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5-19.ワイルドカードとジョーカー

 奇しくもその日は、遥の両親、響子と正孝の結婚記念日でもあった。

 突然何の話かと思うかもしれないが、これはとても重大な事実なのである。

 何故なら、奏夫妻の結婚記念日は昔から、余程の事情が無い限り、直近の週末を利用した一泊二日の温泉旅行という形で祝うものと相場が決まっていたからだ。

 無論、遥が事故に遭って身体を失っていたという余程の事情があったここ数年はその限りでは無かったのだが、では遥が戻った今年はといえばどうだったのだろうか。

「んー! ここに来るのも久々ねー!」

 近景に望む霞がかった緑深い山々。眼前に広がるは昔ながらの瓦屋根を頂く古い町並み。そのあちらこちらからは白いモヤが立ち上り、石畳の通りを行き交う人々の多くは風流に浴衣を着こんでいる。

 地元の駅から電車に揺られる事二時間足らず。遥がちょうど自宅でクローゼットを引っ掻き回していた頃合いに、奏夫妻が辿り着いていたその場所は、正しく温泉地以外の何ものでも無かった。

 ということはつまり、夫妻は遥が戻ってきた今年から、例年行事にしていた結婚記念日の温泉旅行を再開させていた様だがさて、こうなって来るといよいよもって事の重大性は増して来る。

「さぁ、宿に荷物を預けたら、私たちもさっそく湯めぐりといきましょう!」

 遥の母、響子は、数年ぶりに訪れた温泉地でテンションを上げているのか、年甲斐も無くはしゃいでいる様子であったがしかしその一方で、父、正孝がどうにも今一つ乗り切れない様子でいたのは、もしかしたら薄々ながらも勘付きつつあったからかもしれない。

「なぁ響子、遥は独りで大丈夫だろうか? やっぱり一緒に連れて来るべきだったんじゃないかな?」

 正孝がここで口にしたその不安は、図らずも事の重大性を端的に言い表してはいたものの、それはまだ完全に核心をついていたという訳では無かった。

 この段階で正孝が不安視していたのは、あくまでも遥を「独り」にしてしまっている事だけで、言ってみればそれは只の過保護発言でしかなかったからだ。

 正孝は普段、遥の前では比較的厳格な父親で通してはいたが、半死半生だった我が子の帰還を三年もの間待ち続けていた事を鑑みれば、それは至って自然な「親心」だったのだろう。

「貴方…」

 親心という点でいえば、母親である響子だってそれは断然負けてはいない筈で、それだけに遥の身を案じる正孝に相応の共感を示すかと思いきや、その後に続いた言葉は意外にもため息交じりの苦言だった。

「あのねぇ、遥はもう小さな―…いや小さいけど、中身は子供じゃないんだから、留守番くらい一人でも大丈夫に決まってるでしょ…」

 見た目の部分で少々引っかかっているあたり、響子もなんだかんだ言いながら、内心では「小さな遥」の事をバッチリ心配していたのかもしれない。ただ、その主張自体は全くの正論で、実際に遥はあれでいて、れっきとした高校生、どころか実年齢的にはそろそろ大人にカテゴライズしても差し支えのない歳だ。となれば、それをまるで「はじめてのおるすばん」かの様に心配するなんて、それこそ過保護が過ぎるというものであろうし、何よりそれは、幼い外見を常々コンプレックスに思っている遥の自尊心を傷つける行為に他ならない。響子が自身の「親心」を圧して、「遥は大丈夫」だとしたのも、きっとそんな我が子の複雑な心情を鑑みての事だったのだろう。

「いや僕だって、遥がもう大人だって事は、ちゃんと分かっているつもりだよ」

 響子の指摘を受けて、正孝も遥が見た目通りの小さな子供では無い事を認めはしたものの、言葉とは裏腹に、その面持ちからはどうにも不安が拭い去れていない。

「もー、ほんとに分かってるの?」

 響子がすかさずの突っ込みを入れると、正孝は「勿論だとも」と明瞭の答えを返したがしかし、その後には「けどね…」とどうにも煮え切れない言葉が繋がってしまった。

「遥が独りで寂しい思いをしているかもしれないと思うと…」

 ここまで来ると最早過保護を通り越して親バカの域で、厳格な父親としての正孝しか知らない遥がこれを目の当たりにしていなら、きっとさぞかし驚いたに違いない。

「はぁ…貴方ねぇ、今回の旅行はそもそも遥が提案してくれた事なのよ?」

 響子の言う通り、夫妻がここ数年自粛していた例年行事を今年になって再開させていたのは、遥が戻ってきた事以上に、他でもない遥からの強い勧めがあっての事だった。

 親孝行、と言えば聞こえは良いが、何もそれはそんな出来た話ではない。遥はあの通り、自分の所為で誰かが不利益を被ったりする事をひどく嫌う性格だ。ならば当然、自分が事故に遭った翌年から両親が結婚記念日をろくに祝わなくなっていたなんて事実に感づいてしまえば、それはもう大人しく黙っている訳がなかったのである。

