5-34.それでも世界は美しい
点々と燈る街灯や、建物からこぼれる間接照明。
忙しなく切り替わる信号機や、それを潜り抜けてゆく前照灯。
迎えては、通り過ぎてゆく、幾つもの光たち。
遥を真ん中に、右側が楓で、左側が沙穂。
文化祭の準備が始まって以来、三人で久しぶりに歩く駅前へと続く道。
これまで何度となく歩いて来たその道を、三人は今日、いつも以上に、ゆっくり、ゆっくり、歩いてゆく。一歩一歩、踏みしめる様に、一つ一つ、想いを確かめる様にして。
「あたしらに何が出来るかは、まだ分からないけど…」
沙穂は少しばかり悔しそうな面持ちでそう前置きしながらも、その瞳にはことさら眩しく溢れる光。
「もしかしたら、ワタシたちに、出来る事なんてないのかもしれないけど…」
楓が重ねた悲観的な言葉。けれどもそれはまだ、二人の結論じゃない。
楓の瞳もまた、沙穂と同じようにことさらに眩しい光りを溢れさせていたのだから。
「うん…」
今なら遥にも分かる。
いつもより眩しく見えた世界。そこに溢れていた沢山の光。
「それでも、あたしは、あたしらは、カナの友達でいるから!」
沙穂の言葉に込められていた揺るぎない想い。
「ワタシたち、それだけは何があっても諦めないんだから!」
楓の言葉に乗せられていた確固たる意志。
「ヒナ…、ミナ…」
それは、『希望』であり、『願い』だった。
だから二人の瞳は、こんなにも眩しく輝くのだ。
今ならば遥にも分かる。
今日、いつもより眩しく見えていた世界は、確かに素晴らしくて、そして何よりも美しいものだったのだと。
だってそれは、今の遥が見失ってしまっていた『希望』であり、抱けなくなってしまった『願い』だったのだから。
思えば、智輝の眩しい笑顔を直視していられなかったも、美乃梨ほど眩しく笑うことができなかったのも、だからなのかもしれない。
智輝の笑顔には、遥が見失ってしまった『希望』が溢れていたから。
美乃梨の笑顔には、遥が抱けなくなってしまった『願い』が込められていたから。
ならば、それと同じくらい、否、それ以上に眩しく輝く沙穂と楓の想いは、どなのだろうか。二人が示してくれた『希望』と『願い』は、どうだったのだろうか。その答えも、遥にはもう分かっている。
「ヒナ…、ミナ…、ありがとう…」
告げずにはいられなかった感謝の言葉。
それは、今もそうしてくれている様に、同じ歩調でゆっくりと隣を歩てくれる沙穂と楓にだからこそ、伝えずにはいられなかった心からの想い。
「カナ…」
「カナちゃん…」
思えば、いつだって、そうだった。
いつだって二人は、こうして直ぐ隣に寄り添っていてくれる。
きっと、だからなのだ。
待ち受ける未来の明るさを疑わず、ただ純粋にただ眩しかった智輝や、半歩前を歩いてその眩しさで道を照らしくれているかの様だった美乃梨とはまた違って、こうしていつだって直ぐ隣に寄り添ってくれる沙穂と楓だから、そんな二人が示してくれた『希望』と『願い』だったからこそ、だから遥はそれを何より眩しく感じながらも、眼を逸らさずに真っ直ぐ向き合っていたいと、そう思えたのだ。
「カナ…、あたしね、ここのところずっと、何もできない自分が凄く嫌だったんだ」
それ程までに想ってくれる友達を持てる者が、この世界に何人いるだろうか。
「ワタシも、カナちゃんが辛そうにしているのに、気の利いた事の一つも言えなくて、やっぱりワタシはダメだなって、ずっとへこみっぱなしだったよぉ」
それでも尚、諦めないとまで言ってくれる友達を持てる幸せを、果たしてどれほどの人が知っているだろうか。
