5-25.損得勘定
遥が青羽と改めての想いを伝えあったり、そのあと気恥ずかしさから堪らずの悶絶をしていたりしていた頃、賢治はというと、その姿は駅前のカフェ『メリル』にあった。
それもちょうど今の今、カウンターで受け取ったばかりのカップを持って席に向かおうとしていた処だったが、空席も数ある中、先客のいるボックス席に真っ直ぐ歩を進めていったのは果たして何故なのか。
「戻ったか…、それでは先ほどの続きだがな、やはりお前にしては中々に思い切った事をしたと俺は思うぞ」
賢治が席にやってきたのを見計らって、キラリと光る眼鏡の奥で少しばかり気難しい面持ちを垣間見せていたこの人物は、大学の夏休みが終わる九月中旬までの予定で未だ地元に留まっていた亮介だった。
道理で賢治は真っ直ぐにその席へ向かった訳だが、それに加えて亮介の言い様から、二人がつい今さっきこの店に入った訳では無いらしい事も窺い知れる。
「思い切った事…か…」
亮介の対面にどっかりと腰を下ろした賢治は、実のところこれで通算三杯目だったエスプレッソを一口すすると、少しばかりの間を取って小さく息を吐いた。
「……そう…なのかもな」
逡巡の末に至った曖昧な肯定。それは、賢治がこの議題を自身の中で上手く咀嚼できていない事の現れだろうか。
「かも、ではなく、間違いなくそうだ」
対する亮介の方は、半ば以上の確信があるのか、かなり断定的な物言いをして、中指と人差し指で押し上げた眼鏡ばかりでなく、その奥にある瞳をも怪しく光らせる。
「大体、青羽少年に対する宣戦布告からして相当に思い切りが良い」
つい数時間前に、賢治自身が成し遂げていたその出来事は、こうして他者の口から客観的に語られると、確かに「思い切った事」だった様に思えないでも無い。
「そうか…まぁ、そうなるか…」
因みに、どうして亮介がその話を知っていたかというと、それはもちろん賢治が打ち明けたからであるがさて、そうなって来るとここで幾つかの問題が持ち上がる。
まず、「今日で無ければダメな野暮用」が有ると言って出かけた賢治が、どうして亮介なんかと会って、そのうえ近状報告までしてしまっているのか。
仮に、賢治が「野暮用」に当たっている際か、またはそれを済ませた後に亮介とバッタリ遭遇し、「少しばかり話でも」という流れになったとしよう。
亮介とは中学からの付き合いで、幼馴染の遥ほどではないにしろ、気の置けない仲というヤツである為、普段の賢治ならそれは至って自然な流れではあったかもしれない。特に、亮介は遠方の大学に通っている関係上、夏休みを利用して帰省している今時期を逃すと次はいつ会えるか分からないという点をも考慮に入れれば殊更だ。
また、亮介は適度にドライで合理的な性格の持ち主でもある為、今回の様なプライベートでデリケートな出来事を共有してもらう相手としては適役でもあったのだろう。
それらの観点から、賢治が今回の「宣戦布告」に纏わる一連の彼是を亮介に打ち明けていた事それ自体は何ら不自然の無い話ではあったのだろうがしかし、ここで今一度思い返してみて欲しい。
賢治は遥が留まって欲しそうにしているのを承知していながら、それを半ば強引に押し切る形で出掛けて来ているのだ。更に言えば賢治はその際、遥を説得する材料として、「用が済んだらすぐ戻る」と宣言してもいた。
であれば賢治は、「野暮用」が既に済んでいるとするのなら、例え亮介が会える機会の限られているレアな友人であったとしても、例えプライベートでデリケートな出来事を共有してもらいやすい相手だったとしても、今日ばかりはこんなところで悠長に話し込んでいる場合ではなく、一分一秒でも早く遥の元へと戻るべきなのだ。
実際、賢治はこうしている今だって、テーブルの上に置いたスマホを頻繁に見やるくらいには時間が気になっている様子で、青羽と二人きりにしてきた遥の事が気掛かりでしょうがないのが傍から見て丸分かりである。にも拘らず、何故、賢治はさっさと遥の元へ戻ろうとしないのか。何故、今日に限って、エスプレッソを三杯もお代りする程の時間を亮介なんかに割いているか。その答えは、賢治の「思い切り」について引き続き語っていた亮介が述べた次の様な見解から読み取る事ができた。
