5-10.既知の問題
中邑教諭との面談が行われた翌日。
前日の面談で決められた通り、朝のショートホームルームには青羽と沙穂の席が入れ替えられ、これでようやっと憂鬱で幕を開けた遥の二学期も一先ずの落ち着きを見せるかと思いきや、残念ながらそうはならなかった。
「…はぅぅ」
これこの通り、放課後のカフェ『メリル』には今日も今日とて、テーブルに突っ伏して深々とした溜息を洩らす遥の姿が在り、どこからどう見ても憂鬱な二学期を大好評継続中である。
「せっかく早見くんの件が解決したのにねぇ、カナちゃんドンマイだよー」
厳密に言うと、青羽の件は遥が授業に支障を来さない様に対策がとられただけで、根本的な部分は何も解決していないのだが、取りあえず今それは大して重要な問題ではない。
これでもし、遥が席を入れ替えてもらった甲斐も無く、やっぱり青羽の事が気になって依然として授業に集中できていないという事なのであれば、それは大いに問題有りで中邑教諭との再面談さえも必要になって来るだろう。
ただ実際は、席を入れ替えた効果は間違いなく有って、遥は青羽が視界に入り難くなった事で普通に授業を受けられる様になっていたし、そればかりか隣の席に沙穂が居てくれるお陰で、今日一日、教室にいる間も概ねで穏やかな心持でも居られたのだ。
それにも拘らず、どうして遥の憂鬱な二学期は今も尚継続中なのかといえば、それはつまり、青羽の件とはまた別の問題が持ち上がってしまったからである。
「あんたって子は…、ホンっト、飽きさせないわね…」
それはもう沙穂だっていつも以上の呆れ顔で皮肉たっぷりにもなるというもので、遥としてもこれには申し開きのし様も無い。
「…ごめんにゃさい」
それ以外に返せる言葉の無かった遥がテーブルに突っ伏したまま謝りの言葉を述べると、沙穂は「いーけどね」とため息交じりにこぼして引き続きの呆れ顔である。
「ヨシヨシ、カナちゃんは別に悪くないよー」
こうして楓が背中を擦りながら慰めてくれるのも二学期に入ってからはもうすっかりお馴染みになってしまった光景で、このあと何だかんだ言いながらも結局は沙穂が知恵を絞ってくれるのがいつもの流れだがしかし、今回に限っては少しばかり勝手が違っていた。
「カナが悪くないってのは、まーそーなんだろうけど、でもコレばっかりは、あたしら大した力にはなれないからね!」
それは、今まで自ら進んで遥の悩みに手を突っ込んできていた節すらあった沙穂にしては珍しく突き放した態度で、事が事ならばこれはこれで中々の事件だったかもしれない。ただ、そんなともすれば異例中の異例だった沙穂の「力になれない」宣言は、別段これといった議論を巻き起こすこともなく、言われた当の遥は元より、楓すらもそれを特に意外だとは思わなかった。
「そうだねぇ、確かにコレばっかりはワタシたちじゃ力になれないかもだよー」
この様に、楓は沙穂にあっさりと同意して、今もテーブルに突っ伏したままでいる遥の後ろ頭を眺めながらいつもの困り顔を見せる程度のものだ。
「うぅ…やっぱり…そうだよね…」
その言い様からして、遥も今回に問題に対して沙穂と楓が消極的な態度をとる事を半ば予測していた様であるが、それもその筈。何を隠そう、遥が今現在抱えている悩みは、特別に目新しいものではなく、三人の間では既に半ば結論も出ている既知の問題だったのである。
では、何故そんな既知の問題が今頃になって浮上して来ているのかといえば、それは遥が今このタイミングで改めてその問題と向き合わざるを得なくなっていたからだ。
「前にも言ったけど、別に取って食われたりしないから大丈夫だって」
沙穂がかつてと同様の割とおざなりな結論を述べれば、楓もそれに頷きながらもう少し具体的に「大丈夫」だと思う根拠を述べて来る。
