5-22.やり場のない感情
「あのね、ボクはただ、メイド服なんか着たくないって、そう言いたかったの」
それは何とも惜しい話だ。ハルがメイド服を着たら、絶対可愛い筈なのに。
「えっ? それじゃぁ…『ウサギ』であってたんじゃ…?」
青羽、その結論は些か短絡的に過ぎやしないだろうか。メイド服の否定とバニーガールの肯定は、必ずしもイコールとは限らないだろう。
「…ぷっ…だから…それは違くって…!」
そら見た事か。おまけに、お前がまた間の抜けた事を言うもおだから、ハルもまた堪え切れずに笑い出してしまったじゃ無いか。
「あははは」
ハルが無邪気に笑っている。鈴をころがした様に、コロコロと、屈託なく笑っている。
そんなハルは、とても愛らしい。否、ハルはいつだって愛らしくて、そして愛おしいが、笑顔はまた格別だ。が、それだけに、こちとら笑えない。笑える訳が無い。
「そ、そっか、そうだよね、あ、あはは…」
青羽、そうやって、気まずそうにでも笑顔を返せる事が、どれほど程の幸福なのか、お前には分からないだろう。
「もー! 勘弁してよー!」
ハル、勘弁してほしいのはこっちの方だ。お前はさっきまで、あんなにも息苦しそうにしていたじゃないか。それなのに、どうして今はそんな風に笑うんだ。一人で青羽に会う勇気が無いと泣きついて来たのは、他でも無いお前だろう。それがどうして、今はそんな笑顔を青羽に見せるんだ。どうして、どうしてなんだ。
遥と青羽のじゃれ合いとでも言おうか、そんな一連のやり取りを横目で眺めながら、一人悶々としていたのはそう、言うまでも無く賢治だった。
「早見君って、意外と天然だよねー」
そう言って遥が楽しそうに笑えば、賢治はまた一つ、「どうして」というやり場のない気持ちを募らせる。
「そ、そうかな…そんな事ないと思うんだけど…」
少し困った顔をする青羽のそんな受け答えにも、賢治は更なる「どうして」を積み重ねて、胸の奥をキリキリと締め付けられもした。
「ぬぅ…」
遥を諦めないと啖呵を切って青羽に堂々の宣戦布告したまではいい。響子と、何より当の遥に乞われてこの場に同席できたのも追い風ではあった。だが、蓋を開けて見れば、現実はどうだ。
「絶対に天然だってー、じゃなきゃ『ウサギ』だなんて…ぷぷっ!」
尚もそれを愉快そうにクスクスと笑う遥こそ、間違いなくこの場に居る誰よりも「天然」なのだが、賢治からすればそんな事はこの際極めて些末な問題だった。
「だ、だって…、いや、っていうか! 天然っていったら奏さんの方こそそうだよ!」
賢治が問題にしなかったそれを青羽が無視できなかったのは、若さ故だろうか。
「あー! 言ったなー!」
今起こっている事を客観的に分析すれば、遥と青羽が下らない事を言い合って騒いでいるだけで、一見すれば特別にどうという事も無い。
無論、それは遥が青羽に対して「好意」を持っているからこそ成立し得ているやり取りではあったのだが、それも賢治にとっては然したる問題では無かった。と言うよりも、賢治にはそこまで繊細な心の機微を読みれる勘の良さは無く、それを見たままの他愛のないやり取りとしか捉えていなかったのだ。
尤も、例え遥の心持に気付けていたとしても、やはりそれは賢治にとって大きな問題にはなり得なかっただろう。そもそも、遥と青羽が両想いである事なんて、賢治からすれば先刻承知の上なのだ。その上で、それでも遥を諦めないと決めたのだから、どうして今更それを問題にできるだろうか。
ならば、何故。いったい何が問題なのか。
それは、そのまま、賢治の自問でもあった。
「ボクは天然じゃないし!」
そんな突っ込みどころしかない反論をしながら、遥が楽しそうな笑顔を青羽に向ければ、賢治の胸はまたキリキリ悲鳴を上げる。ともすれば、賢治は胸を締め付けるやり場のない想いそのままに、声を大にして訴えたかった。『どうして』と。
この時、賢治の内で渦巻いていた感情は、端的に言ってしまえば「嫉妬」という事にはなるのだろう。
だが、本当に其れだけだったのだろうか。そんなにも単純な話しなのだろうか。
他愛の無い事で遥に笑顔を向けてもらえる青羽を妬ましく思う気持ちは確かにある。あるがしかし、何もそれは今に始まった事では無い。振り返ってみれば、青羽に対する嫉妬心は、海に行った時にはもう既に有っただろう。そうだとすれば、幾ら青羽に宣戦布告した直後だからといって、今さら嫉妬だけでこうも心をかき乱されるだろうか。
賢治は答えを求めて、自身のパーソナリティと今も胸を締め上げるやり場のない感情を照らし合わせるが、そこから導き出せた結論は「ノー」だった。
もしかしたら賢治は、複雑に考え過ぎていただけなのかもしれない。やはりその感情はただの嫉妬で、青羽に宣戦布告した事で気持ちが昂っているとすれば、それで一応の説明はつく。
「はー…、なんかこういう感じ、ちょっと懐かしいかも」