「それにな、俺が何よりも思い切ったと思うのは、お前が宣戦布告をした上でわざわざ青羽少年にチャンスをくれてやった事だ」
そう、つまりはそういう事なのである。亮介が心底感心した様子で述べたこれこそ、賢治が遥の元へと戻らずこうして今この場に留まっている理由に他ならなかった。
要するに賢治の「野暮用」とは、遥と青羽を二人きりにする為にあの場から離脱することそれ自体であり、であれば、こうして時間をつぶしている今現在も賢治は大絶賛その真っ最中という事になる。加えてあと一つ補足があるとすればそれは、亮介がこの場に居合わせている理由についてだが、それに関してはとても単純な話だ。遥と青羽を二人きりにしておく間、特にやる事も無かった賢治が少しでも有意義な時間を過ごせないものかと考えた末に思い付いたのが亮介との対話だったのである。そこで賢治が亮介と同等に気の置けない仲である淳也や光彦を選ばなかった理由はまた単純で、双方ともプライベートでデリケートな打ち明け話をするには性格的に不向きである事を良く知っていたからだ。
そんなこんなで、幸いにも二つ返事で呼び出しに応じてくれた亮介とこうしてそれなりに有意義な油を売っている賢治であるが、最後にもう一つだけ明らかにしておかなければならない問題がある。それは、賢治がそうするに至った動機、つまり亮介の言葉を借りれば、何故わざわざ青羽にチャンスをくれてやったのかという点だ。
遥を諦めないと、そう宣言した賢治からすれば、遥と青羽が二人きりになる様な状況は可能な限り避けたい筈である。その証拠に賢治は当初、両想いである処の二人の仲を邪魔する気満々と言った感じで、青羽の反対側から遥の横にピッタリと付いていた。
それが今は、自分から遥と青羽が二人きりになれる様に仕向けて、自身は亮介を相手取って呑気に、ではないかもしれないがコーヒーブレイクと洒落込んでいる。
「しかし分からんな、お前の事だから高度な心理戦って訳じゃないんだろうが…」
さしもの亮介も賢治の行動理念までは図りかねている様で、これには腕組みをしながら殊更の気難しい顔だ。それでも「心理戦」という選択肢を端から除外している辺りは流石、付き合いが長いだけあって賢治の人となりを良く分かっている。
「…まぁ、そうだな」
実際、心理戦なんて回りくどい作戦は、それこそ亮介あたりが好みそうなやり口で、謹厳実直を地でゆき質実剛健を絵に描いた様な賢治の方法論では無かった。
無論、初心で奥手な遥と青羽の事であるからして、賢治の行動が図らずもある種の心理戦的な効果をもたらしてまった可能性は無きにしも非らずだが、それはあくまでも結果論でしか無い。
「何故だ? どうしてお前は敵に塩を送る様な真似をした? そんな事をしてお前に何の得がある?」
そろそろしびれを切らしたのか、亮介が単刀直入な問いを投げ掛けてくると、賢治はその答えを直ぐには明らかにせず、エスプレッソをまた一口すすってどこか遠い目をした。
「…得…か」
遥と青羽を二人きりにする事で、自分にもたらされるメリットは何なのか。実のところ賢治は、その問いに対する正しい答えを持ち合わせてはいなかった。それもその筈、そもそも賢治は、端っから「損得勘定」などでは動いていなかったのだから。
「まぁ、得なんてものは、別にないだろうな…」
よくよく考えてみれば、もしかしたら賢治には何か得られる物があったのかもしれない。ただ、この時点では特に思いつくものも無かった賢治はそう答えるしかなかったのは仕方が無い事だとしても、こうなって来ると当然ながらそれを受けた亮介は益々の気難しい顔である。
「ふぅむ…、余計に分からんな…」
