5-5.経験値不足
今日一日を通して、ずっとモジモジソワソワしっぱなしだった遥の様子を直ぐ横の席で目の当たりにしていた筈の青羽なのだから、きっと少なからず思うところがあったに違いない。
それでなくとも、美乃梨の危惧していた「嫌がらせ」の件を踏まえている以上、学校内における遥との接し方について、青羽は青羽でそれなりに色々と考えてはいた筈だ。
だからもしかしたら、青羽がカフェ『メリル』にやってきたのも、本当はその事を遥と直に話し合っておきたかったからなのかもしれない。
ただそれならそれで、青羽はメッセージか何かで遥にその旨を予め伝えた上で、この場にやって来るべきだった。
そうすれば遥だって多少なりとも心の準備くらいは整えておけた筈で、対話ができる程度にはモジモジソワソワを抑え込めていたかもしれないのだ。
それなのに青羽は何の告知もなく突然現れた挙句、あまつさえ「君に巡り会えると信じていた」的なニュアンスの小っ恥ずかしい台詞を臆面もなくのたまったのである。
いや、実際の言い回しとしてはもう少しマイルドではあったし、青羽の性格を考えれば、その時思った素直な気持ちをただストレートに述べただけで、別段気取った事を言ったつもりなんかも毛頭ありはしなかったのだろう。
だがしかし、青羽がそういう自分の気持ちを素直に言ってしまえる男の子だったからこそ、その言葉には筆舌しがたい破壊力があった訳で、これには思わずの悶絶を禁じ得なかった遥ばかりではなく、沙穂と楓までもがもうすっかり唖然となっていた。
「なんか…少女漫画みたい…」
すぐ横で楓がボソッと洩らしたその感想に、遥は床につかない足をジタバタとさせるのに加えて、両手でテーブルをバシバシと叩いてより一層の悶絶である。
「んむーっ!?」
このシュチェーションを少女漫画的だと言うのなら、自分の役どころは必然的にヒロインという事になってしまうと、そんな風にうっかり考えてしまった遥は勝手に益々のドツボにハマって、一気に首筋まで真っ赤だ。
「えっ? 奏さん? ど、どうしたの?」
等と少々驚いた様子で問い掛けて来る青羽であるが、遥からすればもうどうしたもこうしたもあったものではない。
「フッー!」
青羽の問いになど当然ながらまともに応じられるはずも無かった遥は、気が動転する余り、しまいには気の立った猫みたいなヘンテコな声まで上げてしまう始末だ。
「え、えぇ?」
何やら遥に威嚇されてしまった青羽はこれに大変困惑した様子を見せながら、助けを求めて沙穂と楓の方へ視線うつす。
「えぇと…、奏さんは…どうしちゃったの…かな?」
相手を替えて今一度同じ事を問い掛けてみた青羽だが、これに楓はちょっぴり困った顔で苦笑いを返し、沙穂の方は完全に呆れ返った様子で深々とした溜息を洩らした。
「早見、アンタ…流石にそれはなくない?」
「早見くんって、そういうとこあるよね…」
沙穂が辛辣なのは大体何時もの事ではあるとしても、流石に今回ばかりは青羽に肝要な事に定評のある楓も些か手厳しい。
「えっと…良く分かんないけど、何かゴメン…?」
二人からのダメ出しに青羽が何となくの雰囲気で謝ってしまうと、沙穂は引き続きの呆れ返った面持ちで溜息の深度一割増にした。
「はぁ…アンタ、もう行きなさいよ…」
このままでは遥も気が気ではないだろうと、その様に判断したのか、沙穂はシッシと手振りも合わせて、青羽をこの場から追い払おうとする。
ただ残念な事に、青羽はこれを聞き入れ様とはせず、それどころか少しばかりムッとした表情で抗議すら返して来た。
「ちょっとまってよ、俺、折角だから、今の内にこれからの事とか奏さんと話しておきたいんだけど!」
それが今思い付いた事なのか、それとも当初から念頭に置いていた事なのかは定かでないとしても、やはり青羽はその事をちゃんと気掛かりには思っていた様だ。
それに、青羽が口にした「今の内に」という言葉が、二学期に入ってまだ間もない「今の内に」という意味合いなのであれば、その判断自体は割と賢明な部類でもあった。
「う、うーん…、いや、アンタの言う事は…まぁ、分かるんだけどね…?」
沙穂は合理的な性格であるが故に、青羽の主張には一理あった事を認めざるえを得ず、どうしたものかとしばし逡巡してしまう。
今後の事を考えれば、確かにできるだけ早い内に、遥と青羽の間で方針のすり合わせをきちんとやっておくに越したことは無いのだ。
「ただ…ねぇ…」
沙穂がチラリと遥の様子を窺ってみれば、流石に今はもうジタバタとはしていなかったが、その代わりにいつの間にやら、青羽の方へと向き返っている楓の背中にへばりついて、ただでさえ小さなその身体をより一層縮こまらせていた。
おそらく遥の意図としては、少しでも青羽の視界から外れたいといったところなのだろうが、普段は元男の子としての羞恥心から殆どベタベタしてこない事を考えるとこれはもうよっぽどの事態である。これでは例え青羽の主張にどれだけの理があろうとも、それを受け入れるなんて事はどう考えたって現実的ではない。
「ヒナちゃん、ヒナちゃん…」
沙穂の視線に気付いて向き直って来た楓もその意図を何となく読み取ったらしく、左右に首を振って、今の遥には青羽と対話できる余裕など皆無である事を示してくる。
