌てで教室を飛び出して行ったのは言うまでもない。


 無数のお使いを頼まれた遥が教室を飛び出して行ってから程なくの事。

「ねぇ、昼間の話…、どう思う…?」

 遥を見送って以降ただ黙々と縫物に勤しんでいた沙穂に向って、ふとそんな疑問を投げかけたのは、その対面で同じく縫物に励んでいた楓である。

「どうって…」

 沙穂が一旦そこで言葉をつぐんでしばし沈黙してしまったのは、決して楓の質問が些か漠然としていた所為ばかりではない。

 確かに楓の問い掛けはかなり大雑把なものであったかもしれないが、同じ話を共に聞いていた身として、その意図を読み取れないほど察しの悪い沙穂では無いのだ。

 では、一体全体どうして沙穂が言葉をつぐんでしまったのかと言えばそれは、正直なところどうにもこうにも何とも判断しかねていたからである。

 自身が壊してしまった賢治の幸せを自らの手で取り戻すために、遥が『結婚』という選択に辿り着いた事については、その心情も含めてちゃんと理解できたつもりではいた。

 青羽との恋愛についても、一般的な女子高生とは大いに掛け離れていたその価値観については今一つ共感しきれないところがありながらも、「何も諦めていない」と言ったその理屈については一応の納得がいっていないではない。

 ただ、それでも沙穂はやはり判断できずにいるのだ。遥の辿り着いた結論が本当に最良のもであったのか、そしてその選択が本当に正しいものであるのかどうか。そして楓の疑問も正しくそれが主題である筈で、だからこそ沙穂は言葉をつぐんで沈黙しか返せずにいた。

「どうって…言われても…」

 もしこれが、同じくらい好きな人が二人いてどちらと付き合うべきなのか、という内容の話であったならば、沙穂は持ち前の賢しらさから幾らでも独自の見解を語って聞かせられたに違いない。ただ、遥がいま選択しようとしている事は、最早そう言った次元を大きく飛び越えた『結婚』などという正しくその人生を賭した究極の選択なのである。

 幾ら沙穂が歳や見た目の割には理知的な女子高生であったとしても、ここまで話が大きくなってしまうと、流石に荷が勝ちすぎるというものだった。

「どうって…言われても…そんなの分かんないわよ…」

 結局、沙穂が思っているままにそう答えるしかなかったのは半ば仕方の無い事だったとして、それを受けた楓の方は果たしてどうだったのだろうか。

「そっか…、そうだよね…」

 楓がまず返して来たその共感は、沙穂からすればさもあり何という感じでの反応ではあっただろう。ただ、楓がその後に続けた言葉に関しては、今の主題が遥の行く末の是非についてであるとばかり考えていた沙穂にとって、少しばかり意表を突かれたものとなった。

「…早見くんは…どうするのかな…」

 それは、一見すると、昼間、遥に直接ぶつけていた「青羽との恋はどうするのか」という問いの繰り返しかの様で、実際その様に聞こえていた沙穂は一瞬思わず首をかしげてしまう。ただ、沙穂がそれはとんでもない思い違いである事に気付くまでにはさほどの時間は必要とせず、そして気付いてしまったとなれば俄かにハッとなりもした。

「あっ…、そ、そうか…そうよね…、あたし、考えもしなかった…でもそうか…、二人は両想いなんだから…カナだけの問題じゃないだ…」

 それはそう、遥の側にばかり立っていた物事を考えていた沙穂が今までまったく思い至れていなかったもう一つの視点。優しくて、共感力が強い楓だからこそ想いを馳せずにはいられなかった青羽の心情に寄り添う新たなる問題提起だった。

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