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1-18.青天

 準備を整え病室を後にした遥達がロビーへと向かっている途中、回診の合間を縫って諏訪医師と遥の担当看護師だった権藤さんが見送りに顔を見せてくれた。

「遥君、退院おめでとう」

 諏訪医師がいつもの人懐っこそうな笑顔で遥の退院を祝福してくれると普段は事務的に淡々としている権藤看護師もこの日ばかりは「おめでとう」と笑顔で祝福してくれた。

「お世話になりました」

 響子が感謝の言葉と共に丁寧なお辞儀を見せると遥もそれに倣って深々と頭を下げる。

「諏訪先生、本当に色々ありがとうございました」

 この人には本当に世話になったと、遥が改めて感謝の念を抱きながら顔を上げると諏訪医師と目が合った。諏訪医師は未だ遥の身体の事に悔いがある為か、少し複雑そうな表情を見せたが、遥が何も言わず首を横に振り笑顔を見せると、諏訪医師もまた元の人懐っこそうな笑顔を返してくれた。

「権藤さんも今までありがとうございました」

 遥の言葉に権藤看護師も笑顔を返す。このベテランの看護師のどっしりとした仕事ぶりは周囲の視線を集めがちだった遥にとっては非常に安心感のある物だった。それだけに代打の樹下看護師の小さな女の子を可愛がるような対応にはいつも参っていたので、この場に居合わせないでくれたのは遥にとっては幸いであった。両親や賢治の前であの対応を見せられては遥の十五歳男子としての自尊心がいくらかは傷付いた事だろう。

「そうそう、新しい身体は少し免疫力が弱いから、風邪なんかには気を付けて」

 遥が樹下看護師の姿が無い事に若干の安堵感を感じていると、諏訪医師が思い出した様にそんな事を言った。それは以前退院を告げられた日に注意点として既に聞かされていた事だった。遥の身体は言ってみれば、まっさらな新品の身体だ。成育中にある程度は肉体年齢に見合った免疫力を備える処置をするのだそうだが、やはり普通に生活してきた人間に比べれば幾分か免疫力が弱いのだという。もっとも人より少し風邪をひきやすい程度の物だそうで、手洗いうがい等の予防策をしっかりとっていればそれ程心配する事は無いと言われていた為さして大きな不安材料ではない。

「それから、まだ激しい運動なんかは難しいので、余り無茶はしない様に」

 これもまた遥は既に聞かされていた事だ。リハビリを終えたとは言え、それはあくまで日常生活に支障がないレベルというだけで、筋量も通常よりかは幾分劣っているのだと言う。医師としての性分なのか念を押すような諏訪医師に遥が少し苦笑して「気を付けます」と笑顔で応えると諏訪医師は満足した様に頷き返す。諏訪医師は更に何か言おうしたが横にいた権藤看護師が自分のナースウォッチを指して「先生、そろそろ」と職務への復帰を促した為話はそこで終わりになった。

「それじゃあ遥君、元気で」

 諏訪医師は最後に軽く一礼をすると「月一の定期検査よろしくね」と遥に言い残し、権藤看護師を伴って職務へと戻って行った。遥はその背中を眺めながら、自分が命を救われた様にこれからも多くの命をその手で救って行くのだろうと、漠然とそんな事を考えた。

 その後ロビーへ向かう道すがら、いつも遥を優し気な眼差しで見守っていたちょっと顔見知り程度の入院患者や病院関係者などから多くの祝福の言葉を受け、ナースステーションの前を通りかかった際には樹下看護師の案の定な子ども扱いによる熱烈な見送りにより遥の自尊心は結局幾分か傷つけられたりと、そんな事がありつつ程なくして遥達は病院の建物を後にした。


「今日はお母さんもお父さんも早めに帰るから、そしたらお祝いしましょうね」

 病院の建物を出て駐車場に向かう途中で響子は心の底から嬉しそうに言った。遥の体感時間では一ヶ月半の入院生活だったが響子達家族にとっては三年ぶりの我が子の帰宅だ。お祝いと言ったその言葉には遥の退院祝い以上の意味があるだろう。

「それじゃあお母さん仕事に戻るから。賢治君、遥をよろしくね」

 駐車場に辿り着くと響子は名残惜しそうに遥の頭を撫でながら賢治に向って少し心配そうな様子を見せる。賢治の事を信用していない訳ではなく純粋な親心といった感じだろう。

 仕事に戻らねばならない響子の代わりに、この後は賢治が車で遥を家まで送り届ける手筈になっている。響子は当初この役目を辰巳に頼んでいたが、当の辰巳が賢治に任せた方が遥は喜ぶだろうと進言したため、響子もそれはそうかもしれないと賢治に話を通し、賢治も二つ返事でそれを快諾した為今こうして遥の退院に居合わせる事になったのだ。幸い賢治は大学が春休み中で今日はバイトも入っていない。一日遥に付き合うつもりでここに来ている。