これといった「得」が有る訳でもないのに、青羽にチャンスを与えた賢治。合理主義者である亮介からすれば、それは相当に理解し難い事柄だったに違いない。それを物語る様にその面持ちは、そろそろ気難しいを通り越して険しくもなり始めてていたが、賢治はそんな亮介を見て、嘆息交じりの小さな苦笑を洩らした。
「はは、お前が推論も立てられないなんて珍しいな」
賢治は亮介にそんな茶々を入れながら、テーブルの上に置いてあるスマホをチラリと見やって、必然に今ごろも青羽と二人きりで自宅に居るだろう遥への想いを募らせる。
幼馴染で、無二の親友。誰よりも大切で、何ものにも代えがたい絶対の存在。
遥が居なかった三年間は、まるで悪夢の様だった。
だからきっと、在りし日に偉大なる兄貴分が言っていた通り、遥を愛おしく想う気持ちはその頃から既にあったのだ。それなのに、かつては男同士だったからと、持ち前の生真面目さや、常識的観念が邪魔になって手をこまねいている内に、青羽というライバルが現れてしまい、あまつさえ青羽が遥と両想いになる手助けすらしてしまった。
無論それは、遥の幸せを第一に考えた上でのやむを得ない選択ではあったのだが、そこにまったく後悔が無いと言えばそれはやはり嘘だろう。
ただそれでも、遥が青羽と両想いになってしまった以上、この想いは最早胸の内にしまい込むしかないと、そんな風に半ば諦めかけていた。
だがしかし、それも今や昔。今はもう、遥を諦めるつもり何て無い。過ぎ去りし夏の終わりに、妹分の真梨香が諭してくれたおかげで気付いたのだから。大人ぶって自分の気持ちを嘘で覆い隠す必要など、どこにも有りはしないのだと。
もしかしたらそれは、都合のいい拡大解釈なのかもしれない。けれどももう決めたのだ。もう自分に嘘をつかない。もう遥を諦めたりはしない。青羽に宣戦布告だってした。それでもまだどこ足りていなかった覚悟だって、今はもう十二分にある。だから、だからこそだ。
「別に、難しい話じゃないさ」
そう、難しいことは何一つない。合理主義者である亮介には分からないかもしれないが、とても簡単な理屈なのだ。
「俺はただ、覚悟を決めたからには、下手な小細工やせこい真似なんかは止めにして、正々堂々青羽とやり合うべきだと、そう思っただけなんだ」
それは、明らかになってしまえば何の事は無い。極めて単純明快な、実に賢治らしい実直にも程がある答えだった。両想いである二人の仲を邪魔するのではなく、自分は自分で真っ向からぶつかって、その上で遥に振り向いてもらわなければ嘘だと、賢治は持ち前の生真面目さからそんなふうに考えたのだ。
「成程な…、なんと言うか、全くお前は不器用な上に暑苦しい男だよ…」
一応の納得がいったらしい亮介は、皮肉一杯に呆れ顔すら見せていたが、元より共感してもらえるとも思っていなかった賢治はわずかばかりの苦笑を返すにとどまって、カップにまだ半分ほどは残っていたエスプレッソを一気に飲み干して席を立った。
「む…? もう行くのか?」
涼介の共感はえらずとも納得はしてもらえたこのタイミングは、確かに話を切り上げるには丁度よく、賢治としても出来ればそうしたいという気持ちは勿論ある。青羽と正々堂々やり合うとはいっても、なんだかんだでやっぱり遥の事が気掛かりではあるのだ。
ただ、このとき時計の針はまだ三時を少し回った頃合いで、賢治が出かけ際に予告してきた夕方にはま若干届か無いとても微妙な時間帯である。となれば賢治としては、遥の元へ早く戻りたい気持ちをグッと堪えて、ここはもうしばらくこの無為で有意義な時間を継続するしかなかった。
「悪いが亮介、もう少し付き合ってもらうぞ」
涼介はこれにあからさまな呆れ顔を見せたが異議を唱えてくることはなく、それを認めた賢治は、通算四杯目になるエスプレッソを調達するためにカウンターへと向かってゆく。
結局、賢治が頃合いだと思えるまでには、更に追加で三杯のエスプレッソを必要とし、亮介をまた違った意味で大いに呆れさせたのだが、そのあたりは完全なる余談だ。




