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5-27.愛と呪い

 それは、かつて遥の『夢』であり、『希望』でもあった。

 いや、もしかしたら、それは今でもまだそうで有り続けていたのかもしれない。

 確かに遥は、在りし日を境に、想いの在り方を変えて、今ではそれを『夢』とは呼ばなくなっていた。

 確かに遥は、新しい恋だって見つけて、かつては『希望』だったそれも今では胸の奥深くにしまい込んでいる。

 ただ、どれだけ在り方を変えようとも、どれだけ胸の奥深くへしまいこもうとも、遥は『想い』そのものを無くしてしまった訳ではなかったのだ。

 だからその『想い』は今、再び花となって、胸の内で幹を成す大樹の枝先でかつての様に爛漫と咲き誇りもする。それは確かに、遥の『夢』であり、『希望』だったから。

 けれども遥は、知らなかった。

「…どうして」

 その愛らしい大きな瞳からこぼれ落ちて、一筋頬を伝っていったものは、決して幸せの涙なんかではない。

「ハルだからだ」

 淀みのない言葉。そこに込められた強い想い。

 これも、遥は知らなかった。遥の知らない賢治だった。

 だってそうだ。遥の良く知っている賢治は、『奏遥』を愛してくれることなんて、決して無い筈なのだから。そんな事があるとするならば、それこそ遥がずっと追い求めて来た『夢』が現実になった時だけなのだから。

「ボクが…女の子…だから? 女の子になった…から…?」

 その問い掛けは、遥にとって、最後に残された一欠けらの『希望』だった。

 その問い掛けに、賢治が「そうだ」と答えてくれたのなら、もしかしたら遥は再び咲き誇った『想い』に身をゆだねる事だって出来たかもしれない。

 ただ、現実は、いつだって、夢とは正反対で、恐ろしいまでに残酷だ。

「……いや、そうじゃない」

 僅かな逡巡を経て、告げられた否定。その瞬間に、遥の足元は大きく揺らぎ、賢治が抱き締めてくれていなかったら、最早立っている事さえできなかっただろう。

「ハルが、ハルだからだ」

 自分が自分であるが故に。まるで、哲学の問題提起の様だったその道理は、遥の理解できる範疇を大きく超えていた。否、遥は賢治の言わんとしていることそれ自体を理解できなかった訳ではない。寧ろ遥は、賢治の言わんとしている事を理解できてしまったからこそ、それを道理としては上手く呑み込む事ができなかったのだ。

 それもそのはず。遥にとってそれは、つい先刻まで散々頭を悩ませていた理由の分からなかった賢治の抱擁なんかよりもよっぽど受け入れがたい事柄だったのだから。

「そんな…だ、だって…そんなことって…」

 遥は今まで、自分が『奏遥』という存在であればあるほど、その『夢』は叶いがたいものだと、そう信じてきた。賢治とは十六年間もの間、幼馴染で、親友で、そして何より、『男同士』だったのだから、遥にとってはそれが当然の道理だったのだ。

 しかもそれは、何も遥の勝手な思い込みなんかでは決してない。何しろ遥は、女の子になってまだ間もなかった頃に、「男同士だから」と賢治から直にそう言われているのだ。

 だから遥は、幼馴染で親友の『奏遥』ではなく、『女の子』としての『奏遥』を認めてもらわなければ、『夢』は叶えられないと、今までそう信じ切ってきた。

 だから遥は、想いの在り方を変えるまでは、『女の子』の自分を賢治に見てもらおうと、あれこれと頑張ったりもしてきたのだ。

 それなのに賢治は、自分が女の子だからで無く、『奏遥』であるからこそ、その感情に辿り着いたのだと、そう言った。

 そんな事を言う賢治を、遥は知らなかった。

 だから遥には、理解できなかった。

「どう…して…」

 再度繰り返されたそれは、半ば当て所ない呟きではあったが、賢治はそれに応えてゆっくりと噛みしめる様に語りだす。女の子としての遥では無く、幼馴染であり、親友でもある有りのままの遥を愛したその訳を。

「俺は…、ハルが事故に遭ったあの日から、ずっとハルの事ばかりを想ってきた…」

 これは、この賢治ならば、遥も知ってる。

 無論、遥は実際にそれを目の当たりにした訳ではない。そのころ遥は身体を失っていたのだから、それは仕方の無い事だろう。ただ遥はこの半年余りで、その三年間がどのようなものであったか、その想いがどのようなものであったのか、それを容易に想像ができる程、その一端を数多く目の当たりにしてきている。

 ただ、それだけに、遥は尚のこと理解できなかった。

 賢治はかつて、その日々を「悪夢の様だった」と、そう語っている。そして遥は、その悪夢が未だ完全には拭い去れていない事だってもう十二分に知っている。当時の記憶に苛まれて苦しむ賢治の姿を、遥は実際にその目で何度となく見て来たのだから。

 だからこそ、遥は『想い』を持ち続けながらも、自身の『夢』と『希望』を諦めようとした。自分の所為で、悪夢のような三年間を過ごした賢治が、未だその残滓に苛まれている事を知ってしまったから。

