5-31.活字の海、電波の海
それは丁度、沙穂と楓がカフェ『メリル』で心持と意気込みを改にしたその日の晩の事だ。沙穂と楓がそうだった様に、その二人と同じか、もしくはそれ以上の想いを持って、二人よりも早く実際のアクションをも起こさんとする者が居た。
それは時刻でいえば午後の九時を幾らか過ぎあたりだっただろうか。そのとき遥は、自室で読書に耽っていた。
「……」
ベッドの上に座り込み、その小さな手には少しばかり余るズッシリと重たいハードカバーを立てた膝で支えながら、ページを繰って浸る活字の海。
遥はこのところ、以前にもましてより沢山の本を読む様になっていた。
賢治に想いを告げられたあの日からずっと繰り返している『どうして』という自問も未だ続けてはいたが、遥はそれに行き詰まりを感じると本を読むのだ。
だからそれは当初、あくまでも『現実逃避』の合間に行われる息抜きとしての意味合いの方が強かった。
ただ、本来の『現実逃避』であった『どうして』という自問には、どれだけ考えようとも答えが出る事は決して無く、そのうえ元々本が好きな遥だ。
故にいつしか、辛く不毛な自問なんかよりも、本来は息抜きであった筈の読書の方がより分かりやすい『現実逃避』としての役割を担う様になっていったのは、半ば必然だったと言えるだろう。
尤も、気力さえあればいくらでも続けられた『どうして』という自問とは違って、本の世界への現実逃避はいつまでも続けられるものではない。そこに居続けようとすればするほど、本のページは減ってゆき、その世界は終幕の時を早めてゆくのだから。
けれども、だからなのだ。だからこそ遥は、以前にもましてより沢山の本を読む様になったのだ。例えそれがどんな本であろうとも、読んでさえいれば、遥はその間、『現実』とは違う『別な世界』で、『奏遥』ではない『別な誰か』として生きていられたから。
だからその晩も、遥は相対すべき現実や、本来の『現実逃避』であった答の無い自問からも目を背け、ただただ本の世界にどっぷりと浸かり切っていた。
だがしかし、正しくその時の事だ。枕元に置いてあったスマホが不意な着信音を鳴らし、遥を現実へと引き戻したのは。
「…っ!」
突然のことにビックリしてしまった遥は、反射的にビクッとなって、思わず膝で支えていたハードカバーの本を取り落としそうにもなる。
「あ、あわっ…!」
咄嗟に伸ばした手が間に合って、何とか本の自由落下を阻止できた遥だが、それで事なきを得たかといえば、残念ながらそれにはまだ及ばない。
「つッ…!」
受け止めたかと思った次の瞬間、その指先に鋭い痛みが走り、遥はその所為で思わず手を引っ込めてしまい、結局は本を取り落としてしまっていた。
「はぅぅ…」
何事かと痛みの走った指先を確かめてみれば、ジワリと血を滲ませる小さな切り傷が一つ。咄嗟に手を出したのが災いしたのか、どうやら本を受け止めた拍子に、ページの端で指を切ってしまったらしい。
「んむぅ…」
滲み出る血をそのままにしておく訳にもいかず、差し当たってはそれを口にくわえるという些か横着な応急処置をしながら、遥は無傷な方の手で改めて本を拾い上げる。
「…よかった、本は無事みたい」
落とした拍子にページが折れてしまったりしていないかと、そんな心配をしていた遥だったが幸い本は無傷で、その間も尚鳴り続けいていたスマホの方へと手を伸ばしたのは、それが確認出来た処でようやくだ。
「もぉ…誰だよぅ…」
本こそ無事だったものの、切ってしまった指先はピリピリと痛み、これはもう文句の一つでも言ってやらねば気が済まないと、そんな心積もりでいた遥だったが、それもスマホの画面に表示されていた着信相手の名前を目にするまでだった。
「…っ! は、早見君…!」
その名前を目にした途端、遥は指を切ってしまった事や、それに関する恨み言なんてもうどうでもよくなって、とにかく大慌てで緑の応答アイコンをタップする。
「つッ…! も、もしもし!」
慌てた所為で、うっかり切ってしまったその指で画面をタップしてしまい思わず声をも上げてしまった遥だが、スマホを口元に寄せる前だった為、おそらくその部分は青羽に聞かれなかった筈だ。
『あっ…奏さん? えっと…俺…、早見だけど、こんな時間にいきなり電話してゴメン』
スピーカーから鳴り響いた青羽の声を聞いたその瞬間、遥の胸がトクリと鼓動して、幾ばくかの緊張感が走りもする。
「あっ、ううん、ぜんぜん…だいじょぶ…だよ…」
読書の邪魔をされ、本を落としそうになり、指を切ってしまって結局は本も落としてしまった事を思えば、それほど大丈夫でもなかった遥ではあるが、最早それを青羽に訴えるべくはない。
『そっか、それならよかった』
スピーカーから聞こえて来る青羽のホッとした声に、遥は依然として幾らかの緊張感を覚えながらも、その心には同じくらい柔らかな気持ちも広がってゆく。
「…うん」
青羽とまともに話をするのは、いつぶりだろうか。それこそきっと、賢治に想いを告げられたあの日に、二人で文化祭の打ち合わせをした時以来だ。
