5-23.願いと束縛
遥を「諦めない」為の覚悟と意気込みを改にした賢治は、本音を言えば直ぐにでも攻勢へと転じたかったに違いない。
何しろ、ライバルたる青羽が遥と既に「両想い」であるのに対して、賢治は「片思い」の「横恋慕」状態で明確に後れを取っている恰好なのだ。
一応、遥と青羽の関係性が諸々の事情によって、「クラスメイト」ないしは「友達」のまま据え置かれている為、その後れはまだ完全にクリティカルなものにはなっていないが、だからと言って楽観的になれるほど賢治はおめでたい性格をしていない。
それだけに、賢治が丁度気持ちも乗っているこのタイミングで、早期の巻き返しを図るべく早々の攻勢に出たとしてもそれは何ら不自然の無い話だっただろう。
ただ、賢治が実際に取ったその後の方針はといえば、攻勢に出て巻き返しを図るどころか、それとは真逆の敵に塩を送るにも等しい全くの裏目とも思えるものだった。
「ハル、もう大丈夫そうか? それとも、まだダメそうか?」
遥は一瞬、それが何の事なのか分からずにキョトンとしてしまったが、その横で何やらビクッと身震いしていた青羽だけは、もしかしたらこの時点ですでに賢治の思惑に薄々勘付きつつあったのかもしれない。
「えっとぉ…、何のこと?」
少し考えてみた結果、今一思い至るものの無かった遥が素直に問い返してみると、賢治は薄っすらとした笑みを浮かべながら、奥で若干青い顔をしている青羽の方を視線と顎の動きで指し示した。
「青羽の事な」
賢治からの返答は若干言葉足らずではあったものの、それだけでも遥の理解が及ぶには過不足無い。
「あっ、あー…」
要するに賢治は、青羽と相対する事の気負いが解消されたかどうかを尋ねて来ていた訳だが、これに対する遥の回答は少しばかり難しかった。
「う、うーん…」
青羽の「ウサギ」発言をきっかけに、遥の気持ちは確かに大分楽になってはいたし、そのおかげで今はもう他愛のないバカ話で盛り上がれる程度の精神的余裕もある。がしかし、それで直ぐに気負いが解消されたものと見なせないところが遥の遥たる所以で、今はただ単に気が紛れているだけなのではなかろうかと、持ち前のネガティブ思考からそんな風に思わないでも無いのだ。
「どう…なのかな…?」
結局、思考の上だけでは今一つはっきりとした答えの出せなかった遥は、それならば実際に確かめてみようと青羽の方に向き直る。
「か、奏さん…?」
対する青羽は表情を僅かに引きつらせて些かの動揺を隠し得ない様子であったが、遥は構わずにその瞳をジッと覗き込んだ。
「んー…?」
青羽をマジマジと見つめてみた率直な感想は「良く分からない」で、遥はそれならば文字通り自分の胸に聞いてみようと、小さな両手を自身の胸元へと押し当てる。
「うーん…?」
その起伏に乏しい平坦な胸の奥で脈を打つ心臓の鼓動は、ちょっと速い様な気がしないでも無いが、平常運転の範囲内である様な気がしないでも無い。つまり、自分の胸に聞いてみた結果、遥に分かった事は、結局のところ「良く分からない」だった。
「むぅー…?」
分からないなら分かるまで追求すべしとばかりに、遥は引き続き、事の是非を推し量ろうと、それこそ穴が開くほどに青羽を凝視して、いつしか結構な前のめり気味にもなる。一つの事が気になりだすと他の事が意識の外になってしまうのは遥の悪い癖で、こうなると獲物を待ち伏せするネコ科の動物くらいの粘り強さを見せたりもするが、そこまでの辛抱強さを持ち合わせていなかったのがそう、青羽の方だった。
「か、奏さんストップ!」
只でさえ愛らしい遥が小首を傾げさせた上目遣いで結構な至近距離から見つめてくるのだから、それはもう青羽が咄嗟の制止を掛けてしまったのも無理の無い話であろう。
「奏さん、そんなに…見られると…、なんていうか…その…は、ハズイ…よ…」
咄嗟の制止を掛けた後、青羽が何とも気まずそうな面持ちで、目を逸らしながらしどろもどろに物申すと、流石の遥も我に返って思いの外近くなっていた顔と顔の距離に今更ながらかなりギョッとなった。
「にゃわっ!? ご、ご、ごめんっ…!」
大慌てで青羽との距離をとって適切なクリアランスを確保した遥であるが、時既にその顔が耳たぶまで真っ赤だった事は言うまでも無い。
「何やってんだか…」
一連のやり取りを静観していた賢治も、このある種ベタに過ぎる展開には些かの呆れ顔である。
「ったく…、その様子じゃ、またダメそうか…?」
最初に問い掛けてきた時は「まだ」だった副詞をここでは「また」と言い換えてきている当たり賢治は実に良く分かっているが、それだけに遥としては返す言葉も無い。
「あぅ…」
賢治の言う通り、遥はほんの数十秒前まで青羽をジッと見つめていられたのが嘘のように、今ではもう完全に青羽を意識しまくって元通りモジモジソワソワするばかりだ。
「は、ははは…」
青羽は青羽で、今は大変に気まずそうな顔で乾いた笑いを洩らすばかりである。
「ふぅむ、しかし困ったな…」
