5-36.特別な朝
朝。カーテンの隙間から差し込む淡い陽射し。
朝。窓から吹き込みやんわりと頬を撫でる風。
朝。耳に届くのは姦しい小鳥たちのさえずりと、もうすっかり遠くなったセミの声。
夏から秋へと巡りゆく季節の元で、いつも通りに迎えたいつもより特別な朝。
「ん…」
アラームが鳴るほんの少し前。起床時間に関してはいつも通り。
「ふぁ…」
小さな欠伸を洩らしながら、のそのそとベッドから起き上がり、ゆるゆると身支度を整えてゆくその動きもまだ普段と何ら変わりない。
パジャマを脱ぎ捨て、高校の制服へと着替えたら、次にはドレッサーの前で今日のヘアピンをチョイスする。女子高生を始めてから、もう何十回と繰り返して来たいつも通りの流れ。
「今日は…、コレかな…」
沢山のヘアピンが収められているジュエリーボックスの中から二本選び出し、一旦胸ポケットに預けられたのは、ピンクのハートと黄色い薔薇。それは、特別な日にだけ付ける特別な二本。
「よし…」
流れ自体はいつも通りに、けれども特別を一つ、文字通り胸にして、無事身支度が整えられたら、通学用のリュックを持って一階のリビングへ。
「お父さん、お母さん、おはよう」
両親は気付いていただろうか。いつも通りに送られたその挨拶が、今朝はいつもより少しだけ明るい音色だった事に。
「いただきまーす」
リビングのテーブルについて、始める朝食はいつも通りのメニュー。
こんがり焼けたバタートーストとコップ一杯のオレンジジュース、それにカップのプレーンヨーグルトが一つ。物心ついたときから、毎朝の様に食べている代わり映えの無い朝食。
「はむっ」
ひとくち、ふたくち、とトーストをかじって、もぐもぐやっているうちに、対面の父親からちょっと漠然とした問いが投げ掛けられてくるのもいつもと同じ。
「最近は、どうだい?」
いつもなら、これに対する返答は「ふつー」とか、「まぁまぁ」なんていう、如何にも年頃の女子高生らしいそっけない一言。
「んっ…だいじょうぶ」
父親は気付いただろうか。一見すればいつも通りにそっけなかったその受け答えの中に、いつもとよりほんの少しだけ前向きな気持ちが込められていた事に。
「それは、なによりだね」
短くそう頷いた父親の眼差しは、いつも通りの穏やかさで、そこから先の時間もまた、いつも通りに流れてゆく。
「ごちそうさまー」
リビングのテーブルに着いてから凡そニ十分。朝食を食べ終えたらキッチンに食器を下げて、お次はトイレ経由で洗面所へ。
「アーー」
顔を洗い、歯を磨き、ちょっとくせのあるふわふわとした髪を整えて、仕上げに胸元のポケットへと預けてあった二本のヘアピンでそれを纏め上げる。
「…よしっ」
右の耳元でキラリと光るピンクのハート。左の耳元で鮮やかに咲く黄色い薔薇。
「あら? ピンが左右でチグハグじゃない、揃えた方が可愛いわよ?」
洗濯籠を持って洗面所に入ってくるなり、統一性の無い二本のヘアピンに目聡く気付いて、母親が告げて来たそのアドバイスは確かに尤もではあったかもしれない。ただ、その不揃いな二本には特別な意味があるのだから、その忠告は余計なお世話というヤツである。
「いいの!」
母親は気付いただろうか。そう言い放って洗面所を飛び出して行った我が子の足取りが今日はいつもよりほんの少しだけ軽やかだった事に。
「あっ! 帰りが遅くなるなら、ちゃんと連絡しなさいよー!」
その声を背中に受けながら、一旦リビングに戻って母親が用意してくれていたお弁当と水色のリュックを回収したら、出掛けの挨拶と共に玄関へ。
「いってきまーす!」
今ではもうすっかり馴染んだ少し大きめのローファーに足を滑り込ませ、ゆっくりと踏み出す一歩。
