5-9.方法論
遥は当初、今回の面談に対してはこれっぽっちも乗り気では無かった。
ただ、授業に差し障りが出ている以上、その対処に当たらねばならないという中邑教諭の言い分は遥にも良く分かる話であったし、それについては特にこれといった異論があった訳では別に無い。
そもそも、今回の問題を誰よりも「何とかしたい」と思っていたのは他でもない遥自身なのだから、どうして異論など唱えられようか。
それに、沙穂や楓とどれだけ頭を捻っても、特に具体的な対処方法が見つからなかった今回の問題を中邑教諭に託してみるのは、決して悪い手では無い事も分かっていた。
何せ中邑教諭は、自分達よりも圧倒的に人生経験豊富な大人である事は言うに及ばず、教職生活二十年の確かな実績を持つベテラン教師なのだ。
であれば、恋に悩める女子高生などそれこそ今まで五万と見て来た筈で、いわばこの道のエキスパート、というのは流石に少々言い過ぎかもしれないが、事今回の問題に関しては、遥の周りにいる大人の中でもダントツに頼れる人材であった事は間違い無い。
更に加えて言うならば、昼休みの時点で中邑教諭がその厳めしい印象に反して恋愛事に大変肝要な考え方の持ち主であった事が判明していた点も、遥にとってはかなりの明るい材料だっただろう。
がしかし、そうは言ってもだ。例え其処にどれだけの理や利があろうとも、沙穂が言う所の「恥ずかしがり屋」の遥からすれば、担任教師に恋の悩みを打ち明けるなんていうシチュエーション自体がまずもってハードルが高かった。
それだけに遥は、どうしたって今回の面談に対して前向きにはなれず、おかげで中邑教諭を待っている段階から余計な事ばかり考えてしまい、それはもう相当に気負いまくりだった訳だがさて、それでは実際に面談が始まってしまった今はといえば、果たしてどうだったのだろうか。
「―そんなこんなでぇ、夏休み中に早見と両想いになったのは良いんですけどー、この子ったらすっごい恥ずかしがり屋な上に、ビックリするくらいピュアっピュアなもんだから、二学期が始まってからもーずっとこんな感じなんですよー」
丁度たった今、沙穂が随分とざっくばらんな調子で中邑教諭に事のあらましを説明し終えた所だったが、まずここから二つほど読み取れる事があった。
その内一つは、沙穂が話し手を担っていた事からも分かる通り、案の定、遥が今回の問題に纏わる一連の事情を自分では上手く説明できなかった事だ。
尤もこれは、遥の性格や当初からの気負いっぷりを考えれば、実に情けない話しではあるが至仕方の無い事ではあり、それに代わって沙穂が説明役に回っていたのも含めて順当な処ではあっただろう。もしこれで、沙穂の同席が認められていなければ、導入だけで一体どれだけの時間が掛かっていたのかは計り知れず、そういう点ではきっと中邑教諭もかなり助かったに違いない。
「成程、事情は良く分かった、ありがとう日南」
実際、説明を聞き終えた中邑教諭が沙穂に率直な謝辞の言葉を送りながら、どこかホッとした面持ちを垣間見せていたあたり、遥の話下手は余程酷かった様である。
因みに、説明を沙穂に丸投げした当の遥は一体全体どんな様子で居たかといえば、客観的に語られた自分の恋愛ヒストリーがそれはそれで中々の悶絶もので、今は真っ赤な顔を俯かせて大絶賛プルプルしている真っ只中だった。
「奏、日南が話してくれた通りで…、あー…、うむ、問題は無さそうだな…」
当然の筋として事実確認を図ろうとした中邑教諭にも、どうやら遥のあからさますぎる様子から、答えは敢えて聞くまでも無い事が一目瞭然だった様である。
「先生、あのー、何とかできそうですか? こういうカナちゃんもワタシは可愛いくって好きなんですけどー、本人はとっても困ってるみたいなんですよー」
事実確認も含めて話の導入が済んだのを見計らって、この何とも緊張感のない能天気な問題提起をしてくれたのは楓だったが、ここからも遥が不甲斐ない事とは別な二つ目の事柄がより読み取れた。
