5-8.腑に落ちない決めて
そんなこんなで迎えた放課後、遥は中邑教諭に改めて悩みを打ち明けるべく、昼休みに続いて本日二度目となる職員室横の面談室を訪れていた。
ただ、肝心の中邑教諭が顧問を務めている部活の方に一度顔を出さなければならないとかでまだやって来ていない為、遥は今現在それを待っている所ではある。
因みに、遥の記憶が正しければ、中邑教諭の顧問先は剣道部だった筈で、小耳に挟んだ話によるとその指導ぶりは非常に熱心で大変に厳しいらしいがそれはそれとして。
部活の指導も決しておろそかには出来ない教師の立派な務めではある為、遥もそれ自体には文句の言い様も無かったがしかし、厄介事を前にした待ち時間というのは相当な曲者である。
「…はぁ」
そもそも、ただでさえ中邑教諭に恋愛相談しなければならないというだけで気が重たかった遥からすると、待たされているこの時間はある種の生殺しに遭っているにも等しく、どうしたって心穏やかでは居られない。
「…うぅ」
中邑教諭は「悩みを聞く」とは言っていたものの、具体的に其れは一体何をどこまで話したらいいのか。ただ単に「隣の男子が気になって授業に集中できない」という差し当たっての問題だけを相談すれば良いのか、それとももっと突っ込んだところまで話すべきなのか。そうなるともしかしたら其れは、青羽と両想いになった経緯からという事になるのではないだろうか。と、そんな事を彼是と考えている内に、遥は何やら頭の中がぐらぐらとしてきて、出来る事ならば今すぐこの場から逃げ出したい気分にもなってしまう。
「はぅぅ…」
もちろん実際には逃げ出す訳にも行かなかった遥は、談話室の机に額をグリグリと押し付けて、これ以上余計な事を考えない様に何とか努めるしか無かったが、そんな折に、その小さな左肩にそっと触れてくる者があった。
「カナ、そんな思い詰めなくても大丈夫だって」
余りにも気負い過ぎている遥の様子を見兼ねて、優しく肩を撫でながら諭すようにそう言ってくれたのは、こういった時には大変心強い事でおなじみの沙穂である。
「そうだよカナちゃん、ワタシ達が付いてるんだから」
続いて右側から遥の背中をさすりながら些か能天気な様子で勇気付けてくれたのは、沙穂が居るのであれば当然ながら居ない訳が無かった楓だ。
「…ヒナぁ、ミナぁ」
遥が机から顔を上げて情けなさ一杯の面持ちで左右をそれぞれ見やると、沙穂と楓は若干の苦笑を洩らしつつもそれぞれ引き続き肩と背中をヨシヨシと撫でてくれる。
「はいはい、大丈夫だかんねー」
「うんうん、怖くない怖くない」
普段の遥なら、小さな子供をあやすかの様だった二人の調子に些かの不満を覚えるところを今はそんな余裕もなく、普通にしっかりと慰められてしまった上に二人の存在を心底頼もしく思えていた。
「二人とも、ありがとね…」
今までにも何度となく沙穂と楓に助けられてきた遥だが、今日はまた格別に二人が居てくれて良かったと思う事頻りである。
一応、遥のもしかしたらまだ在るかもしれない名誉の為に一つ断っておくと、二人がこの場に居るのは何も自分で上手く話せる自信の無かった遥が二人に付き添って欲しいと泣きついたからでは無い。
いや確かに、自信の有る無しで言えば、遥にはそんなものの持ち合わせは欠片ほどもありはしなかったし、二人に泣きつきたい気持ちが無かったかどうかでいけば、それは逆にその細くて頼りない両腕一杯に抱えて有り余る。
とは言え、例えどれだけ自信がなかろうとも、例えどれだけ心細かろうとも、基本的には真面目で良識人な遥には、時と場合を弁えようとする位には分別がちゃんとあった。
つまりそれがどういう事かというと、要するに遥は、担任教師との個人面談という体裁で設けられたこの場には、あくまでも自分一人で望まねばならないものと理解して、元々はちゃんとそのつもりで居たのだ。