「任せてください。安全運転で送りますよ」

 賢治がいつもの落ち着いた調子で応えると響子は安心した様で賢治にも笑顔を見せた。

「それじゃあまたお家でね」

 響子は遥に向って最後にそれだけ言い残すと、賢治に遥を託して忙しく仕事へと戻って行った。響子の姿が見えなくなると賢治は「行くか」と遥を促し車の方へと先導して歩き始める。

「そういえば美乃梨には連絡したの?」

 遥は先導する賢治の斜め後ろをちょこちょこと歩きながら、美乃梨が退院して行った日に二人が交わしていた約束を思い出しその事を尋ねてみた。

「ああ、けどあいつ今日は中学の卒業式だってよ」

 遥の問いに答えた賢治は少しうんざりした様子だ。賢治がメッセージで遥の退院を知らせた所、卒業式と被って行けない自分がどれだけ遥の退院祝いに駆けつけたいかを大量の文章とスタンプで送り付けてきたらしい。仕舞には卒業式をサボって来ると言い出しかねない程だったが、賢治が対応策として遥を迎えにいく時間を明かさなかったので、今頃美乃梨は大人しく卒業式に出席しているはずだ。

「美乃梨らしいね」

 猛烈な勢いでスマホを打つ美乃梨の姿が思い浮かぶ様で遥は小さく笑った。遥は美乃梨に会いたい気持ちもあったが、卒業式という一大事をすっぽかしてまで自分の元に駆けつけられては、嬉しいよりも申し訳なさが勝ってしまうため、胸中で親友の冷静な判断力に感謝した。

 やがて二人は駐車場の中ほどまでやって来ると、そこに駐車されていた白いSUV車の前で賢治が足を止めた。

「ハル、これだ」

 目の前の白いSUV車を指し示した賢治がポケットからキーを取り出しボタンを押すと、それに反応してSUV車が軽快な電子音と共にヘッドライトを点滅させる。

「これ賢治の車?」

 少なくとも三年前の紬家の自家用車はワンボックスの軽自動車だったため遥は初めて見る車だ。

「ああ、貯めてたバイト代頭金にして買ったんだ」

 賢治は少し誇らしげに言ってから「中古だけどな」と付け足した。以前自分の車が欲しくてバイトをしていると言っていた賢治はその目標を半ば達成させた様だ。

「そっかー、よかったね賢治」

 いかにも賢治らしい質実剛健な車を前にして、免許すら持っていない遥は新車だろうが中古車だろうが自分の車を持つ事自体がひどく羨ましく思える。遥達の住む街は郊外で生活に車は欠かせない。

「いいなぁ、ボクも早く免許取れるようになりたいなぁ」

 羨望の眼差しで賢治の車を眺めながら遥が呟くと賢治が少し不思議そうな顔をした。

「免許くらい教習所通えば一ヶ月くらいで取れるだろ?」

 当たり前の様に言った賢治に遥が思わず「え?」と聞き返すと賢治も「ん?」と更に不思議そうな顔をして二人はしばしお互いの顔を見合う。

「あぁ、そうか」 

 しばらく見合ってから賢治は遥の思い違いに気が付いた。

「俺ら同い年なんだから、ハルだってもう車の免許取れるんだぞ」

 賢治のその言葉に遥も自分の思い違いに気が付き胸前で手を合わせ感激を顕にする。三年間時間が止まっていた為つい体感で自分はまだ十五歳の様な気分でいたのだ。

「ボクももう免許とれるのかぁ…」

 早生まれで誕生日がまだ来ていないので正確には賢治と同い年にはなっていなかったが、それでももう免許は取れる年齢だ。遥は免許を取って自分の車を持つ事を想像すると心が躍った。自分が買うとしたらどんな車だろうかとまだ見ぬ愛車の姿をあれ事と想像して思いを馳せたがしかし、ふと一つの事が気掛かりになる。実年齢的には免許が取れるのだとしても、身体はあくまで十歳前後の幼女だ。この姿で車を運転する様子が想像できない。

「ねえ、この身体でも車って運転できると思う…?」

 不安げに口にした遥のその疑問に賢治は思わず唸ってしまった。

「あー…」

 自分の胸程までしか高さのない遥の頭を見下ろし考え込む。車の運転に身長制限が有る等と言う話は聞いた事は無いが、現実問題として今の遥の身長ではペダルに足が届かなかったり前が見えなかったりするかもしれない。少なくとも自分の所持する大柄なSUV車はアウトだろう。探せば遥の体格でも無理のない小さな車種が存在しているだろうが、それ以前に教習所の実習車は大体が中型のセダンである。賢治の車よりは幾分かはマシかもしれないが、それでも厳しい事には変わりがなく、今の遥では実技をパスできず免許取得の本試験を受ける所までいけないかもしれない。

