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5-30.ダメな自分

 その日は、朝からずっと雨が降っていた。

 ねずみ色の空からしとしとと降り注ぎ、夏の余韻にじんわりと溶けこんでゆく九月半ばの雨は、いつもよりほんの少しだけ空気を重たく感じさせる。

 ただ、放課後の更にその後、カフェ『メリル』のカウンター席で二人、肩を並べて座る沙穂と楓の間に横たわっている空気の重苦しさに関しては、決して降り止まない雨の所為ばかりでは無い。

「……」

 沙穂と楓は店に入ってからずっと、互いにほとんど言葉を交わす事も無く、唯々重苦しい空気の中もうかれこれ一時間近くは過ごしている。そしてそれは、何も今日に限った話では無い。遥が賢治との一件で塞ぎ込んでしまって以来、二人は学校が終わると、ほぼ毎日の様にこんな時間を過ごしていた。

「……」

 遥が塞ぎ込んでしまったのと頃合いを同じくして、文化祭の準備が本格的に始まってしまった事も二人にとっては逆風だったと言えるだろう。

 何故ならば文化祭の準備は、普段なら沙穂と楓が遥と最も密に過ごせる放課後の時間を利用して行われるからだ。

 只でさえ、遥の抱えている問題の大きさに成す術がなく、日々無力感に苛まれている沙穂と楓にとってこれがどれ程の痛手だった事か。

 何もできないならばならばせめて、少しでも多くその痛みや苦しみを分かち合えるように、少しでも長く遥と一緒に居たい。それなのに今は、文化祭の準備に参加しなければならない所為で其れすらも難しいのだから、これを逆風と言わずして何と言おう。

 無論、沙穂と楓の心情としては、放課後の更にその後であろうとも、許されるのならば、いつまでだって遥の傍についていたいと、そう思っていた。

 だがしかし、二人が実際にはそれをしなかったのは、他でもない遥がそれを望まなかったからだ。

 曰く、「あんまり遅くなると賢治が心配して迎えに来ちゃうから」と。

 そう言われてしまっては、二人が遥を引き留められた道理などどこにもありはしない。賢治との事でふさぎ込んでいる今の遥にとって、それがどれほど望まざる事態であるかなんて、考えてみるまでも無かったのだから。

 だから沙穂と楓は遥と一緒に居られない代わりに、このところは学校が終わるとこうして二人だけでただただ無為な時間を過ごしている。

 遥の事を想いながら。そして、自らの無力を噛みしめながら。

 今日も二人は、どれほどそうしていただろうか。

「…カナちゃん」

 ほとんど口をつけないまま氷がすっかり溶けてしまったアイスココアのカップを虚ろに眺めながら、長い沈黙を破ってポツリとそう呟いたのは楓だった。

「……」

 沙穂が何も応えずにいると、楓はアイスココアのカップから視線を外し、その脇に置いてあった自身のスマホに触れて、その画面をチラリと見やる。

「…えっ…と…、カナちゃんは、今ごろもう…お家についてる…よね?」

 それは、楓が本当に訊ねたかった事では無かった。沈黙に耐えかねて、他愛のない世間話がしたかった訳でも勿論ない。

「…とっくでしょ」

 沙穂の言う通り、確かに遥はもう『とっく』に自宅へと帰り着いているだろう。

 学校近くのバス亭で遥を見送ったのは、今からもう一時間近くも前の事で、楓はたった今、その時間経過をスマホの待ち受け画面から読み取ったばかりだ。だからそれは、やはり楓が本当に訊ねたかった事なんかではなかった。

「そう…だよね…、そう…なんだけどね…」

 普段なら、行間を読んでくれる沙穂のそっけなかった返答から、その辛い気持ちをありありと感じ取れてしまった楓は、それ以上何も訊ねられなくなって、後はもう今までもそうだった様に、唯々項垂れるばかりだ。

「……」

 俯くばかりの視界には、氷の溶け切ったアイスココアのカップと、スリープモードに入ってしまった真っ暗なスマホの画面。

 本当は、そのスマホを使って、遥に何かメッセージを送りたかったから、その内容を一緒に考えようと、楓は沙穂にそんな提案をしたかった。

 勿論それは、何も、自分だけでは遥を上手く気遣った『巧みなメッセージ』を考えられる自信が無かったからではない。

 そもそも楓は、送る内容それ自体は、別に何だって良いと、そう思っていた。

 ほんの些細な事や、ものすごく下らない事や、極端な話、ちょっとおもしろいスタンプだって良い。最終的にどのような内容にするのかなんて事よりも、それを沙穂と二人で考える事の方が楓にとっては重要だった。

 二人で考えたメッセージならば、どんな内容であろうとも、遥にはきっと気持ちが伝わるはずだったから。そして何より、それを見た遥がもしも何らかの反応をも示してくれたとしたら、それはきっと自分達にとって、とても大切な『証明』になる筈だったから。

 だから楓は、沙穂と二人で、遥に送るメッセージを考えたかった。隣で俯いている沙穂に、そして何より今にも挫けそうになっている自分に、例え無力でも、例え出来る事が何一つなくとも、『遥の友達』でいることはできるのだと、それを『証明』する為に。