ただ、遥が昼休みに行われた面談の内容とその続きが放課後にある事を二人に報告したところ、主に沙穂が何としても付いて行くと言い出して聞かず、それに楓も同調して、二人とも半ば強引に面談室まで付いて来てしまったというのが正確な事の次第である。
そんな成り行きであるからして、当然ながら沙穂と楓の同席は中邑教諭の了承を得てのものではなく、それだけに遥は当初怒られやしないかと気を揉んだりしていたものの、事ここに至ってはそれも最早どこ吹く風だ。
後は、中邑教諭が沙穂と楓の同席をどう判断するかだが、遥としては二人が一緒に居てくれるだけでも心強い事この上ない為、体裁や分別の話はともかくとして、出来る事ならば許可して欲しいというの今の偽らざる本音ではある。
「それにしても、中邑先生おそいねー」
この時、遥たちが談話室を訪れてからは既に大凡で三十分程が経過していただろうか。奇しくも、これまで中々やって来る気配の無かった中邑教諭が噂をすれば何とやらとばかりにようやっと姿を現したのは、少々待ちくたびれた様子の楓が首を逆さまにして、後方にある入口の方を見やった丁度そんなタイミングでの事だった。
「奏、待たせてすま―」
遥に対する詫びと共に談話室に入って来た中邑教諭がまず真っ先に目にしたものは、ちょっとばかり横着な恰好で入口の方を見やっていた楓だったとみてまず間違いない。
「むっ…」
「あっ…」
どうやらバッチリ目まで合ってしまったらしい中邑教諭と楓からそれぞれに上がった如何にも怪訝そうな声と少々間の抜けた声がものの見事に重なり合い、それからしばしの間、談話室が何とも言えない微妙な空気に包まれた事は言うまでもないだろう。
「……」
「……」
扉を開けた瞬間にヘンテコな姿勢の教え子と目が合ってしまった教師と、それを見られてしまった女子高生の心中たるや、双方共に中々味わい深いものがありそうだがそれはともかくとして、最初に平静さを取り戻して平常運転に戻ったのは中邑教諭だった。
「水瀬、姿勢を正しなさい」
まずは楓の横着を嗜めてから、中邑教諭は遥たちの対面に着席すべく、談話室の奥側へと向かっていく。
「え、えへへ…す、すみません…」
何とも気まずそうな様子で楓が姿勢を改めた処で、中邑教諭は丁度席に付き終えて、それからは対面する三人を順に見回して行った。
「ふむ…、お前たち三人の仲が良い事は知っているが、かといって日南と水瀬まで呼んだ覚えはないんだが?」
それは案の定の指摘であり、元々その事を気掛かりに思っていた遥は、中邑教諭が入室してきた際に起こった少々間抜けな一幕の所為で些か緩みかけていた緊張感が一気にぶり返して堪らずその場で縮こまってしまう。
「あ、あの…えっ…と…これは…そ、その…」
二人がこの場にいる理由を説明しなければと、取りあえずは口を開いてみた遥であるが、やはりいざ中邑教諭を前にするとどうしたって気負わずにはおれず、緊張も手伝って上手く言葉が出て来ない。ただそんな遥に代わって、というよりも元々そうするつもりだったのだろう、中邑教諭の指摘に対して一切の淀みも怯みも無く答えてくれたのがやはり沙穂だった。
「カナが心配だから付いてきました」
明瞭で簡潔だったその解答に中邑教諭は「ふむ」と感嘆の声を上げると、今度は反対側の楓へと視線を向ける。
「あっ…えっと、わ、ワタシもそうです!」
視線の意味合いを察した楓は、沙穂ほど淀みなくとはいかないながらも、回答の内容としてはこちらも明瞭で簡潔だった。
「成程、友人の為に行動できると言うのは実に良い心掛けだ」
これで中邑教諭が二人の同席を良しとしてくれれば万事世は事も無しであるが、勿論現実はそこまで簡単ではない。
「しかし、友人同士でも尊重すべきプライバシーというものは有る」
