5-3.確率と運
始業式の翌日。
沙穂の言っていた通り、一年B組では朝のショートホームルームで早々の席替えが実施される事となり、これで青羽と席が離れれば遥はめでたく憂いの無い平穏な二学期を手に入れられる筈だったのだがしかし、物事とは往々にしてままならないものである。
「席順はクジ引きだ。今から箱を回すので、各自中に入っている紙を一枚引く様に」
中邑教諭の用意していた「箱」が御煎餅のアルミ缶を流用した物だった事はまず良いとして、中のクジが二つ折りにすらなっていない番号丸見えの状態だった事もまだ別に問題では無かった。
「全員が引き終わった時点でランダムに番号を割り振っていくからな」
生徒達が箱を回している間に、中邑教諭はクジの方式を説明しながら、黒板に白いチョークで大きな四角を書いて、それを席数分の升目に切っていく。
詰まるところ、生徒達がクジを引いている時点では番号と席位置には何の結びつきも無い為、紙に書かれた数字が丸見えでも何ら差し支えないという事の様だ。
中邑教諭が紙を折る手間を惜しんだとかそう言う訳では、もしかしたらあるのかもしれないが、そういった点も含めて合理的なやり方ではある。
生徒達もそのあたりの合理性を理解したのか、それとも中邑教諭の厳めしい顔付きから「早く済ませろ」という無言の圧を感じたのか、いずれにしろクジは手際よく回されてゆき、程なくして遥の番がやって来た。
「はい、奏さんどうぞ」
後ろの席から遥の背中をチョイチョイとつついて箱を渡して来たこの女生徒は、田澤奈々子といって、小森茜と仲のいい人畜無害そうな雰囲気の女の子だ。
「ありがと」
田澤奈々子にお礼を述べて箱を受け取った遥は、早速中から適当にクジを一枚引いて手早く次へ回そうとしたが、そこである事に気付いてピタリと動きを止めてしまった。
「…っ!」
箱が後ろから回って来たという事はつまり、流れからいって遥はこれを隣へと渡さなければならない。それが左隣であれば何の問題も無かったのだがしかし、残念ながら箱は左手側の窓際列から回し始められている。という事は、必然的に遥が箱を渡すべき相手は右隣になってしまう訳で、その右隣とは言うまでも無く青羽に他らないのだ。
「はわっ…」
昨日の今日で意識改善がされている筈も無かった遥は、思いがけず青羽と相対する必要に迫られて当然ながらのモジモジソワソワを発動だ。
しかしながら、朝のショーとホームルームは十分間しかなく、ここで変にまごついては間違いなくクラス全体に迷惑をかけてしまう。現にそうこうしている今も、特に中邑教諭からの「早くせよ」という無言の圧が増してきている気がしてならず、こうなってはもう取りあえず遥は思いっ切りよく行くより他なかった。
「は、早見君! つ、つぎ! ど、どうじょ!」
思い切りすぎた余り、変に勢い込んでうっかり言葉を甘噛みしてしまった辺りは、とりあえずこの段階では仕方の無いところだっただろう。
「あ、うん、ありがとう奏さん」
箱を受け取った青羽が若干の苦笑気味だった為に、遥はもう堪らず真っ赤な顔を俯かせるばかりだったが、後の事を思えばこれくらいはまだほんの軽傷でしかなかったのだ。
「よーし、全員クジを引き終わったなー」
遥が多少もたついた以降はスムーズに箱が回されてゆき、最後の生徒がクジを引き終わった処で、いよいよ運命を決する席順の抽選タイム。かと思いきや、中邑教諭はそれに先立って、二人の生徒を名指しして一点の確認を入れて来た。
「奏と須藤、お前たち二人は都合上、最前列と最後尾からは移動させられない」
中邑教諭が言う「都合」とはもちろん、高校生としてはそれぞれ両極端に規格外な二人の体格面の都合であり、言われてみればそれは誰しもが成程と納得できる話だ。
実際問題、一四〇センチに満たない遥は最前列以外になると黒板が見えなくなってしまうし、二メーター近い須藤隆史は最後尾以外では後ろの視界を塞いでしまうのだから、これはもう仕方の無い措置なのである。
尤も、それならそれで、自分と須藤隆史は別にクジを引かなくても良かったのではないかと思わないでも無かった遥だが、きっとそこには中邑教諭なりの何らかの意図があったに違いない。
「その代り奏と須藤はそれぞれ最前列と最後尾の中から好きな位置を選んでよい」
実質席替えに参加できない二人に対するこの代替措置にはクラス内から若干の「えー」という不平の声が上がるも、中邑教諭のひと睨みでそれもすぐさま沈静化する。
「ではまず須藤から、クジで引いた番号を言って席位置を指定しなさい」
クラス内が鎮まったのを認めて中邑教諭がまず名指したのは須藤隆史の方で、こういう事を直ぐには決められない質の遥は、このとき呑気にもひっそりと一人胸を撫で下ろしたりもしていた。
「番号は十六です。席はこのままで構いません」
須藤隆史が特に考える素振りも見せずに思いの外手っ取り早く自分の席位置を決めてしまった為、結果的に遥は余り決断の猶予を得られなかったが、思えばこれが良くなかったのかもしれない。
「よろしい、次は奏、同じくクジの番号と希望の席位置を申告しなさい」