 何より、在りし日の夜に、遥は確かに垣間見たのだから。あの事故が無ければ、賢治にはあった筈の当たり前の日常と幸せの面影を。

 だから遥は、自身の『夢』と『希望』を諦めて、今はただ賢治の幸せだけを何よりも強く願っている。

 それなに、何故。どうして賢治は、取り戻せるはずの幸せな『未来』よりも、手放すべき辛い『過去』の象徴ですらあるはずの自分なんかを選んでしまったのか。

 遥には、もう何一つ分からなかった。

「当時の事を思い出すと、俺は…今でも気が変になりそうだよ…」

 そう言った賢治の声が震えて聞こえたのは、きっと遥の気の所為なんかではない。

 ならばやはり、こんな事は、絶対に間違っている。遥は、心の底から、高らかにそう叫びたかった。けれども賢治は、そんな遥を決して放そうとはせず、寧ろその小さな身体を一層力強く抱き締める。

「だから俺は、その時にはもう…ハルの事が愛しくてたまらなかったんだ…」

 遥の兄、辰巳は、それを「想いが振り切れている」と、そう表現した。

 無論、賢治と辰巳の間でそんな話が交わされていた事だって、遥は知りもしない。ただ、それでも遥には、一つだけハッキリと分った事がある。

「あ…ぅ…」

 賢治のそれは、言葉にすれば、確かに『愛』だったのかもしれない。

 だがしかし、遥はその『想い』をこう呼ばずにはいられなかった。

 それは、『呪い』だと。

「こんなの…こんなことって…」

 賢治には、ただ幸せになって欲しいのに。その為なら、自分は『夢』や『希望』だって諦められるのに。それなのに賢治は、今も尚、あの事故で消えた『奏遥』の陰に縛られたまま、悪夢の中を彷徨い続けている。

「うっ…うぅ…」

 自分の所為で、賢治の想いを呪いにまで変えてしまった。そんなやり切れない気持ちが溢れかえって、遥の心は今にも潰れそうになる。

「すまない…こんな事、急に言われたって困るよな…」

 違う。賢治は何も悪くない。謝らなければならないのは、自分の方だ。

 そう訴えたくとも、遥には最早、それもできはしなかった。今ここで何らかの想いを口にすれば、それすらも『呪い』になってしまいそうだったから。

「ハルはもう、青羽と両想いなのにな…」

 それも違う。今こんなにも胸が苦しいのは、その所為なんかでは決してない。

 確かに青羽の事が好きで、青羽も好きだと言ってくれている。確かにその一方で、賢治への想いを捨てきれずにいる優柔不断な自分に自己嫌悪した事だって何度となくあった。

 ただ、そんな事で悩む必要なんてもうどこにも無いのだ。賢治が未だ手放すべき過去の『呪い』にとらわれているのならば、青羽との『恋』も最早ここまでなのだから。

「うっ…ぐっ…」

 女の子として、初めて見つけた『恋』をこんな形で終わらせてしまって、そこに未練がないと言えば勿論それは嘘になる。けれど、賢治が幸せな未来を手に入れられないのなら、遥はもう自分だけ甘い恋に溺れている事なんてできはしない。

「ほんとうに、すまない…、けど俺は、もう自分に嘘をつかないと決めたんだ…」

 その決意を示す様に、抱き締める賢治の両の腕はどこまでも力強く、遥はそれが余計に辛かった。

「なんで…どうして…っ!」

 その疑問に本当の意味で答えられるものなんて、きっとどこにもいやしない。

「俺は、ハルをもう、二度と失いたくないんだ…! だからハル…!」

 今一度告げられようとしているその言葉が、そこに込められる想いが、遥はもう恐ろしくて堪らなかった。

 確かにそれはかつて、『夢』であり、『希望』だったかもしれない。

 確かにそれは、今でもまだそうで有り続けているのかもしれない。

 だがそれは、最早叶えてはいけない『呪い』であり、すがってはいけない『絶望』だった。

 けれどもどうしてだろうか。こんなにも胸が苦しいのに、こんなにもやり切れない気持ちなのに、それでも想いの花は、未だ大樹の枝先で爛漫と咲き誇っている。

「愛してる…愛してるんだ!」

 再び告げられた想いと共に、花たちは、より美しく、ひときわ鮮やかに、一層爛漫と咲き乱れる。

「うっ…あぁ…あぁぁ…っ!」

 遥は知らなかった。

 咲き乱れる想いと共に溢れ出るその感情を何と呼べばいいのかを。

「誰にも渡さない、誰にも渡したくない…!」

 賢治がそう望むなら、遥はいつまでだってその傍に居続けるだろう。

 それが『呪い』だからか。それが償いだからか。

 否、違う。そうではない。それを『呪い』だというのなら、想いはこんなにも美しく、こんなにも鮮やかに咲き乱れたりはしない。

 ただ、遥は知らなかった。

 賢治の幸せを願ったのも、賢治の『愛』を『呪い』だと感じたのも、今その内で『想い』が咲き乱れるのも、全ては同じ感情に根差している事を。

「ハル、好きだ、愛してる…!」

 重ねられた賢治の想いが、遥の心に呼び名の分からない感情の嵐を巻き起こす。

「あぁぁぁ…!」

 感情と共に、その大きな瞳から止めどなく溢れ出れたのは、決して幸せの涙なんかでは無い。けれども、胸の内で吹き荒れる感情と共に、乱れ舞う花達のなんと美しい事か。

「あぁぁぁぁ…!」

 遥は知らなかった。それもまた、『愛』と呼ぶべき感情であった事を。

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