おそらく中邑教諭は、だから沙穂と楓は首を突っ込むべきではないと、暗に退出を促しているのだろう。確かにこれから遥が相談すべき内容の性質を考えれば、それは至って常識的な当然の判断ではあったかもしれない。ただし、それで沙穂と楓が大人しく納得してそのまま黙って引き下がったかといえば、当然そんな事には全くもってならなかった。
「大丈夫です! あたしら先生よりも先にカナの相談に乗ってますから!」
「そうですよ! ワタシたち、先生なんかより、よっぽど詳しいんです!」
そう、事、今回の問題に関しては、当の本人である遥を除けば、沙穂と楓ほどそれに精通している者は他になく、そんな二人にプライバシーなんて理由を持ち出してみたところで怯む要素が一切無かったのだ。
「ふむ、日南と水瀬はこう言っているが、どうなんだ奏?」
中邑教諭に真偽の程を問い掛けられた遥は、思わずビクッとしてしまいながらも、沙穂と楓の主張がまごう事無き事実である事を頻りに頷いて肯定する。
「は、はい! ほんとです!」
当事者である遥がそれを認めたとなれば、中邑教諭としてもこれは一考の余地があった様で、対面している三人を改めて順に見回しながら少しばかりの思案顔だ。
「ふぅむ…」
これで今度こそ中邑教諭が「そう言う事なら」という感じで沙穂と楓の同席が認めてくれていたら良かったのだが、現実はまだまだそう簡単にはいってくれなかった。
「…だが、今の話を聞く限りでは、日南と水瀬は奏の相談を受けながらも悩み自体は解消してやれなかったという事になるな?」
それは大変に痛い指摘であり、実際、遥の悩みをどうすることもできなかった事実があっただけに、これには沙穂と楓も思わず言葉に詰まってしまう。
「…そ、それは…」
「その…えっと…」
こうなってくると理由や心がけはどうであれ、二人の存在は特に中邑教諭からすれば野次馬とそう変わらず、このままでは退席を言い渡されるのも最早時間の問題だ。
二人としても、問題解決という点では自分たちが「役立たず」である事をどうしたって認めざるを得なかったがしかし、だからといってここでおめおめと諦めはしなかったのがもちろん沙穂だった。
「で、でも先生、考えてもみてください、カナはすっごく恥ずかしがり屋だから、あたしらが居た方が絶対に話はスムーズですよ!」
おそらく沙穂は、元男の子としても現女の子としても異性に対して奥手な遥の性格を「恥ずかしがり屋」とそう表現したのだろう。遥としても、確かに今まで沙穂と楓にはそんなところを沢山見られている為、「すっごく」という強調表現は若干不本意ではありつつも、その評価はそれなりに順当だと思わないではない。ただ、それこそプライベートなところ等殆ど見せた事がない筈の中邑教諭までもがこれになにやら上々の反応を見せていたとなると、それは果たしてどうなのだろうか。
「成程、確かにそれはそうだな」
その言い様からして、中邑教諭からも「恥ずかしがり屋」だと認識されていた事は最早完全確定だが、教師陣の前では真面目な普通の生徒で通していたつもりだった遥からすれば、一体何が「成程」で何が「確かに」なのかさっぱりだ。
「え、えー…」
これには遥も思わずの不平の声を上げてしまうも、楓がそれを「まぁまぁ」と宥め、そうこうしている間にどうやら中邑教諭の腹積もりが決まった様だった。
「ふぅむ…そう言う事であれば、日南と水瀬にも話に加わってもらおうでは無いか」
しばしの思案を経た末に、中邑教諭から遂に引き出した同席の許可に沙穂と楓はその表情をパッと明るくして、それぞれに左右から遥の手を取る。
「…やった!」
「よかった!」
確かに遥としても、沙穂と楓が居てくれると非常に心強い為、二人の同席が許された事に関しては喜ばしい以外のなにものでも無い。
ただ、決め手となったのが中邑教諭にそんな一面を見せていた積もりの一切なかった「恥ずかしがり屋」という印象であるらしい事については、何となく今一腑に落ちない遥ではあった。