「心配なのは分かるけど、遥の気持ちも汲んであげなきゃ」

 これで正孝が承服して、「それじゃあ遥の為にも折角の旅行を楽しもう」という流れになればよかったのだがしかし、残念ながらそれにはまだ及ばなかった。

「それは、確かにそうだね…」

 言葉の上では響子の意見を肯定しつつも、正孝は依然として不安たっぷりな様子で、これには響子も思わず今日一番の深々と溜息を洩らす。

「はぁぁー…、仕方ないわねぇ…」

 このままでは埒が明かないと判断したのか、響子は肩に下げていたトートバックから自分のスマホを引っ張り出すと、それを正孝の眼前に掲げながら、ここで奥の手とでも言うべきワイルドカードを切った。

「そんなに心配なら、ボディーガードを雇いましょう」

 もしも響子がここで本当にプロのボディーガードを遥の元に派遣しようとしていたなら、その親バカぶりは正孝どころの騒ぎでは無いが、勿論、実際のところはそんなに大げさな話ではない。

「ボディーガードって…あぁ、成程、賢治君の事だね」

 そう、響子の言う「ボディーガードを雇う」とは、要するにそう言う事で、正孝が直ぐにそれと分かったのは、目の前に掲げられたスマホが賢治への発信画面になっていた為である。

「ね、適任でしょ?」

 遥の幼馴染にして無二の親友。謹厳実直を地でゆき、質実剛健で鳴らす絵にかいたような好青年。生真面目に過ぎる処が欠点といえば欠点だが、それもこの際ならいっそ頼もしい。何より、素性の確かさという点でいけば、実際問題これほど信頼できるボディーガードは、おそらくどこの派遣業者に問い合わせたところで見つけられないだろう。

 そう言う意味では確かに響子が満を持して切ったそのカードは、必殺のワイルドカードに相応しい物では有ったが、実のところそれは、完全なるジョーカーにもなり得る可能性をはらんでいた。

「賢治君にボディーガードを頼むとなれば…」

 事の核心は、もう直ぐ其処に在る。後は、正孝が其れに気付くかどうか、そこが問題だ。

「―確かにそれは、とても安心感があるね」

 どうやら正孝は、惜しくも其れに気付けなかった様であったがしかし、だからと言って落胆するにはまだ早い。賢治がそれだけ正孝に信頼されているという事は、場合によっては中々の明るいニュースであったし、何より響子のワイルドカードは、ちゃんとジョーカーになり得ていたのだから。


 それが発覚したのは、午後一時を幾らか回った頃。

 土曜日の為、午前中のみだった部活動を終えるなり一目散に帰宅し、着替えだけを済ませて勇み足で遥の家へと馳せ参じた青羽の前にそれは立ちはだかった。

「よう、青羽、来たな」

 奏家の門前で、明らかに青羽を待ち構えていたその男はそう、響子のワイルドカード、賢治その人で相違ない。

「えっ、あっ…お久しぶり…です?」

 思いがけぬ門番の存在に、青羽はあからさまに動揺している様子だったが、それも無理からぬ話だ。

 青羽が遥の家にやって来た理由は、言うまでも無く「文化祭で着用する衣装の草案を遥と二人で考えるべし」という中邑教諭の謎采配に従っての事で、もちろん実際にそれをキッチリと全うする心積もりもしっかりと持っていただろう。ただ、青羽だって健全な男子高校生なのだから、お題目がどうあれ、「遥と二人で」というそのシチュエーションには、少なからず期待する物があった筈だ。

 いや無論、かつて遥の水着姿すら直視できなかった純朴な青羽なので、精々が何かの拍子にうっかり手が触れあったり、思いがけず顔と顔が急接近したりとか、その程度のささやかな期待ではあっただろうが、この際その内容はどうでも良い。

 ここで重要なのは、青羽が今日、遥と「二人」で会える事をほぼ間違いなく楽しみにしていたという点だ。特に、席を引き離されてしまった所為で、近頃、遥との接点がめっきり減ってしまっていた事を考慮に入れれば、今回の「打合せ」に際する青羽の意気込みが中々のものであった事は誰にだって容易に想像できる。

 青羽の心情は大凡そんなところで間違いないとして、それがいざ遥の家へとやって来てみればどうだろうか。そこで待ち受けていた物は、愛くるしい遥の笑顔などでは無く、何やら妙な気迫に満ち溢れた賢治だったとなれば、それはもう動揺するなという方が難しい話だ。

「えっ…と…、今日は…文化祭の打ち合わせで…」

 賢治の気迫に若干気圧されながらも、今日ここに訪れた理由を告げてみた青羽であるが、返って来たのは無しの礫だった。

「ハルなら今は取り込み中だ」

 取り付く島も無いとはこの事だが、一つだけ断っておくとこれは決して、青羽を遥に合わせたくなかった賢治の方便ではない。それと言うのも、遥は今、クローゼットを引っ掻き回して散々たる有様にしてしまった自室を必死になって片づけている最中で、本当に取り込み中だったのだ。ただ勿論、そんな事とは知る由も無い青羽は、当然の様に困惑頻りである。

「い、いや…でも俺…ちゃんと約束してて…、時間は…ちょっとアバウトでしたけど…」

 止せばいいのに、青羽が今日の約束には明確な刻限が定められていなかった事を明かしてしまうと、それを聞き逃さなかった賢治は口角を吊り上げてニヤリと笑った。

「そうか、ならちょっとばかし俺の話に付き合った所で問題ないな」

 こうなってしまっては、もはや青羽にこれを拒めた道理はどこにも有りはしない。

 これでもう、お分かりいただけた事だろう。奏夫妻の結婚記念日が如何に重大な出来事だったのか、そして何より、ジョーカーを引いてしまったのが誰だったのか。

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