それについては完全に同意しかなかった遥はコクコクと頻りに頷きを見せるがしかし、賢治が続けて口にした発言に関しては全くもってその限りでは無かった。
「ちと野暮用があって、少しばかり出なきゃなんだが…」
それは、遥と青羽にとって、耳を疑うような発言で、二人が思わず「えっ!」という驚きの声をハモらせてしまったのは言うまでも無い。
「ちょっ、えぇ!?」
「け、賢治さん!?」
一体、賢治のいう「野暮用」が何なのかは、もちろん遥と青羽には分からなかった。分からなかったがしかし、その一方で遥と青羽にはハッキリと理解できていた事がある。
「出るって、出掛けるって事!?」
「野暮用って、今からですか!?」
遥と青羽は二人揃って大慌てであるが、それも無理からぬ話だ。遥にしろ青羽にしろ、今このタイミングで賢治に出て行かれては、それこそ困った事になってしまう確率がほぼ100%なのだ。
遥に限って言えば、賢治が居たら居たで、それもまた先刻までの様にかなり困ったりもするのだが、今の状態で青羽と二人きりにされた場合の困り様がその比で無い事は火を見るよりも明らかである。また青羽は青羽で、例え先ほどの睨めっこが無かったとしても、健全な男子高校生かつピュアボーイであるが故に、遥と二人きりになってしまう事にある種の危機感を覚えずにはいられない。
そんな具合の二人であるからして、遥と青羽が揃いも揃って大慌てしてしまったのも当然の話だったが、それに対する賢治はといえばどうだろうか。
「そうだなぁ、夕方までには戻れると思うんだがー」
遥と青羽の慌てぶりに反して、賢治はどこか白々しい位にお気楽な様子で、うっすらと笑みを湛えてすらいた。
「ゆ、夕方!?」
「そんなに掛かるんですか!?」
現在時刻は午後の二時を幾らか回ったあたり。何時からを夕方とするかは少々判断の別れる処ではあろうが、どれだけ早めに見積もってもまだ時間はたっぷりとある。その間、二人きりで過ごさねばならなくなる遥と青羽からすれば、それはもうとんでも無い事で、それだけにいよいよもって慌てずにはいられない。
「まぁそんな訳だから、悪いがそろそろ出ても良いか?」
良いかどうかで言えば、正直なところ全くもって良くなかった遥は、咄嗟に賢治の袖を掴んで、フルフルと左右に首を振りながら若干の涙目にもなってしまう。
「けんじぃ…」
普段なら、遥がこんな具合で懇願すれば、割とあっさり折れてくれる賢治なのだが、どういう訳か今日に限ってそうは問屋が卸さなかった。
「そんな顔すんなよ、用が済んだらすぐ戻るって」
そうは言われても、遥としては素直に承服出来る訳は無く、引き続きの涙目で、今一度フルフルと左右に首を振る。
「うー…」
何とかして賢治に思い留まってもらおうと、遥は必死の意思表示をするが、その割には、とてもシンプルな言葉をどうしても口に出来ないでいた。
それは、遥の中で一つ、確信があったからだ。その言葉は、そのまま「願い」になって、賢治を縛る強制力にもなってしまうと。
だから遥は、言えずにいた。「行かないで」のたった一言が。
「うぅー…!」
賢治には思い留まって欲しいが強制はしたくない。そんな複雑な想いからシンプルな一言を言えずにいる遥に出来た事といえば、こうやって態度で訴えかける事だけだ。
「賢治さん、その野暮用って、どうしても今じゃなきゃダメなんですか…? 明日とかじゃ、マズいんですか…?」
青羽のそれは、遥を見兼ねて、というよりも、賢治に留まって欲しいという自身の気持ちからなの意見具申だったのだろうが、残念ながらそれに対する返答はにべも無かった。
「あぁ、今じゃなきゃダメだ」
ここまでキッパリ言われてしまうと、青羽にはもう返せる言葉がなかったのか、「そうですか…」とだけ応えてそのままシュンとしおらしくなってしまう。そして、何もそれは青羽だけに限った話では無く、賢治の断定的な物言いは、遥にも同様の効果をもたらしていた。
「…そっか…そうだよね…、賢治にも…予定とか都合が…あるよね…」
もしかしたら、自分が泣きついた所為で、賢治は元々あった予定を先送りにした上で、ギリギリのところまで粘ってくれていたのかもしれない。そうであるならば、自分は既に、これ以上ないくらい賢治を束縛していた事になってしまう。
そんな風に考え出してしまうと、遥は持ち前のネガティブさと元来の素直さから、それ相応に聞き分けだって良くならざるを得なかった。
「賢治…あ、あの…い、行ってらっしゃい…!」
それは、もちろん遥が本当に言いたかった言葉ではない。本当は、「行かないで」と、出来る事ならばそう言いたかった。それでも遥は、これ以上賢治を束縛して困らせてしまうような自分では有りたくなかったから、涙を呑んでそう言うしかなかったのだ。
「…あぁ、それじゃぁ、行ってくる」
この時、遥はどうしたって隠し得なかった不安な面持ちを見せまいと俯いてしまっていた所為で、一つ、気付かなかった事がある。
「青羽、頼んだぞ」
そんな念を押した賢治が如何にも意味ありげにニヤリとした笑みを浮かべていた事と、それを向けられた青羽の顔がかつてない位に引きつっていた事に。