「んっ…」
玄関を抜けて、仰いだ今朝の空は、薄く伸びた雲を透かす晴天の青。
「きれいな…そら…」
いったい、いつ以来だろう、こうして仰ぐ空を素直に美しいと思えたのは。
空はいつだって、変らず美しかった筈なのに、もうずっとそれに目を向けられなくなっていた。
でも、特別な朝を迎えた今日からは、もう違う。
「ハル! おはよう!」
門の向こう側から送られて来たその呼び声。
「今日は…、どうする?」
それは、在りし日以来、毎朝の様に繰り返されて来たいつも通りの問いかけ。
「あ…ぅ…」
その薄い胸の奥で、心臓がトクリと脈を打つ。
昨日までは、何も答えられずにただ俯いて、逃げる様にその横を通り抜けてしまっていたけれども、今日は特別な朝を迎えられたから、もう、俯かない。もう、逃げ出さない。
「えっ…と…」
顔を上げて、踏み込む一歩。それは、ささやかな希望。ささやかな願い。
「お、おは…よう…けんじ…!」
まだ、幾らも躊躇いがちではあったかもしれないけれど、夏から秋へ、巡りゆく季節の元で特別な朝を迎えたその日、遥は確かに真っ直ぐ前を向いていた。
白いボンネットに反射して、滑らかに流れてゆく景色。
遥の家から学校までは、徒歩ならおよそ三十分。バスを使えば十五分程度。そして裏道を熟知している賢治の車ならば、たったの五分たらず。
その限られた時間の中で、交わせる言葉はそれほど多くない。
それでも、特別な朝を迎えた今日、遥にはどうしても賢治に伝えたい事があった。
だから遥は今、こうしてまた賢治の運転する車の助手席に座っている。
「ね、ねぇ、けんじ…」
その薄っぺらな胸の内に散らばっているありったけの勇気を集めて、遥は今、精一杯に言葉をつむぎだす。
「あの…、あのね…」
自身でも、ハッキリと自覚できる程に震えていたその声。
それも無理は無い。今までずっと、逃げ続けて来たのだから。
向き合うのが恐ろしくて、ずっと、ずっと、避けて来たのだから。
「ああ」
そう短く応えた賢治は、今まで、どんな想いでいたのだろうか。今どんな想いでいるのだろうか。
「ボク…、か、考えたんだ…」
つい数日前までは、それすらも出来ずにいた。
けれども、遥は今、しっかりと前を向いて、正面から向き合っている。
いつもより眩しく見えた世界の中で、沙穂が、楓が、青羽が、そして倉屋藍が気付かせてくれたから。想いは光なのだと、それこそが眩しさなのだと。
「ボク…」
例え、賢治の想いが『呪い』なのだとしても。
いや、むしろ、だからこそ。
「ボクは…」
どん底に沈んでいた自分を、沙穂や、楓や、青羽が眩しく照らしてくれたように。
自分が『呪い』に変えてしまった賢治の想いと向き合い続けていた倉屋藍が、それでも尚その眩しさを失わなかった様に。
もしも許されるのなら、もしもまだ間に合うのなら。そんな『希望』と、そんな『願い』を込めて、遥は精一杯の想いを紡ぐ。
「ボクは賢治と、け、結婚する!」
刹那、俄かに大きくゆれた視界。続けて響いたつんざく様なブレーキ音。
「ふぎゅっ」
僅かに遅れてやってきた衝撃に、遥の口からは思わずへんてこな悲鳴が洩れてしまうも、それどころの騒ぎでは無かったのがもちろん賢治だった。
「―!? ―! ―!?!?!?」
遥の告げた『想い』が余程の衝撃だったのだろう。賢治は路肩に急停車させた車内の運転席で、ハンドルを握ったまま、声にならない驚愕とともに目を白黒とさせるばかり。
「あ、あの…け、賢治…? えっと…その…だ、だいじょう…ぶ…?」
