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5-6.普通の悩み

 沙穂の報告によると、取りあえず今日の所は「遥が慣れるまでの間、学校では必要以上に話しかけない」というこちらの方針で、何とか青羽に合意してもらったとの事だった。

 遥としては、今日の事を踏まえて学校以外でもその様にしてもらえるとより有難いところではあったのだが、沙穂曰く、そこは青羽が頑として譲らなかったらしい。

 一応、青羽はその上で、今日の様な奇襲紛いの真似だけはしない事を沙穂に約束してくれた様なので、そこに関しては遥も「取りあえず今日の所は」一安心であろう。

 尤も、それらは、あくまで最低限の安全マージンが確保されただけの事でしかなく、遥が青羽を意識してモジモジソワソワしてしまう事には依然として何ら変わりない。

 しかも、カフェ『メリル』で起こった青羽の奇襲が相当に強烈だった所為で、その症状自体は寧ろどんどんと悪化していっている節すらもあった。

 その証拠に、遥はその日、家に帰ってからも一向に気が休まる事は無く、現に今も自室のベッドで枕に顔をうずめて一人悶々としてる真っ最中だった。

「むふぅ…」

 今日一日の事を振り返ってみれば、それはもう溜息くらいは何度だって零れ出るというものだが、そうかと思えば遥は不意にベッドから身体を起こして、とつぜん枕をポコポコ叩き出したりもする。

「うー…ボクばっかりこんなの不公平だよぉ…!」

 一つ断っておくと、これは別に女の子となってしまった自身の特異な身の上とその数奇な運命を呪っての言葉ではない。

「早見君は全然へーきそうなのにぃ…!」

 という事であり、要するに遥は、立場的にも条件的にも同じ土俵に居る筈の青羽が自分の様にモジモジソワソワしていない事に対して不平を洩らしているのだ。

「早見君…本当はボクの事…そんなに好きじゃないのかな…」

 至って平常運転に思えてならなかった青羽の様子と持ち前のネガティブ思考からついそんな事を考えずにいられなかった遥は、今一度ベッドに倒れ込んで再び枕に顔をうずめさせる。