「うんうん、それに二学期はもうプールじゃないし全然大丈夫だよ?」
そんな事を言われても遥が何一つ大丈夫に思えなかった事はともかくとして、これでその憂鬱が何に起因しているのかについては、まずまずお分かりいただけたに違いない。
要するに、折角青羽の件がひと段落したというのに、遥が今もこうして大絶賛憂鬱を継続中なのは、もう間もなく、というか明日、二学期初となる「体育の授業」がある事に気付いてしまったからだった。
一週間の時間割りは一学期の時点から変わっていない為、今頃になって気付いたというのも中々に間抜けな話だが、そこはそれ、遥は二学期が始まってからというもの、今日に至るまで青羽の事で一杯一杯だったのだから仕方が無い。
「うぅ…体育イヤだよぉ…見学が良いよぉ…」
一度気付いてしまったとなれば、憂鬱な余り思わずそんな駄々をこねてしまう遥だが、勿論嫌がっているのは体育の授業そのものではなく、その前後にある他の女子生徒達と一緒に行う「着替え」の方だ。
「そんなこと言って、また補習漬けになりたいの?」
もちろん遥だって補習漬けは出来れば御免こうむりたいところで、これはこれでテーブルに突っ伏したまま頭を左右に振って駄々をこねる。
「補習はヤダよぉー、けど体育もヤダよぉー」
ちんまりとした見た目の印象も相まって、イヤイヤ期の子供みたいなグズり方をする遥に沙穂はより一層の呆れ顔だ。
「あんたねぇ…、っていうか、夏休みにあんだけ補習に出ておいて、それでもまだ女子と一緒に着替えるのに抵抗あるワケ?」
確かに遥は、夏休み中に誰よりも多く体育の補習を受けていた為、沙穂がそんな疑問を抱いたのも当然の話ではあったかもしれない。ただ、それは沙穂が補習の実態を良く知らなかったからで、その事を今まで敢えて詳しく話さずにいた遥はこれには思わずギクリとしてしまう。
「うっ…、だ、だって…補習は…えっと…ほとんどの子が初日で終わって居なくなっちゃったから…」
それ以前に、そもそも他の女生徒と着替えの時間が一緒にならない様に立ち回っていたとは、流石にこの状況下では余計に言い出せない遥だ。
因みに、遥はそんな立ち回りをしていたにも拘わらず、初日に小森茜の「お山」に頂かれてしまいうという相当に強烈な体験をしているが、その所為で余計に体育の着替えが恐ろしくなってしまっている節が無きにしも非ずである。
「そ、それに…、授業の体育は、補習と違って…二クラス合同で…人数も多いし…」
遥が補習の件を何となく有耶無耶にしたくて論点を若干ズラしてみたところ、沙穂は一つの理屈として、それには「成程」と一応の納得を示してくれた。
「まー、二クラス分の女子が一斉に着替えてる光景とか、確かにカナからすれば刺激が強すぎるのかもねぇ」
正しくその通りで、初心な上に小心者の遥は、その光景を想像してみようとしただけで目を回してしまいそうで、それはもう幾らだって憂鬱になるというものだ。
「あー、それに一緒に体育やるA組には花房さんもいるしねー」
ここで楓が若干の苦笑と共に美乃梨の名前を挙げたのは、おそらく海へ行った際の事を主に思い出しての事なのだろう。そこで何があったのかは今ここで詳しく語るのは憚られるが、かつて兄の辰巳に連れられて温泉へ行った時と大体同じような塩梅だったと言えば、何となくの想像は付くだろうか。そして勿論、遥にとってそれらの出来事が小森茜のお山事件に勝るとおも劣らないある種のトラウマとなっている事は言うまでも無い。
「そ、そうか…体育って…美乃梨のクラスと一緒…なんだ…」
そうと実感してしまうと、遥は憂鬱を通り越してガタガタと震え出してしまう始末であり、こうなるとつい先ほど「力になれない」宣言をしたばかりだった沙穂も流石に放って置けなくなったのか、結局はここで一つの助け舟を出してくれた。