だから遥は、あの日、あの後、何があったのかを青羽には話していない。第三者でそれを知っているのは、沙穂と楓くらいのものだ。
けれども、きっとだからなのだろう。だから青羽はこうして、滅多にはしてこない通話なんてものをかけて来たに違いない。何があったのかは知らずとも、青羽が気付いていない筈は無かったから。あの日を境に、塞ぎ込んでしまっている自分の事に。
だから遥も、その名前を目にした瞬間、一も無く二も無く大慌てでその通話に応じたのだ。青羽には、話さなければならないと、ずっとそう思っていたから。あの日、あの後、何があったのかを。そして、それ以上の事も。
ただ、そんな遥の想いを知ってか知らずか、まず最初に話題を切り出して来たのは、青羽の方からだった。
『えっと…、奏さん、今、なに…してた? 俺はさっき課題終わったとこでさ…』
それは、驚くほど他愛のない話題で、それだけに少なからずの緊張と大いに思う所の有った遥は、堪らずの脱力をしてしまいそうにもなる。
「あ、あー…、うんと…ボクは…その、本…読んでた…」
差し当たって遥がありのままを答えると、通話向こうの青羽からは「へー」という、他愛のない話題に違わない他愛のない感嘆の声もが返って来た。
『奏さんらしいね、なんていう本?』
それを聞いてどうするつもりなのかは分からないが、ともかく青羽はそのままその話題を続行させる構えの様で、聞かれたからには遥も答えない訳にはいかない。
「…んと、『硝子の顔』っていう私小説…だけど…」
もしこの回答者が楓あたりだったなら、大凡のあらすじから始まって、その物語が成立するに至った経緯などの普通では知り得ないちょっとした裏話まで、その作品の魅力を余すところなく語ったりもしただろう。ただ、これが遥となると、その回答はこの程度の必要最低限が関の山だ。
『へー…私小説かぁ…どんな内容…?』
何となく遥はその質問をされる気がしてはいたが、それに対する回答はやはり必要最低限だった。
「えっとぉ…、青年が…悩んだりするお話…かな…」
これは別に、この話題をさっさと終わらせてしまいたかったからとか、ましてや説明するのが面倒だったからとかそう言う訳では決してない。遥の読書趣味はかなりの自己完結型で、そのうえ生来の説明ベタでもあったため、これ以上に上手い言い方が出来なかっただけの事だった。
『へ、へぇ…そっか…なるほど…ね…』
遥の説明が下手すぎた所為で、流石の青羽もこれ以上この話題は広がりようがないと思ったのか、図らずもこの他愛のない世間話はこれにて敢え無く終了だ。
「うん…」
それから少しの間、遥と青羽は互いに黙ってしまい、どれくらいそれが続いただろうか。正確な時間は分からないが、沈黙を破って再び口を開いたのは、やはり青羽の方からだった。
『あ、あのさ、奏さん!』
もしかすると青羽は、ただ沈黙に耐えかねただけだったのかもしれない。
「…うん?」
遥が短く疑問形で応えると、やはり青羽は何を話すのかを決めていなかったのか、それとも何か言い難い話題を切り出そうとしていたのか、少しばかり言い淀んでしまう。
『あ、えっと…、なんていうか…その…、あー…、こ、こういうのって、あれだね、なんか…、逆にちょっと…ハズい…よね…』
きっとそれは、青羽が本当に言いたかった言葉や、本当に切り出したかった話題では無かった筈だ。けれども遥には、その気持ちが手に取る様によく理解できた。遥もそうだったから。言いたい事があるけれど、それを上手く言葉に出来ないでいるのは、遥も同じだったから。
「うん…そう…だね…」
そこで一旦言葉を区切った遥は、それを切っ掛けに、ここでようやく自身の想いを伝えるべく、ゆっくりと言葉を探し始める。
「けど、ボクは…、早見君の声が聞けて…すごく嬉しいよ…」
まず初めに見つけたその言葉は、決して只の常套句などでは無く、紛れもない遥の本心だ。
『えっ! そっか…! そっかぁ! 実はさ、俺も…、奏さんが電話に出てくれて、凄く嬉しかったんだ!』
弾む様だったその声から、青羽もまた心からそう言ってくれているのだと、それが伝わって来て、遥の胸はギュッと締め付けられる。
「早見君…」
賢治に想いを告げられたあの日以来、青羽とはまともに喋っていなかった。
無論それは、中邑教諭の采配で席を離してもらった事ばかりが理由ではない。
それは、今まで、言い出せないでいたからだ。
「早見…青羽…君…」
全てを知っても尚、女の子の自分を好きだと言ってくれた美しい名前の男の子。
女の子として、初めて見つけた、初めて好きになった、初恋の男の子。
だから遥は、賢治の想いを『呪い』に変えてしまったのだと知ってしまったあの日に決めたのだ。
青羽との恋は、もう終わりにすると。
青羽の事が好きだから。こうして電波の海を隔てていても尚、その声だけで、幾らでも緊張してしまえる程に、青羽の事がまだちゃんと好きだから。だから今まで、言い出せなかった。
けれども今ここで、青羽との恋を終わらせる。
そのつもりだった。その瞬間までは。