「……ワタシ…ダメだな…」

 またしばしの沈黙を経てから、楓が再び口を開いてまず呟いたそれは、どちらかというと独白に近かっただろうか。

「……なにがよ」

 今度もやはりそっけなかった沙穂の返答からは、依然としてその辛い気持ちが痛い程に伝わって来て、ともすれば楓は再び口をつぐみそうにもなる。

 ただ楓は、沙穂の気持ちが痛い程に伝わってきたからこそ、今度は自身の気持ちを奮い立たせて、これまで俯かせるばかりだった顔をも上げた。

「ヒナちゃん、ワタシ…っ!」

 沙穂に、伝えたい。伝えたい事がある。いや、伝えなければいけない事がある。

 楓は元来、それほど言葉が巧みではない。それでも、今ここで言わなければ、今ここで伝えなければと、そんな想いに推されて、たどたどしく、けれども精一杯に言葉を紡いだ。

「わ、ワタシ…、ワタシね! 人見知り…だし、頭も、要領も、悪くて、おまけに、オタク…だし…、すごくダメな子だって、自分でも…、そう、思うよ…」

 その言葉は、楓自身でも驚くほどに拙くて、おそらく沙穂は、一体何の話がはじまったのか、サッパリだっただろう。ただ、それでも楓はその拙い言葉で、精一杯にありったけの想いを綴ってゆく。

「だから…ワタシは今まで…いろんなことを、『どうせワタシなんかが』って…そんなふうに、いっぱい、いっぱい諦めて来たよ…」

 急にこんな話をされても、沙穂は困ってしまうかもしれない。そう思いながらも、楓は溢れ出るままに、想いを全て言葉へと変えてゆく。

「…入学式の日に、ヒナちゃんと、か、カナちゃんに話しかけた時だって…、ワタシ、本当は…最初から、あ、諦めてたの…!」

 話の道筋や、脈絡なんて、もう関係なかった。楓はただただ想いを伝えたい一心で、そんな事までは、考えていられなかったから。

「ど、どうせ、ワタシは、ダメだから…、ダメなワタシだから…、どうせダメだって…」

 楓はあの日の事を、今でもはっきりと思い出せる。あのとき楓が遥と沙穂に声を掛けたのは、高校生活そのものに早めの諦めをつけたかったからだ。

 方や超絶美少女。片や派手目のギャル。そんな遥と沙穂は、明らかに住む世界の違う住人で、だからこそ楓は二人に声を掛けた。夢や希望なんてものをいたずらに抱いてしまう前に、いっそ現実を思い知って、早めに諦めをつけられれば、それ以上はもう無暗に傷付いたりすることは無い筈だと、そんな風に思ったからだ。

 けれどもその結果はどうだっただろうか。その高校生活は、果たしてどうなっただろうか。

「…ワタシは、諦めてたのに…、それなのに…、ヒナちゃんと、カナちゃんは、すごく、すごく、優しくて、ワタシなんかの話も、ちゃんと聞いてくれて…!」

 そんな沙穂にだからこそ伝わるはず。楓はそう信じて、その想いを全て言葉に乗せる。

「だ、だからワタシ…! ワタシ自身は…やっぱり、ダメかもしれないけど…! でも、それでも、そんなワタシでも、今は一つだけ…、どうしても諦めたくない事があるの!」

 そこまで、一息に捲し立てた楓は、溢れすぎる想いのあまり、いつしか自身でも気付かない内にポロポロと涙をこぼしていた。

「ミナ…、あんた…」

 きっと、想いは伝わっている。沙穂はまだ俯いたままで、表情を読み取ることはできないけれども、その声は、確かに震えていたのだから。

「だからヒナちゃん、ワタシ! ワタシは、諦めたくないよ! 何があっても! だってワタシはカナちゃんの友達だから! それだけはいつだって胸を張っていたいから!」

 その言葉は、やはりとても拙くて、要点だってまるで纏まってはいなかった。

 これがもし、国語科目の発表論文だったとすれば、間違いなく赤点は免れなかっただろう。ただ、それを採点するのが沙穂であったなら、楓の言葉は、その想いは、間違いなく百点満点だった。

「……ミナ」

 楓の想いを聞き届けて、ゆっくりと面を上げた沙穂の瞳が涙でキラキラと揺らいで見えたのは、きっと気の所為なんかではない。

「…あたしも、そうだ…、あたしだって、そうだ…!」

 想いは、伝わった。伝わっていた。伝わったからこそ沙穂は顔を上げて、伝わったからこそその瞳はキラキラと揺らぐのだ。

「あたしも…諦めたくない…! あたしも、カナの友達だって胸を張っていたい!」

 そう共感してくれた沙穂は、辛い気持ちをまだ幾らもその内に抱えていたに違いない。

 それでも沙穂はもうその顔を上げて、今ではしっかりと前を向いてくれている。

「ミナ…、もう一度、二人で考えてみよう、あたしたちがカナの為に出来ること」

 無論、沙穂が前向きになってくれたからといって、遥が直面している問題それ自体に対処のしようが無いという現実には変わりがないだろう。ただそれでも沙穂は、「二人で考えてみよう」と、そう言ってくれた。楓にとって、その言葉がどれ程嬉しかった事か。

「ヒナちゃん…、ワタシ、ワタシ…うぇえええ…」

 残酷で不条理な現実には、時として、気持ちだけではどうにもならない事がある。

 それでも諦めたくない。遥は友達だから。だから二人は再び前を向く。

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