「もう少し育ってからの方がいいかもな…」

 賢治は考えた末遥の肩に手を置いて素直にそう告げると、遥も「そうだよね…」と深く溜息をつきしょんぼりとしてしまった。

「あー、ハルはこれから高校生やり直すんだろ? 免許は高校出てからでも遅くないし、三年後には背だって伸びてるだろ?」

 少し慌てた賢治のフォローに遥は首を傾げる。十歳前後の女の子が三年でどれくらい成長するのかがいまいちピンとこない。

「うーん…そうかなぁ?」

 遥は首を捻りながら何かいい参考例はないかと考えを巡らせてみたところ美乃梨の姿が思い浮かんだ。記憶にある三年前の美乃梨は如何にも小学生といった感じの小さな女の子だったが、今ではすっかり年頃の少女へと成長し背も随分と伸びたように感じられる。自分も今後の三年であれくらい成長するのだとしたら、なかなかに希望は有りそうだ。

「美乃梨も随分大きくなってたし、ボクも期待できそうかな!」

 そう言って顔をほころばせた遥だったが、賢治は遥の持ち出した名前に違和感を感じ一瞬動きを止めた。雰囲気はともかく、賢治の印象では美乃梨の身長がこの三年で大して伸びた様には感じられていなかったからだ。元々高身長な賢治は常に見下ろす側なのもあるが、賢治の目算では美乃梨の身長は一五〇センチ少々で比較的小柄な部類なのは間違いがない。恐らく遥は当時の一七〇センチ弱の身長で見下ろしていた記憶と、今の一四〇センチに満たない身長で見上げている印象を混同して錯覚しているのだろう。

「あー…うん…そうだと良いな…」

 有りのままの事実を言うとまた遥がしょんぼりとしてしまうので、賢治は本当の事を言わず曖昧な肯定と笑顔を返すしかなかった。ただ当時の美乃梨は十二歳、今の遥は肉体年齢的には十歳前後と伸びしろで言えば今の遥の方が大きそうなので、一概に悲観的になる事ではないのかもしれないと思い至り、遥の背が伸びますようにとひっそりと心の中で祈願した。

「さて…、そろそろ行くか」

 身長問題をうやむやにした賢治はこれ以上ここで油を売っていても仕方がないと、助手席のドアを開け遥を車内へと誘導する。遥もそれに従い助手席に乗り込むが、車高の高い賢治のSUV車は小さな遥では少々乗り降りが大変そうだ。賢治は内心で遥の背が早く伸びますようにと先ほどの祈願をさらに強めたが、そんな賢治の願いを他所に、遥は今後成長と共に解消されていく事だと楽観的に考えさほど苦には思っていなかった。賢治は無事席について足をぶらぶらとさせる遥を認め少し苦笑してから助手席のドアを閉めると、反対側へ回って自分も素早く運転席へと乗り込んだ。

「そう言や、人乗せるのはハルが初めてだな」

 シートベルトを締めながら賢治がそんな事を何気なく言ったので遥は少し考えてからちょっと意地悪く笑ってみせる。

「初めて助手席に座るのが一応女の子で良かったね」

 遥のそれは下手をすれば自虐になりかねない冗談だったが、賢治は先ほどワンピース姿の遥に思わず見とれてしまった事から一瞬ぎくりとした。しかしここで狼狽えては遥の思う壺だとすぐさま平静を装って口角を上げニヤリとした笑みを返す。

「ばーか、そんな事別に拘ってねえよ」

 助手席にちょこんと座る遥の頭を賢治が上から無造作に搔き乱すと、遥は楽しそうに声を上げて笑い形ばかりの抵抗を見せる。遥のふわふわとした髪をひとしきり弄んだ賢治は手を離し際、乱れた遥の髪を軽く整えてやりながら穏やかな気持ちになり晴々とした笑顔を見せた。

「こういう事はいつも最初はハルと二人で、だろ」

 三年間、見えない影を追い続けた親友が今は隣に居て、そして昔の様にまた初めての事を分かち合える。その事がたまらなく嬉しい。そんな賢治の満ち足りた笑顔に遥も頷き心からの笑顔を返した。

「賢治、帰ろう」

 遥は親友と共に日常へと戻れる事の幸福さを噛みしめる。病院で過ごした一ヶ月半、様々な苦悩を経て、そして支えてくれる皆の想いを得てここに居る。事故によって運命は変わってしまったけれど、それでも命を繋ぎ生きている。全て元通りとはいかなかったけれど、それでも今はただこの時を迎えられた事を幸せに思う。

 遥の「帰ろう」と言った言葉を胸に刻み賢治はゆっくりと車を始動させた。車は徐々に病院から遠ざかり、着実に日常へと進んでいく。冬の終わりを告げる様に暖かな日が射す様になった三月の初め、その日は抜けるような晴天だった。

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