「まぁ…、あたしらが何もできないってところは、今もまだ同じなんだけど…」
沙穂はそう言うけれども、遥にはもう十分だった。
「うっ、もしかして気持ちばっかり押し付けちゃった!? ご、ごめんねカナちゃん!」
どうして謝る必要があるのか、遥がそれを嫌だと思う理由なんて一つもない。
「ううん…ううん…」
自分が塞ぎ込んでいた所為で、沙穂と楓が心を痛めていたのだと思うと、確かに遥はともすればその心を暗く陰らせて俯いてしまいそうにもなる。けれども今は、それ以上に、沙穂と楓が示してくれた想いがどうしようもなく嬉しかったから、だから遥はその小さな両手を胸元でギュッと握りしめて、俯かずに真っ直ぐ前を向く。
「あぁ…」
顔を上げて、前を向けば、その視界いっぱいに広がる眩しい世界。
確かに世界は時に残酷で、時にはどうしようもない事だってあるけれど、遥は今ハッキリとこう言える。それでも世界は美しい、と。
そして遥には今、もう一つ気付いた事がある。
沙穂と楓が想いを伝えてくれたからばかりではない。今、こうして世界が美しく見ているのは、きっと、昨日、青羽が思いを響かせてくれたからなのだ。だから今日、世界はいつもより眩しく見えて、だから今、こんなにも世界を美しいと思えるのだ。
「そうだ…そうだったんだ…」
昨日、青羽は、「諦めたくない」と、そう言って想いを響かせてくれた。
そして今日、沙穂と楓も「諦めない」と、そう言って想いを伝えてくれた。
その二つは、必ずしも同じ想いでは無いのかもしれないけれど、その二つが、今こうして世界を美しく見せてくれている事だけは間違いじゃない。
それが『希望』を見失って、『願い』を抱けなくなっていた遥にとって、どれほど奇跡的で、どれほどの救いになった事か。
「ヒナ、ミナ…ボク、ボクね…」
この気持ちを、伝えたい。沙穂と楓に、そして青羽を想って、いま感じているこの気持ちを言葉にしたい。それには一体、どんな言葉が相応しいのだろうか。どんな言葉なら、この想いを乗せるに足るのだろうか。
「カナ?」
「カナちゃん?」
穏やかだった二人の問い掛ける声。遥はまだどうすれば今の気持ちを上手く伝えられるのか、その答えを見つけられていなかったけれども、二人の声に導かれるように、自然と気持ちは言葉になった。
「ボク、だいすきだよ…! こんなにも、だいすきだよ…!」
それは、ありったけの気持ちを込めた、遥の素直な言葉。
想いに対して、余りにも拙かったその言葉が正解だったのかは分からない。
ただ、沙穂と楓には、きっと伝わったはず。
「……もぉ、そんなの…しってるからっ」
そう言った沙穂の声が少し震えていたら。
「うっ…ぐっ…カナちゃん、ワタシもだよぉ!」
楓に至っては、確かめるまでも無い。
気持ちは、確かに伝わった。沙穂と楓には、確かに伝わっていた。ならばきっと、青羽にも、いつか必ず伝えられるはず。
「うん…、うん…!」
その時、遥の瞳に映る世界がひときわ眩しく、いっそう美しく見えたのは、決して気の所為なんかじゃない。
そしてきっと、沙穂と楓の視界にも、遥が見ているのと同じ、眩しくて美しい世界が広がっていたに違いない。そのとき二人の瞳から溢れていた光は、それまで以上にキラキラと、ひときわ眩しくまたたいていたのだから。
それから、どれくらい歩いただろうか。
その間に、三人が交わした会話は、もうそれ程多くは無かった。
会話なんてなくとも、三人の間では、もう十分に気持ちが伝わっていたから。
だから三人はただ、その短い道のりを惜しむ様に、それまで以上にゆっくりと、寄り添う様にして歩いてゆく。