「うぅ…そんな事…ないよね…? ちゃんと…両想いだよね…? だって…そうじゃなかったら…あんな…」

 ここでうっかりカフェ『メリル』での事を思い返してしまえば、その時の衝撃と動揺までもがつぶさに蘇ってしまい、遥は堪らずベッド上で足をばたつかせて一人で悶絶だ。

「むーっ!」

 これこの様に、遥は家に帰ってからずっとこんな調子で、赤くなったり青くなったり、また赤くなったりと、傍から見れば完全に情緒不安定である。

「あぅぅ…」

 当の遥も、自身の余りにも振れ幅激しい心の動きにほとほと困り果てており、一頻り悶絶した後は、ぐったりとして唯々溜息をこぼすばかりだ。

「もう…どうしたらいいの…」

 遥は女の子になってからというもの、大小問わず様々な問題と対峙して来たが、もしかしたら今回の此れは今までで一番やっかいかもしれない。

 何せ、こればっかりは遥の心持が全てと言っても過言では無く、何かこれといった具体的な対処方法がある訳でも無いのだ。

「ボク…恋愛に向いてないのかも…」

 自分で口にしておきながら、「恋愛」というあからさますぎた単語に遥が思わず恥ずかしくなってしまったのはともかくとして、流石にこれは思い詰めすぎというやつである。

「両想いって…なんかこう…もっとハッピーな感じだと思ってたのにな…」

 遥が今までぶつかって来た問題に比べれば、今回の此れはある意味かなり「ハッピー」な部類の悩みではあるのだが、このあたりもまた本人の心持次第だろうか。

 問題の性質や大小にかかわらず、それを抱えている当の本人が真剣に悩んでいるのならばそれは大事足り得るのだから、遥がそうだと思えばそうなのだ。

 ただ、だからといって他者がそれをその通りに理解してくれるかどうかは、もちろん全くもって別の話である。

「はぁ…」

 それは、解決の糸口の見つからない問題を前に、最早唯々溜息をつくしかなくなった遥が、ふと何気なく枕元に置いてあったスマホに手を伸ばそうとしたその時だった。

「今晩はー」

 玄関の扉が開閉する音と共に、階下から聞こえて来た大変に馴染みのあるその声はそう、賢治である。

「…っ!」

 賢治の声に反応した遥がベッドから身体を起こしている間に、ドカドカとした重たい足音が三階までの階段を昇り切り、程なくしてカチャリと部屋のドアノブが回された。

「…っ!!」

 思いのほか早く部屋までやって来た賢治に、遥は些か慌てながらもベッドの上にちょこんと正座をして一応の出迎え態勢で身構える。が、賢治は扉を数センチだけ開けたところで、何故だかそれを再びパタリと閉ざして部屋には入って来なかった。

「…?」

 遥は意味の良く分からなかった賢治の行動に一瞬キョトンとしてしまったが、何の事は無い。

「すまん、また前の癖でいきなり入ろうとしちまった…、ハル、今入っても大丈夫か?」

 要するに賢治は、以前、遥が自分はもう女の子だから昔の様にいきなり部屋に入って来るなと抗議した事をちゃんと気に掛けてくれていただけの事だった。

「あっ、あぁ…、うん、だいじょぶだよ」

 謎の行動について納得のいった遥が入室しても問題無い事を告げると、今度こそ賢治は扉を開け放って部屋の中へと入って来くる。

「悪い、気を付けてるつもりなんだが…油断するとついノックするのを忘れちまう…」

 賢治は以前の習慣が抜けきっていない事を些か申し訳なさそうにするも、実のところ遥の方が今ではもうノックの件などすっかり忘れていた事はここだけの話だ。

 あの時は女の子としての羞恥心を学習した直後だった為、何だかんだと言いはしたものの、結局のところ昔の習慣や癖が今一つ抜けきっていないのは遥も一緒なのだ。

「なるべくで…いいよ、うん…、それよりも、えぇと…今日は何? どうしたの?」

 自分が忘れていただけにノックの件を早々に脇へと追いやった遥は、話題転換も兼ねて取りあえずは賢治の用向きについて訊ねてみた。

「あぁ、別にどうって事は無いんだが」

 つい数時間前に青羽もそんな事を言っていたような気がした遥は、その後に起こった事までつぶさに思い出して、うっかり賢治の前で身悶えしそうになる。

「~っ!」

 咄嗟に枕を手繰り寄せて、それをムギュッと抱き締める事で何とかその場は耐え忍んだ遥だったが、その行動自体がそもそも不自然極まりなく、当然ながら賢治はこれに眉をひそめて怪訝な顔をした。