須藤隆史に続けて中邑教諭に名指しされた遥は、まだ席位置を決めかねていた所為もあって少しばかり焦って少々ワタワタとしてしまい、その所為で図らずも重大なミスチョイスを犯す事となった。
「は、はい! あっ、番号は二十八で…、席は…えっと…えっと…ま、窓際で!」
中邑教諭の圧力とクラスメイト達から注がれていたかもしれない注目の視線に圧される形で、遥が咄嗟に選んでしまったその席位置は、一見すると焦っていた割にはこの時点で選び得る最善の選択ではあっただろう。
青羽と離れた席位置になりたいという遥の希望を考えれば、窓際は隣接する席が一列少ない為、確率的な面でのリスクヘッジが一応は出来ていたのだ。
「須藤は現状維持で奏は窓際へ移動だな…、では残りの席を決めていく」
遥と須藤隆史の席位置が確定した所で、今度こそ席替えの抽選を開始すべく黒板の空いている升目に残りの番号を書き込み始めた中邑教諭のやり方は、確かに当初の宣言通り規則性の無い完全なアトランダムだった。
無論、所詮は人間のやる事なので、そこには好みや癖といった類の中邑教諭自身も知覚していない様な何等かの法則性が存在していた可能性はある。
ただそんなものを予見してクジの番号を選んでいた生徒などはまず間違いなく一人としていない筈なので、席替えの抽選はあくまでも無作為の範疇だった見て差し支えは無い。
実際、中邑教諭が数字を書き込んでゆく度に、該当する番号のクジを引いていたらしい生徒達は順次悲喜こもごもの反応を見せていた。
「あぁぁ…! 真ん中の一番前…! ワタシの二学期…オワタッ…!」
早速抽選結果が出たらしい楓は、可哀想に最も望まざる席に当たってしまった様でご覧の嘆き様である。
「よっしゃぁ、窓際の最後尾ゲットォ!」
おそらく一番人気と思われる絶好の席位置を見事射止めた幸運な生徒は、下村翔ことマサオだ。
「あー…あたし今と同じだー…、移動しなくていいから楽だわぁ…」
大変けだるげかつ眠たそうにそんなものぐさな感想を述べたのは沙穂で、どうやらこちらは席替えの甲斐なく現状維持だったらしい。
「新しい席位置はこの通りだ、一限目が始まる前に移動しておく様に」
生徒達が新しい席位置の抽選結果に一喜一憂している間に全ての升目を埋めきっていた中邑教諭がそれだけ告げて教室を出て行ったのと、朝のショートホームルームの終了を知らせるチャイムが鳴ったのはほぼ同時だっただろうか。
教室に残された生徒達は中邑教諭の言いつけ通り、新しい席位置へと移るべく各々に移動を開始し、遥はここで遂に世のままならなさを思い知る事となった。
「っしょ…」
遥が勉強道具を詰め込んだリュックと共に、自ら希望した左隣の窓際席に移ると、在ろうことか青羽もそれに追従する様にそのままそっくり左にズレて来たのである。
「奏さん、また隣だね」
青羽はいつも通りの爽やかさで、ちょっぴり嬉しそうにそんな事を言ってきたがしかし、遥は一瞬それが一体全体どういうことなのかまるで意味が分からなかった。いや、正確に言うと、青羽の言っている言葉の意味合い自体は理解出来てはいたものの、遥には何がどうしてそんな事になったのかが全くもって意味不明だったのだ。
「えっ…な…えぇ?」
遥が堪らずの困惑を露わにすると、青羽はその様子に少しばかり困った顔で苦笑する。
「えっと…だから俺の新しい席、ココ、なんだけど…」
そう言ってさっきまで遥が座っていた席を指し示した青羽は、ご丁寧にもその証拠にと先程のクジで引いた紙を見せてくれもした。
「…えぇぇ?」
青羽のクジには中邑教諭の筆跡で十五と書かれており、黒板の抽選結果と照らし合わせてみれば、確かにその番号は遥が移った席の右隣に当たる窓際から二列目の一番前で間違いはない。
「ね、合ってるでしょ?」
動かざる証拠を突き付けられてしまった以上、取りあえず青羽がまたしても隣の席である事は最早疑いようが無い事としても、それでもやはり遥には何でそんなことが起こり得たのかサッパリ意味が分からなかった。
沙穂は昨日、席替えをすればかなりの確率で青羽は隣の席ではなくなると、そう言っていた筈で、その上その確率は、遥が窓際の席を選んだ事によって、より一層に高くもなっていたのだ。
「こんな事って…あるの…?」
等と疑問を呈してみたところで、現にこうして青羽は隣の席を引き当てているのだからそれは「有った」のである。もし、窓際ではない席位置を選んでいたらこんな事になってはいなかったかもしれないと、ここへ来て自分の犯してしまったミスチョイスを後悔する遥だが、もちろん今更そんなたらればの話をした処で完全に後の祭りだ。
「俺、こう見えて結構クジ運いいんだよね」
青羽が自分をどう見られていると思っているのかは定かでないとしても、運だと言われてしまうと遥としてはもう返せる言葉が何一つ無い。
「あ、うん…そう…だね…」
結局のところ確率はあくまでも確率でしかなく、物事とは往々にしてままならないものであると、遥がそんなこの世の不条理をつぶさに思い知らされた二学期二日目の朝だった。




