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1-2.違う生き物

 暗く、何もない。何も感じない。遥はなんの感慨もなく自分の置かれている状況をただ漠然とそう捉えた。身体の感覚すらも曖昧だったがこの感じには覚えがある。これは恐らく夢だ。自分は今眠っていて夢を見ている。

「ハル…」

 そう呼びかける声が耳に届いた。良く知っている声だ。でも妙に懐かしく感じられるのは何故だろうか。その理由を探そうにも、夢の中の思考ははっきりとしない。何かを思案するには向いていない。遥が考えるのを止めると辺りはただ無に包まれた。

「ハル…」

 再び名を呼ぶ声。その声はどこか悲しげだ。何故そんな悲しげに自分の名前を呼ぶのか分からない。理由を探そうにも、やはり夢の中ではうまく思考が働かない。ただ、悲しませてはいけない。霧がかかった意識の中、それだけは感じられた。声は次第に遠のいていき、また静寂が訪れる。

「…ハル」

 遠くから薄っすらと名を呼ぶ声。随分と遠くなったその声に遥は不安を覚える。このままではいけない。あの声に追いつかなければ。そう感じられた。目を覚まそう。このまま夢に微睡んでいてはいけない。目を覚ましてあの声に追いつこう。遥がそう心に決めると、それまで曖昧だった身体の感覚が徐々に意識と同調しはじめる。自分の身体の重さ、空気の匂い、瞼を透かす光、そしてベッドの感触。現実感を帯び始めた感覚にやはり自分は眠って夢を見ていたのだと遥は少しホッとする。目を覚まそう。遥は自身にそう言い聞かせるとまだ少しぼんやりとする思考に鞭を打ち、妙に重く感じる瞼をゆっくりと開けた。

 目覚めた遥の瞳に青白い蛍光灯と見覚えのない白い天井が映し出される。目の端にはベッドを囲むように配置されたカーテンレールと、鉄の支柱に吊るされた透明なプラスチック袋が確認できた。遥は冷静に目の前の景色を分析し、どうやらここは病院の様だと結論付ける。

 遥は病院で目覚めた自分の状況を確認しようと記憶を辿っていく。最後の記憶は自分の名を叫ぶ賢治の声だ。賢治が自分の名前を呼ぶ場面は日常ではいくらでもあるが、叫ぶ様な場面はあまり思い当たらない。未だ寝ぼけているのか余りにハッキリとしない思考に若干の苛立ちを覚えながら、取りあえずちゃんと目を覚まそうと、遥はベッドから起き上がる事を決める。

 だが、遥は起き上がれなかった。体にまるで力が入らない。全身の感覚はあるのだが、思う様に動かない。動くのはせいぜい指先と首から上程度だ。これが金縛りというやつだろうか? 貴重な体験をしてしまったな。等と遥がお気楽な感想を抱いていると、ドアの開く音、続いて複数人が室内へやってくるのが足音で分かった。

「奏遥君、気分はどうかな?」

 それは少し鼻にかかった低く音圧のある独特な声だった。声の主がベッドの横へとやってきて脇にあったスイッチを押すとベッドの上半分がゆっくりと動き出し遥の上半身と共に起き上がる。遥はここでようやく声の主を視認した。白衣を纏った大柄な掘りの深い中年男性だ。後ろにはナース服を纏った恰幅の良い女性が伺える。やはりここは病院で間違っていない様だと遥は確信を持つ。

「僕は君の主治医で、諏訪と言います」

 諏訪と名乗った医師は大きな体躯に似合わず人懐っこそうな笑顔を覗かせた。諏訪医師が自己紹介をする間、恰幅の良い女性看護師は遥のバイタルをチェックし問題がない事を医師に報告する。諏訪医師はそれに頷き手にしていたバインダーに何かを書き込むとそれを看護師に手渡した。

「恐らく今はまだ記憶が混濁していて状況が良く理解できていないと思うので、まずは状況の説明から始めようか」

 バインダーを受け取った看護師が病室から立ち去るのを一瞬目で追ってから、諏訪医師は改めて遥に向き直るとゆったりとした口調で語りだした。

「交通事故に遭った事は思い出せるかな?」

 その問い掛けに遥の中で霧がかかっていた記憶が徐々に晴れてゆく。そうだ、自分は確か小学生の女の子をかばってトレーラーに…。そこで遥の記憶は途切れていた。自分の身に起こった出来事に思い当たった遥の脳裏に様々な事柄が一気に思い浮かぶ。あの女の子は無事だっただろうか、自分はどれほど意識を失っていたのか、自分の怪我はどの程度の物なのか。色々と確認しなければいけない事がある。

「ぁ…ぅ」

 あの、と発しようとしたが遥の喉から発せられたのは意味をなさない嗚咽のようなものだった。遥は自身の発した音にぎょっとして、慌てて次の言葉をちゃんと発音しようとするも、やはりそれは言葉の体を成すことはなかった。体も動かせない、言葉も発せられない、もしや自分はかなり深刻な状態なのではないかという推測に遥は一気に血の気が失せていく。諏訪医師はそんな遥の様子を認めると手振りで落ち着くようにと示して見せた。

「今はまだ思う様に喋ったり身体を動かしたりする事はできないけど、リハビリをすれば身体機能はちゃんと元通りになるよ」

 自分は事故によって重度の障害を負ってしまったのではないかと考えていた遥は、諏訪医師のその言葉によって一旦胸を撫で下ろす。

「ただ、これから君の身体について重大な事を話さなければいけない」

 そう言った諏訪医師の表情から、それまで浮かべていた体躯に似合わぬ人懐っこい笑顔が消えた。遥の動かぬ全身に緊張感が走る。やはり何か後遺症があるのだろうか、それはいったい如何様な物なのか、一旦撫で下ろした遥の鼓動が俄かにテンポを上げ始める。