「…何してんだ?」

 何と言われても、遥としては正直なところなどもちろん答えられる筈はなく、これにはしどろもどろになって適当に言葉を濁すしかない。

「え、えっとぉ…、その…、こうすると…枕が柔らかくなって…、良く眠れたりする…かなって…」

 それらしい言い訳を捻り出そうと頑張ってはみたものの、アドリブ力に乏しい遥ではこの程度が関の山であり、これでは賢治も益々怪訝な顔をするばかりだ。

「…それなら寝る直前にやった方が良くないか?」

 このとき時刻は夜の八時を少し回ったあたりで、いくら身体がお子様の遥とはいえ就寝するにはまだ幾らも早く、それは大変に尤もかつ痛い指摘である。

「そ、そだ…ね…、そうだよねー…あ、あははは…」

 結局、最後は笑って誤魔化してみるしかなかった遥であるが、残念ながらそれで誤魔化されてくれる様な賢治では無かった。

「なぁ、ハル、もしかしなくても、何かあったんじゃないか?」

 鈍感ぶりには定評のある賢治でも、遥の妙な行動と下手な言い訳からそれくらいの事は察しがついた様で、こうなるとなかなかに厄介である。

「何かあるなら相談して欲しい、俺はいつだってハルの力になりたいんだ」

 ベッドの脇にまで歩み寄って来た賢治にじっと顔を覗き込まれながら、至って真剣な眼差しと共にそう言われてしまうと、遥にこれを突っぱねるのはほぼ不可能だ。

「あ…ぅ、えっ…と、あ、あの…、が、学校でね、早見君と…その…、どうやって接したらいいのか…わ、分からなくて…!」

 結局、素直に悩みを打ち明けるより他なかった遥だがしかし、これに対する賢治の反応はといえば、何やら拍子抜けした様子で大変に微妙な面持ちになっていた。

「……ん? それだけ…か?」

 もしかしたら賢治は、これまでが大抵そうだった様に、今回も遥はその特異な身の上に起因する何らかの重篤な問題を抱えているものと思っていたのかもしれない。そう考えれば、賢治からこんな反応が返って来たのも頷ける話ではあったのだがしかし、しかしである。せっかく恥を忍んで悩みを打ち明けたつもりだった遥からすれば、この言い草はあんまりといえばあんまりだった。

「…それだけって、ボク…すごく困ってるのに…それだけって…」

 悲しいやら腹立たしいやらで、遥が枕の両端をギュッと握りしめながらわなわなと肩を震わせると、流石の賢治も自身の失言に気が付いたようでこれには俄かに慌て出す。

「あっ、い、いや、違うんだハル! 何つうか、あんまりにも普通だったから…!」

 やはり賢治は遥ならではの特殊な悩みを想定していた様だが、こんな言い方では何の弁解にもなっていないどころか完全に藪蛇でしかなかった。

「賢治のアホぉッ! ボクが普通の事で悩んでたっていいでしょ!」

 急激に上昇していった感情ボルテージに身を任せて遥が握りしめていた枕でバカスカと殴りつければ、賢治は一応の防御姿勢をとりながらひたすらに平謝りである。

「すまん! マジですまん! 全然良い! いや、ハルが悩んでるのは良く無いが、普通で全然良い! 全然良いと思うぞ!」

 これまで幾度となく、「何故遥だけが」とその不条理な運命に憤って来た賢治なのだから、その言葉は嘘偽りのない掛け値なしの本音だ。それどころか、遥が「普通の事」で悩めるようなったという事は、それだけ余裕が出てきた証拠でもあり、賢治はそれを喜ばしくすら思っていた。だからだろうか、賢治が言わなくてもいい余計な一言をついうっかり口にしてしまったのは。

「そうか、普通かぁ! そういやハルは昔から気になる女子の前だとまともに喋れなかったもんな!」

 確かにそのエピソードは、遥が「普通の男の子」だった頃に良く患っていた「普通の悩み」ではあったし、今回のケースも分類的にはその類で間違いは無かった。

 それに加えて、賢治にとってそのエピソードは、懐かしくも微笑ましい昔話程度の認識でもあったのだろう。がしかし、三年間時間をすっ飛ばしている遥からすれば、それはそこまで風化した記憶でも無く、尚且つどう考えても恥ずかしい部類のエピソードだった。

「け、け、賢治の…」

 ただでさえ感情が昂っていた所に、そんな余計な話まで持ち出された思春期真っ盛りの遥がどんな反応を見せるかといえば、それはもう一つしか無い。

「うにゃぁーーーーー!」

 真っ赤な顔で完全な涙目になってしまった遥は、もう罵倒の言葉もろくに出て来ずに、へんてこな雄叫びを上げて、只ひたすらに枕をポコポコと賢治に叩きつける。

「おわっ! ちょっ、ハル!? お、落ち着けって! な? な?」

 何やら遥の機嫌を益々損ねてしまった賢治は必死で宥めようとするも、事ここに至ってしまうと勿論それは無理な相談という奴だ。

 結局、賢治は遥が暴れ疲れて大人しくなるまでの間、ひたすらに枕攻撃を耐え続けるより他なかった。

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