それは、普段割とあがり症な所の有る楓が中邑教諭を前にここまで能天気でいれてしまう程には、この面談が随分と和やかかつ緩い雰囲気で進んでいた事である。
無論それは、今もまだ真っ赤な顔を俯かせてプルプルしている遥の心情的な部分はさて置いての話だが、先程、事情の説明に当たっていた沙穂が随分とざっくばらんな調子だったのもこの為だ。
「うぅむ、正直に言うと、話を聞いた限りでは、授業に差し障りさえ出ていなければ、特にどうこうする問題でもなさそうなのだが」
幾ら恋愛事に寛容な性格とはいえ、中邑教諭からこんな身も蓋も無い解答が返ってきてしまう当たりからもまた場の緩さが窺い知れるというものだが、何故そんな事になっているのかといえば何の事は無い。全ては楓が今し方述べていた能天気も過ぎる発言に集約されており、つまりは恋に悩んでアワアワしている遥が対外的に見れば大凡では何とも微笑ましい限りだったからだ。
否、勿論、沙穂や楓は、友達として掛け値なしに遥の悩みが解消される事を願っていたし、だからこそ今こうしてこの場に同席してもいる。中邑教諭にしても、立場や主旨は違えど、悩める遥を憂いているという点では同じであり、こうして面談の場が設けられたのも間違いなくその為だ。
がしかし、結局のところ、遥が今現在抱えている悩みというのは、言ってしまえばただの「恋煩い」なのである。
しかも其れは、痴情のもつれで修羅場になっているとか、失恋の憂き目に遭って心に穴が空いてしまったとか、叶わぬ恋に焦がれて身を焼かれそうになっているとか、そういった深刻な恋煩いでは全く無く、ただ「好きな男の子が気になっちゃう」というだけの、それこそ小学生レベルのかなり可愛い内容なのだ。
其処へ来て、遥がいちいちアワアワしたり赤くなったりプルプルしたりと、実に可愛らしい反応を見せるものだからこれは中々に厄介である。
それでも沙穂と楓は同性同世代の友達として、ちゃんと遥の悩みに共感して、あくまでも真剣に問題の解決を望んではいたのだがしかし、どうにも中邑教諭はそうもいかなかった様なのである。
「家の娘にもこんな時期は有ったが、今では平然としたものだからなぁ」
こんな具合に、中邑教諭は何やら父親の顔まで覗かせて妙にしみじみとすらしてしまっており、これではもう場の雰囲気だって幾らも緩くなるというものだ。
因みに、中邑教諭が緩み始めたのは、沙穂が事情の説明を始めてから比較的直ぐの事で、話の内容的には遥が何に対してどの様に悩んでいるかが明かされた辺りだっただろうか。本人に自覚があったかどうかは定かでは無いが、中邑教諭はそのあたりから明らかに眼差しが優しくなって、説明が終盤に差し掛かった頃にはご覧の通り父親の顔まで覗かせる始末であり、おかげで沙穂もつられてついざっくばらんな調子になってしまい、楓がうっかり能天気な事を言ってしまったのもその所為という訳である。
「あ、あのぉ…先生の娘さんって、御幾つ…なんです?」
ここでようやく若干平静を取り戻した遥が話の流れで何となく気になって問い掛けてみると、中邑教諭は何故かしらこれには些か答え難そうにして珍しく言葉を濁しもした。
「う、うむ…娘は、まぁ、その…学年で言えばお前達の一つ下…だな」
遥たちの一学年したという事はつまり、中邑教諭の娘は現在中学三年生という事になる訳だが、成程道理で少々答え難そうにした訳である。
「あぅ…」
中学生以下と宣告されたも同然だった遥が聞かなければ良かったと、これに思わずシュンとしてしまったのは言うまでも無い。
「あー…まぁ娘の話はさて置くとしてだな、好きな異性が気になるというのは人間として至って正常な感情なのだから、無理にどうこうするものでも無いと思うが」
俄かに意気消沈してしまった遥を気遣ってという訳では無いだろうが、ここで少々強引に話を引き戻した中邑教諭はそんな結論を述べつつも「とはいえ」と言葉を繋いだ。
「奏が授業に支障を来している現状だけは何とかせねばならんな」
その点に関しては、やはり担任教師としては見過ごせない様で、遥としても何とかなるのなら断然そうしてもらいたい処ではある。しかし、そうなると今度は一体全体どうやって「何とか」するのかがやはり問題だ。