ただ、どれだけゆっくり歩こうとも、限り有る道のりは着実に距離を減らしてゆき、点々と燈る街灯を幾つも辿って、幾つかの信号で幾らかの前照灯を見送れば、そこはもうすぐアーケードの入口だった。
「もうちょっとで、ついちゃうね…」
楓の言う通り、アーケードに入ってしまえば、どれだけゆっくり歩いても、駅前までは五分とかからない。
「……そうね」
その短い頷きを返すまでに、沙穂はいったい幾つの言葉を飲み込んだのだろう。
頭の回転が速い沙穂の事だから、きっと何通りもの言葉を考えたに違いない。
「むー…、今日は久しぶりにカナちゃんが一緒なのになぁ…」
そろそろ前方に見えて来たカフェ『メリル』の方に視線をやりながら、楓が洩らしたこれも、沙穂が呑み込んだ言葉の中にあっただろうか。もしそうだとしたら嬉しいと、遥はそう思いながらも、その想いには応えられそうもない歯がゆさに唇をかむ。
「ゴメンね…、ボクも、二人ともっといたいけど…」
その言葉は遥の紛れもない本心で、せめて今日くらいはと、そう思う気持ちが遥の中には間違いなくあった。しかし、どれだけ気持ちがあろうとも、今の遥にはまだそれを叶えられるだけの余裕がない。
今日も文化祭の準備は最終下校時刻にまで及んでいて、午後の七時過ぎに学校を出た遥たちは、ここへ来るまで四十分以上の時間をかけている。
「今は…、七時五十分過ぎ…か…」
やはり沙穂にも三人でいられるこの時間を惜しむ気持ちがあったのか、取り出したスマホを使って読み上げたその時刻は、普通の高校生ならばまだまだ宵の口といったところだったかもしれない。ただそれは、遥にとって、というよりも寧ろ、沙穂からみた遥のデッドラインギリギリの時刻を意味していた。
「ごめんカナ! ちょっと急ごっか!」
沙穂はあからさまに焦った様子でそう言うなり、素早くスマホをしまって、その代わりに遥の手を掴む。そしてそれまでのゆっくりとしたペースから一転、普段、普通に歩く時よりも足早になった。
「わっ…ま、まだそこまで急がなくても…っ」
遥が不意のペースアップに少々面食らいながらそう告げてみれば、僅かに出遅れた楓も小走りで追いついて来ながらそれに同意してくれる。
「そ、そうだよ、カナちゃんもこう言ってるし、駅に着くまでくらいなら、きっとだいじょうぶだよ…!」
出来れば遥と楓はこの時、もう少し具体的に「急がなくても大丈夫」な根拠を述べるべきだった。
例えばそれは、遥が少し遅くなる旨を母親に一報する程度の事でもよかったのだ。
それがあれば、もしかしたら沙穂も思い直してくれたかもしれない。だが、このとき遥と楓が述べられたのは曖昧で漠然とした楽観論でしかなく、それでは沙穂がその足取りを緩める訳は無かった。
「ダメよ! 八時のバスにはカナを乗せなきゃ…!」
沙穂がそれ程までに明確な刻限を設定して、過剰とすら思える程の焦りすら見せていたのには、もちろん理由がある。
それは、沙穂が忘れていなかったからだ。夏休みを目前に控えていた在りし日に、自分が遥を引き留めてしまった所為で、いつもより遅いその帰りを心配して、母親の響子が八時頃に連絡を入れて来た事を。
それは沙穂にとって、ある種のトラウマだったと言っても良い。
だから沙穂は、八時というその時刻に拘っていた。あの日、あの後、遥がどうなったのかを、沙穂は今でもはっきりと覚えていたから。
無論、その時と今とでは、色々と状況が違っていたし、沙穂だってそんな事は重々承知の上だっただろう。
ただ、それでも沙穂は、その時刻を恐れずにはいられなかった。その恐れが、時に美しく時に残酷な世界の歯車を、ほんの少しだけ狂わせていたとも気付かずに。