いつの間にか天然論争はひと段落していた様で、遥が息を整えながらふとそんな事を口にした途端に、賢治はまるで、欠けていたパズルのラストピースが見つかったかの様な感覚を覚えて俄かにハッとなった。
「えっ、懐かしいって…それに、こういう感じって?」
青羽には遥の言っている事が全体的に良く分からなかった様でキョトンとしていたが、きっとそれは無理からぬ話なのだろう。
遥と青羽が知り合ってから、まだせいぜい半年余り。刹那を生きる高校生にとって、その半年余りは決して短い時間では無かっただろうし、遥と青羽の二人に限って言えば、それは相応に濃密でもあっただろう。ただ、この話に限って言えば、それだけでは圧倒的に不十分なのだ。例え、それがどれほど価値のある時間や体験だったとしても、半年余りでは、それを振り返って、懐かしんで、感傷的になるには、どうしたって早すぎるのだから。だから、青羽には分からない。だが、だからこそ賢治には、痛いほどに分かっていた。そして、それこそが胸の内に渦巻くやり場のない気持ちの答えだったのだ。
「えっと…ね、ボクって…その……女の子…でしょ?」
ちょっぴり躊躇いがちにそう言った遥に、青羽が不思議そうな面持ちで頷きを返していたのは、やはり分かっていなかったからだ。もしかしたら青羽には、遥がほんの少し言い淀んだ意味さえも分かっていなかったかもしれない。だがしかし、賢治は違う。
「だから、こんな風に…、同級生の男の子とバカな話しで騒いだりするのが、ちょっと懐かしく感じられたんだ…」
ほんのすこしだけ、どこか寂しそうに微笑みながら、遥がゆっくりと告げたそれは、賢治が思っていた通りのものだった。
「あ、あぁ、そっか、成程それで…」
(そう…そうなんだ…だから俺は…)
やり場のない気持ちを募らせたのは、遥と青羽のやり取りが馬鹿らしいくらいに他愛のないものだったからだ。
「奏さんは…そうだったね」
(そうだ…、そして俺は…)
賢治の胸を締め付けていた感情は、言葉にしてしまえば、やはりただの「嫉妬」ということにはなるのかもしれない。
他愛の無い事で遥とじゃれあえる青羽を見て、これまで当たり前の様に享受してきた「親友」という立ち位置まで奪われてしまった様な気がしてしまい、賢治はそれが辛かったのだ。
「あっ、でもねボク、だからって、昔に戻りたい訳じゃないんだよ?」
きっとそれは、遥の偽らざる本心に違いない。遥はかつて、今が幸せだと、そう言った。沢山の大切な人が傍に居てくれる今が幸せだと、遥はかつてそう言っている。
「そっか、俺には昔の事とかよく分からないけど…、俺は…今の奏さんが…」
そこまで言って、急にモジモジしだした青羽がその後に何と続けようとしているのかは、推して知るべしというやつだが、賢治はそれを取っ掛かりにして考えずにはいられない。自分は果たしてどうなのだろうかと。
(俺は…俺だって…)
今の遥が好きだ。青羽とは違って、十六年間の積み重ねがある分、その想いはかなり複雑で、その所為で大いに後れを取ってしまったが、遥を想う気持ちは紛れも無い本物だ。
特に賢治は、花火大会の晩に、「大人ぶらないで」と真梨香に諭されて以来、ずっとその想いと向き合い続けている。
だからこそ今日、嘘をつくのはもう止めにすると宣言して、青羽に宣戦布告もした。
だがしかし、それなのに、その一方では、例えこの想いが遂げられなかったとしても、「親友」という立場でなら、遥の傍には居続けられると、そんな風に思っていたのではないだろうか。賢治は今、その自問を否定し得ない。遥と青羽が他愛の無い事で笑い合っているのを見て、ひどく心がかき乱されてしまったのは、そんな考えがあったからに違いないのだから。
(俺は…俺には…)
賢治は今ここで、改めて自身の想いと向かい合う。遥を諦めたくない。だから、もう大人ぶって自分の気持ちに嘘をつくのは止めにすると決めた。それならば、その上で尚「親友」としてもその傍に居続けたい何て考えは、甘え以外の何物でも無い。
(俺には覚悟が足りていなかった!)
それは、如何にも賢治らしい、生真面目が過ぎる着地点だった。
賢治が辿り着いたその結論が正しいものだったのかどうか、それは誰にも分からない。
ただ、そう考える事で、賢治はもう、やり場のない想いに胸を締め付けられる事も、無暗に心をかき乱される事も無くなっていた。
(俺はハルを諦めない…! その為なら…何も惜しくは無い!)
見通しの良くなった心と、クリアになった思考で、賢治は自信を奮い立たせる。
「…よしっ!」
思わず上がってしまった唐突な気合の声に、遥は「にゃっ!?」と可愛らしい驚きの声を上げて目をパチクリさせていたが、賢治は特に取り繕いもせず、青羽に向ってただニヤリと笑った。
その笑みに込められた賢治の想いが青羽にちゃんと伝わったかどうかは分からない。
「えっ…えぇ…?」
何やら表情を引きつらせて困惑している所を見るに、青羽の理解度は半々といったところだったかもしれないが、賢治はそれでも別に構わなかった。
「青羽、こっからだ…!」