 それからの諏訪医師の話は遥にとってまさに驚嘆の事実、現実は小説より奇なりというやつだった。まず、事故当時から既に三年間余りが経過している事、大型トレーラーに蹂躙された遥の身体はほぼ修復不可能だった事、そしてその修復不可能な身体の代わりに新しい身体を一から造り、今の遥はその新造された身体で生命活動を行っているという事実。

 それは近年実用化され始めた最先端の再生医療で、多能性幹細胞、いわゆる万能細胞を用いた技術らしく、本人の遺伝子情報を素に万能細胞を培養し新しい身体を造り上げ脳を移植するという物だった。遥の事故から覚醒までの三年間の空白はどうやらその再生医療の都合らしく、新しい身体の成育に必要な時間と、脳を保存できる期間との兼ね合いなのだそうだ。あれほどの大事故でありながら脳に損傷がなかったのは奇跡と言う他ないと諏訪医師は語った。当然脳がダメになってしまっていてはいくら身体を新造した所で意味はなく、また脳の再生は物質的には可能でも蓄えていた情報、つまり記憶、延いては人格や人間性までは再生できないという。因みに脳細胞自体にも寿命という物が存在する様で、肉体を次々と乗り換えて不老長寿、などという事が可能な技術では無いというのは諏訪医師の余談だ。

 遥は諏訪医師の説明に驚愕しつつも何とか状況だけは冷静に理解する事が出来た。ここまでで取り乱さなかったのは、三年の経過という事実は確かに懸案すべき問題だが遥にしてみればまるで実感の沸かない話で、再生医療に関しては事故以前にその様な技術が実用化されたというニュースをテレビで耳にしたのをうっすらと記憶していたためだ。まさか自分がその恩恵に与かるとは夢にも思っていなかったが遥にとっては一応の得心がいく話ではあった。

「さて、ここからが重要な話なのだけれども」

 それまであの笑顔こそ引っ込めていたものの、変わらずのゆったりとした調子で続けていた諏訪医師の表情が俄かに険しくなった。そんな諏訪医師の様子から遥にも緊張が走る。何とか冷静には受け止められているが、三年の経過も新しい身体も出来事としては十分大事に分類される話だ。その上更に重要な話が有るとされては、少なくとも良い予感はしない。

 諏訪医師は一旦目を伏せ数舜躊躇したが意を決したのか遥の瞳をまっすぐ見据え、努めて淡々とした口調で語り始める。

「当初君の新しい身体の成育は極めて順調だった。数値の上でも経過観察でも問題なく、試験段階での拒絶反応も認められなかった。そのまま順調に進めば、今頃は実年齢に即した健康な肉体を用意できている予定だった」

 予定だった。そう過去形で述べた諏訪医師の言葉と苦々しい表情から、それが叶わなかったのだと伺い知れる。諏訪医師はリハビリをすれば身体機能は元通りになると言っていたが、では一体何が問題だというのか。答えを待つ遥の背筋を冷たい汗が流れる。

「それがどの段階で起こったのか定かでは無いのだが、成育中の肉体に性染色体情報の変異が発見された。記録上に段階的な変質は認められず、突然変異した可能性が高い」

 その回りくどい言い回しは医師としての性分なのか、一介の高校生には判然としない諏訪医師の言葉を遥は頭の中で反芻する。「セイセンショクタイジョウホウ」が書き換わった。その単語は生物の授業で聞いた覚えがある。遥は先ほど背中を伝った冷たい汗が、今にも全身から吹き出しそうになった。諏訪医師の言葉と、自分の浅学な知識を総合し想像し得た結論はあまりにも恐ろしい。

「変異した性染色体情報に肉体の生育は一旦の中断を余儀なくされ、我々は復元の道を模索しあらゆる手段を講じたが、すでに肉体は安定期に入っており、その染色体情報を書き換える事は新たに一から造り直す事とほぼ同義だった。しかし我々にはそれを行えるだけの猶予がなかった」

 そして遂にタイムリミットがやってきたのだと言う。それは肉体から切り離された遥の脳を安全に保てる期限だった。

「我々としても苦渋の決断だった。それが君の今後の人生を大きく左右し得る重大な問題である事は当然分かっていた」

 そう吐露した諏訪医師の断腸の思いといった様相が遥の想像し得た恐ろしい結論を確信めかす。

「しかし私は医師として、命を救う事より尊いものは無いと信じている。そしてそれは君のご家族も同様だった。例え君がどの様な姿になったとしても、君の命をなによりも大切に思っておられる」

 どの様な姿になったとしても。その言葉が示している。遥は最早以前の遥ではない。暗に突き付けられた事実を前に遥の頭の中が真っ白に染まる。思考回路に安全装置が働いたのか、もうそれ以上何も考えられなかった。

 そんな呆然とした遥の様子に、諏訪医師は年貢の納め時だと悟ったように、最後はただ簡潔にありのままの事実を告げる。それは、遥の想定した最悪の更に上だった。

「君は今、肉体的には十歳前後の女の子だ」

 そう言い切ると、諏訪医師は「本当に申し訳ない」と頭を深々と下げた。

 青天の霹靂。

 遥の脳裏をそんな言葉がかすめていく。それは丁度遥が事故に遭った日、高校で受けた期末試験の設問の中にあった語句だ。そして不意に、事故に遭うほんの数分前、賢治と交わしていた会話が蘇る。高校に入ってから幾人もの女の子に告白されながら、それを断り続けている賢治に、何故彼女を作らないのか、そう尋ねた遥に賢治は言ったのだ。あれは「違う生き物」だと。

「違う生き物」それは今、遥自身の事だった。

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