「ったくもぉ、それじゃあさ、他の子達が着替え始める前に、速攻で着替えて速攻で教室から出てくってのはどう? 女子はあたしらB組の教室で着替える訳だから、男子が出てった瞬間から着替え始めればいけるとおもうんだけど」
奇しくもそれは、遥が補習の際に行っていた立ち回りと方向性としてはほぼ同じ提案で、その時ほどの確実性は無いにしても、確かに方法としては固そうだがしかし、そうと知ってか知らずか、これには楓から一つの疑問が呈される。
「ねぇねぇ、ヒナちゃん、それって、終わった後はどうするの?」
これまた奇しくも遥が補習の時に行き当たっていた問題で、普段は割と抜けている所のある楓にしては中々に鋭い指摘だ。結局、補習の時は、菅沼教諭がノルマを終えた者からの早や抜け方式にしてくれたお陰で遥は事なきを得ているが、当然ながら通常授業の体育ではそんな都合の良い話にはならないだろう。
「あー…うーん…、そうねぇ、カナが一番で教室に戻るのは難しそうだし…、他の子達が着替え終わるまで待つってのは…現実的じゃないかぁ…」
前者は言うまでも無く遥の脚が歩いても走っても遅いからであり、後者の方は着替えるタイミングそのものを逸してしまう可能性があるからだろう。
実際、遥はこれまで、体育の授業後は女子の全員が着替え終わって、男子が入室を許されるのと同じタイミングで教室に戻っていたのだが、それは大抵次の授業が始まるギリギリである事が殆どだったのだ。体育を見学していた一学期はそれで何の問題も無かったが、二学期は遥も体育に参加して着替える時間が必要になる為、確かにその方法は沙穂の言う通り現実的ではない。
「あっ、それじゃぁさ、カナちゃんはトイレとかで着替えるってのは?」
楓が閃いたとばかりに挙げて来たその提案は、一見すると中々に良さそうで、遥も俄かに光明が見えた気がしたがしかし、これには沙穂が眉間にしわの寄った渋い顔で難色を示した。
「一回や二回くらいは良いかもだけど、体育があるたびにそんなことしてたら如何にも訳アリって感じで、流石に周りも不審に思うんじゃないかしら…」
言われてみれば確かにそれはその通りで、これには楓も自分の考えが少々安易だった事を認めざるを得ず少しばかりしょんぼりしてしまう。
「うーん、そっかぁ、じゃぁやめておいた方がよさそうだねぇ」
もしこれがただ単に、他の子と一緒に着替えるのが恥ずかしいというだけの話であれば、多少不審に思われたところで素直にそう言えば済む話だが、遥の場合はまごう事無き「訳アリ」な身の上である為、話は中々にややこしい。
「うぐっ…」
遥も周囲から不審に思われるリスクを鑑みれば、折角のよさそだった楓の提案は断念せざるを得ず、テーブルに突っ伏したまま器用に肩を落としてガックリと項垂れる。
「んー…それじゃぁ、取り敢えず、終わった後の着替えは、あたしらが壁になってカナの視界を可能な限り塞いだげるって感じでどう…?」
どうと言われても、遥としては正直なところそれくらいでは全くもって安心できないが、かといって他に何か良い案があるかといえばそんなものはどこにもありはしない。
「うぅ…じゃぁ…取りあえずは…それでオネガイシマス…」
かなり消極的ではありながらも遥がやむを得ず了承した事により、結局は何だかんだで知恵を絞ってくれた沙穂の案を採用する方向で一先ずの方針は決定だ。
「まっ、堂々としてれば誰も何とも思わないんだから大丈夫だって」
確かにそれはそうなのかもしれないが、遥としてはその「堂々と」が一番難しいところである。
「…ガンバリマス」
それは、沙穂と楓が今まで聞いて来た中でも、五本の指に入るくらいには頼りなくて弱々しい奮起の言葉だったとか。