その背中で遥の様子や状態をつぶさに感じ取っているであろう楓がそんな意思表示をしてきたともなれば、沙穂としてはもう答えが出たも同然だ。
「うん…取り敢えず、アンタもさっき聞いていたとは思うけど、しばらくの間、学校ではなるべくカナに話しかけないって事で、今日の処は納得してくんないかな…」
結局、しばし悩んだ挙句、総合的に見て沙穂が導き出せた結論は、先ほど自分たちだけで勝手に決めた方針を一先ずの妥協点として青羽に提示してみる事くらいだった。
無論、本来ならば、細かな事まで含めて当事者である遥と青羽が二人でしっかりキッチリ話し合うのが最善で、沙穂だって出来る事ならばそうしてもらいたいというのが本音ではあったのだ。しかし、無理な物は無理なのだから沙穂としてはどうしようもなく、後はもう青羽が一先ずはこれで納得してくれるのを祈るばかりである。そして幸いな事に、そんな沙穂の祈りが通じたのか、はたまた流石の青羽も察してくれたのか、これには意外にもあっさりと素直な了承の頷きが返って来きた。
「分かった」
その返答に沙穂のみならず、楓とその背中にへばりついている遥こそが誰よりもホッと胸を撫で下ろしかける。
「それじゃぁ―」
それが別れを告げる上の句で、その通りに青羽が素直にこの場から立ち去ってくれていれば、その時こそ三人は真にホッと出来ていたのだがしかし、事件が起こったのは正しくその時だった。
「―今ここでなら、奏さんと話しても良いってことだよね」
沙穂が提示した方針は、確かに場所を学校に限定したものだった為、百歩くらい譲れば、その解釈も文脈的には辻褄が合っていたと言えなくもない。ただ、そこには敢えて言葉にしなかった行間というものがある訳で、幾らなんでもこれは屁理屈が過ぎるというものだ。と、沙穂はそのように咄嗟の反論できていれば良かったのだが、余りの飛躍に思わず唖然となってしまい、その所為で致命的な隙を見せてしまう事となった。
何せ沙穂が唖然となっていたその一瞬に、青羽は三人が座っているボックス席の内側に一歩踏み込んできたかと思うと、楓の、というよりも遥の直ぐ真横に屈みこんでその耳元へスッと顔を寄せて来たのだ。
「…ちょっ!?」
「早見くん!?」
「…ひっ!? 」
遥たちからすれば、その行動は大胆不敵に過ぎるというもので、これに三人が揃って愕然となったのは言うまでも無いがしかし、青羽の攻勢は寧ろここからが本番だった。
「奏さん、顔、見せて欲しいな」
楓の背中に顔をうずめていた遥の耳元で、青羽がそんなまたしてもの小っ恥ずかしい台詞を囁きかけてきたものだから、女の子達三人は最早愕然を通り越しての騒然である。
「ひあぁぁっ!?」
中でも、青羽からのダイレクトアタックをもろに食らった遥ときたら、大変に情けない悲鳴と共に堪らずその場から飛び上がってしまい、そのまま椅子からも転げ落ちてしまった程だ。
「は、早見くん!? 早見くん!? えぇぇ!? 早見くん!?」
楓などももうすっかり気が動転してしまったらしく、目を白黒とさせながら青羽の名前を連呼するのが精一杯である。
そんな中、唯一冷静に、とは流石にいかないながらも、具体的なアクションを起こせる程度にはまだ思考を働かせられていたのがやはり沙穂だった。
「は、は、早見、ちょっと、ちょっとこっち来なさい…!」
少なからずの動揺を見せながらも、勢いよく立ち上がった沙穂は、青羽が肩から掛けていたスポーツバッグのストラップ引っ掴むなり、その身柄を店の外にまで強制連行してゆく。
「おわっ、ちょっ、日南さん!? 無理に引っ張ったら痛いって…!」
そんな抗議の声を上げる青羽を沙穂が無理やり店外まで連れ去っていったところで、まず楓がハッと我に返って、椅子から転げ落ちたままその場で固まってしまっていた遥の傍に駆け寄って来た。
「か、カナちゃん大丈夫?」
それが怪我の有無に関する問い掛けであれば、遥は特にこれといった被害を被ってはおらず、それに関しては不幸中の幸いではあっただろう。ただ、それが精神的なダメージに関する問い掛けだったとすると、もちろん遥は全くもって大丈夫などではなかった。
「な…なっ…!?」
何で青羽はあんな事をと、そんな疑問を呈したかった遥だが、動揺の余りそれが上手く言葉にはならなかったのはもう無理の無い事だ。
「あー…うん、何でだろうね…」
こういう時は存外に察しの良い楓は、遥の疑問については比較的正確に汲み取りながらも、それに対する適切な解答までは流石に用意できていなかったらしく、ちょっぴり困った顔で小首を傾げさせた。
「うーん…、男の子って、難しいねー…」
実のところ、楓には何となく思う所が無いでは無かったのだが、今は敢えてそれを言わずに、そんな曖昧な言葉でお茶を濁したのには少々の訳がある。何せ楓が思い至っていたのは、「青羽が遥を好きだから」という、どう考えても遥の動揺に拍車を掛ける事請け合いの割と身も蓋もない結論だったからだ。
「男の子…こあい…」
そう言う遥だって元はれっきとした男の子だったのだが、こと恋愛に関しては完全に経験値不足であり、青羽が何を考えていたのかサッパリ分からずに、今はもう理解の及ばない事柄に只々慄くばかりである。
その後、青羽を何とかかんとか説き伏せてどうにかお引き取り願う事に成功した沙穂が酷くぐったりした様子で戻って来たのは、それから三十分ほど経ってからの事だった。