「何とか…なるんですか? それに先生、無理にどうこうするものではないって今…」
先程の結論とも食い違っている事を添えて遥が疑問を呈してみると、中邑教諭は娘の話題とは違ってこれには明瞭な返答を即座に返してきた。
「うむ、よって、ここは一先ず早見に席を移ってもらう事で様子を見よう」
一体どんな奇策を講じてくれるのかと思いきや、中邑教諭からの提言は聞いてみれば別に何がどうという事は無い。それは、遥たちの間で一度は検討されながらも、諸事情によりって実際には採用が見送られていたプランなのである。
それだけに、中邑教諭が選んだ方法論は目新しさや意外性という点では少々の期待外れで有った事は否めなかったがしかし、何もだからと言って捨てたものではない。
それどころか、今回のそれが中邑教諭からの提案であるのならば、それは遥たちにとっては願っても無い話ですらあっただろう。
何しろ、遥たちがその採用を見送らねばならなかった諸事情とは、「自分達からは青羽に頼み辛い」というのが主な理由だったのだから。
「あの、先生、それって、先生が早見くんに頼んでくれるんです…よね?」
楓が差し当たっての不安材料としてその是非を投げ掛けると、中邑教諭はこれにも実に頼もしい即答を返してくれた。
「無論だ、早見には俺から上手く言っておこう」
中邑教諭の言う「上手く」がどんな塩梅なのかは分からないとしても、遥たちとしては、自分たちで青羽に「お願い」しなくていいというだけでかなりの大助かりだ。
こうなると残された問題は、青羽をどの席に移して、代わりに誰が遥の隣になるのかという点くらいだったが、これに関しても中邑教諭は抜かりが無かった。
「日南、明朝のHRでお前と早見の席を入れ替えるものとする。理由はそうだな、視力の低下という事にしておくか」
そんな対外的な言い訳まであつらえてもらえたとなれば、沙穂としても断然言う事は無く、これには景気よく二つ返事だ。
「分かりました!」
沙穂が席の交換を了承した事で問題点がほぼクリアとなった所で、中邑教諭は最後の締めくくりとして遥にも一つ確認を入れて来る。
「奏もそれでいいな? 後でやっぱり好きな男子の隣が良かったと言われても遅いぞ?」
恋に前向きな女子高生なら、それも無くは無い話だったのかもしれないが、当然ながら今の遥に関してはその限りでは一切ない。
「そ、そんなこと言いませんよ! それでだいじょぶなんでおねがいします!」
青羽の事を「好きな男子」と言われて、遥が思わず再び顔を真っ赤にしてしまった事はともかくとして、当事者が了承した事により取りあえず話自体はこれで纏まった。
「うむ、では明日からはしっかりと授業を受ける様に」
そんな言葉で面談自体を締めくくった中邑教諭は、そのまま席を立って面談室からも立ち去ろうとしたが、扉に手を掛けた処でふと足を止めて何やら遥の方へと振り返って来る。
「奏、あー…、うむ、気をつけて帰るんだぞ」
何かと思えば、告げて来たのはそんな他愛のない定型句で、結局はそれ以上の発言も特には無く、今度こそ中邑教諭は面談室を立ち去って行った。
「…何だったんだろ?」
「…うん、何だろね?」
少々不可解だった去り際に、遥と楓は顔を見合わせて小首を傾げさせるばかりだったが、その一方で沙穂だけが僅かに苦笑を洩らしていたのは、中邑教諭が再び父親の顔を覗かせかけていたのを目聡く見ていたからである。
もしかしたら中邑教諭は、中学生になる実の娘が反抗期か何かで、それと比べて随分と「可愛らしい」遥にすっかり父性を芽生えさせてしまったのかもしれない。
無論、実際の処は本人にでも聞いてみなければ確かめようも無い事で、それを敢えて聞きたいかどうかで行くと沙穂としては微妙なところではある。ただ、いずれにしろ、そんな中邑教諭のお蔭で、遥がようやく授業に差し障りが出ない程度には平穏な高校生活を送れそうである事には、沙穂も取りあえずは素直に感謝する事頻りではあった。