そう問い掛ける遥の面持ちにあからさまな気まずさが窺えたあたり、遥自身にも衝撃発言をした自覚はあった様だがそれは一先ず置いておくとして、賢治の驚愕が言葉になったのはここでようやくだった。
「けけけけ結婚!? 結婚って! け、結婚!?」
結婚。それは、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、愛し、敬い、慈しむ事を誓い合った二人が至る一つの到達点。
「う、うん…」
遥が小さく頷いて、確かにその言葉を口にした事を肯定すると、賢治は依然として驚愕冷めやらぬ様子で今一度目を白黒とさせる。
「お、おまっ、なっ…えぇぇぇ!?」
既に遥への『愛』を告白済みの賢治なのだから、無論、いずれのビジョンとしては『結婚』だって視野に入れていたに違いない。しかし、それが今このタイミングで、しかも遥の方から口にされた絵となると、それはもうこんな反応になるのも無理からぬ話だろう。
何しろ、賢治はその想いを伝えてからというもの、今日までずっと遥に避けられ続けて来たのだから、驚愕するなという方がまずもって無理な相談だ。
「は、ハル…お前、結婚の意味、分かってるのか!?」
賢治がそう問いただしたくなるのもまた無理からぬ話ではあったものの、流石に『結婚』の意味が分からない様な遥ではない。
「あ、当たり前でしょ…」
ちょっぴり頬を膨らませて反論するその見た目が例え、「おおきくなったらけんじくんとけっこんするー」何て無邪気に言いそうなちんまりとした幼女であったとしても。
「ボク…本当に、一生懸命考えて…、それで…」
そこで一旦言葉を区切った遥は、胸元で両手をギュッと握りしめながら、その大きな瞳に確かな決意をハッキリとうつし出す。
「ボクのせいで、賢治がもう幸せになれないなら、ボクが賢治を幸せにしなきゃって、そう思ったから!」
それが、考えて、考えて、考え抜いた末に、遥がようやく見つけた答。
誰よりも大切な人には、誰よりも幸せになって欲しいから。ただその一心で、遥がようやく取り戻せた『希望』と『願い』。だったのだがしかし、その想いが果たして賢治に正しく伝わったかどうか。
「……………………えっ?」
長い沈黙を経て、賢治の口をついたのは短い疑問符。
「えっ? えっ…と…?」
賢治の反応から、どうにも上手く伝わらなかったらしい事を察した遥は、どこに不足があったのだろうかと、小首を傾げさせながら自身の発言を振り返りえってみる。ただ、持てる限りの勇気をかき集めて、精一杯に余すところなく気持ちを伝えたつもりだった遥では、その過不足に気付くのはなかなか難しい。
「あの…えっと…、あっ…」
しばし考えてから、何やら思い至った遥ではあったものの、それが正鵠を射ているかどうかは大いに怪しいところ。
「もしかして…ボクの事…、もう、嫌いになっちゃった…かな…、だからボクじゃ…もう…ダメ…なのかな…」
想いを伝えてくれたあの日から、今日まで賢治を避け続けて来たのだから、そうなっていたとしても不思議はないと、遥は持ち前のマイナス思考からそんな風に思ったのかもしれないが、もちろんそれは案の定の的外れである。
「い、いやいや! それは無い! それだけは絶対に無い! 無いんだが…」
若干慌てた様子で、賢治が返して来た力強い否定と、その後に続いた歯切れの悪い言葉。きっと、賢治には突っ込みたい事が山ほどあった事だろう。
「と、とりあえず…、この話はハルの学校が終わってから、ゆっくりしようか…」
遥の家から学校まで、賢治の車でなら五分と掛からず着くはずが、ダッシュボードのデジタル時計が示す時刻はいつの間にやら八時目前で、それは実に賢明でやむを得ない判断というやつだった。




