5-1.憂鬱な朝
来たる九月一日。遥は朝一番からたいそう憂鬱な気分だった。
いつもの習慣通り、アラームが鳴り出すよりも早くに目を覚まし、およそ一ヶ月ぶりに着る高校の制服に袖を通したところまではまだ半分寝ぼけていた所為もあってそこまででも無かったのだが、ドレッサーの前に腰を下ろしたあたりからだろうか。
「はぁ…」
頭が冴えて来るのと反比例する様に、気分はどんどんダウナーな方へと落ち込んでゆき、しまいには小さく溜息まで付く始末の遥だ。
「今日は、これかなぁ…」
ドレッサーの上に置かれたジュエリーボックスから遥が選んだ今日のヘアピンは、飾り気のないシンプルな青。
遥がその色をチョイスしたのは、窓の外に広がっている今朝の空模様が抜ける様な晴天だったから。
ではなく、それとはまるで正反対な心模様の現れ。つまりはそう、ブルーだからだ。
「…はぁ」
今一度の溜息をひとつこぼした遥は、選んだばかりのヘアピンを制服の胸ポケットに挿し込みながらドレッサーの前からのろのろと立ち上がると、そのままの足取りで壁のフックに掛けてあったリュックを手にして一階のリビングへと降りてゆく。
「おはよぉ…」
遥がたいへん覇気の無い挨拶と共にリビングに入ってゆけば、最初に反応を返して来たのは、既に朝食を食べ終えて新聞に目を通していた父の正孝だった。
「おはよう遥、今朝は随分と元気が無いね? どこか具合でも悪いのかい?」
覇気の無かった挨拶とそれに違わぬしょぼくれたその佇まいから、まず真っ先に我が子の体調不良を疑って心配してくれた正孝だが、勿論これは完全な見当違いである。
確かに遥は些か「具合の悪い事」があって大絶賛憂鬱真っ盛りではあるものの、今朝の健康状態に関しては、恨めしくなるくらいにすこぶる良好だった。
「べつに、ふつー…」
いっそ熱でもあれば良かったのにと、そんな事を思わずにはいられなかった遥は、テーブルを挟んだ正孝の対面に腰を落ち着けながら、ついついそっけない返事をしてしまう。
「そ、そうかい? それならば良いのだけれど…」
元は男の子とはいえ、年頃でかつ見た目的には可愛い盛りの娘につれない態度をとられた父親の心中は察するに余りあるが、もちろん当の遥は全くもって気無しだ。
「いただきまーす…」
対面で何やら遠い目をしている父を他所に、遥がもそもそとトーストをかじり始めたところで、母の響子が若干の呆れ顔を引っ提げてキッチンの方からやって来た。
「遥、あなた今日から二学期でしょ、気持ち切り替えて行かなきゃ!」
遥の憂鬱が何に起因しているのか大凡で察したらしい響子のそんな叱咤に、正孝も「あぁ」と感嘆の声を上げて、妙に納得した様子で目を細めさせる。
「ふむ…、お父さんが学生の頃は、クラスメイトと久しぶりに会えるのが楽しみで、二学期が待ち遠しかったりしたものだよ?」
おらく正孝は、自身の経験則としてそれを語りながらも、遥が少しでも楽な気持ちで二学期に臨める様、一つの考え方としてそれを示してくれたのだろう。
だがしかし、それは、それこそは、正しくそっくりそのまま遥を憂鬱にさせている最大の要因に他ならなかった。
「クラスメイトと…久しぶりに…」
正孝の言葉を部分的に反芻して、うっかりそれを具体的な絵としても想像してしまった遥は、堪らずサッと顔を青ざめさせるも、その直後には自身でもハッキリと自覚できるくらいに頬を熱くする。
「はわっ…」
勿論それは、病は気からとばかりに、憂鬱な余り本当に熱が出て来てしまったなんて事では無い。
それは、正孝の言った通り、確かに遥がそれを待ち遠しく想っていたからだ。
そして、だからこそ遥は憂鬱なのである。
「ご…ごちそうさま!」
正孝の有難くも余計なアドバイスの所為でより一層の憂鬱を募らせた遥は、折角響子が用意してくれていた朝食も最早ほとんど喉を通らず、半ば逃げ様にして席を立つ。
「なんだ遥、まだ全然食べてないじゃないか、朝食はちゃんと取らないと駄目だぞ!」
正孝のそんなお叱りの言葉をも振り切って洗面所へと駆け込んで行った遥は、手早く歯磨きだけを済ますと、後はもう髪も整えずに玄関まで一直線だ。
「いってきます!」
かくして、複雑で憂鬱な気持ちを抱えたまま家を飛び出した遥であるが、そのままの勢いで学校へも一直線、という訳にはいかなかった。
「おっ、ハル、おはよう!」
奏家の門前に横付けされた白いSUV車と共に、にこやかな挨拶で遥を出迎えてくれたのはそう、言わずもがなの賢治である。
夏休みを挟んだ所為で、遥はこの事をすっかり失念していたが、どうやら賢治は一学期の終盤頃に日常化させていた学校への送り届けを二学期にも実施してくれるらしい。
「お、おはよう…、えっと…二学期…も?」
念の為に遥が確認を入れると、それに対する賢治の返答は実に事も無げだ。
「ああ、勿論だ!」
遥はこれに思わずの苦笑いをこぼしつつも、いつかとは違って特に拒んでみようともせず、存外あっさりとその車には乗り込んでゆく。
「じゃぁ…、よろしくね?」
助手席にちょこんと座った遥が申し送りをすると、運転席に付いた賢治は満足そうな笑顔で「ああ」とだけ短く応えて、早速とばかりに車を発進させた。
遥の高校生活における至上命題が「平穏無事」である事は、勿論二学期になっても変わりがない。
それなのに、今朝の遥がこの大変目立って仕方がない登校方法をあっさりと受け入れたのは、やはり花火大会での事があったからだろう。
遥はあの夜、強く、強く想ったのだから。在りし日の様な辛い想いをもう二度と賢治にはさせたくないと。
だから遥は、最早学校で多少の注目を浴びるくらいはどうという事も無い、とは言い切れないまでも、それが賢治の望みとあらば、出来得る限り叶えてゆきたい所存なのである。
「ハル…大丈夫か?」
その問い掛けは若干の不意打ちで、遥は一瞬「無理をしてはいないか?」とそう言われたような気がしてドキリとしてしまうが、それは些かの早合点という奴だった。
「今朝は、何かずっと浮かない顔してるな?」
続けて賢治が投げ掛けて来たその言葉で、遥は何について尋ねられていたのかを理解して一旦はホッと胸度を撫で下ろす。
ただその問い掛けこそは、今朝からずっと抱えている憂鬱に関する事だった為、結局のところ遥は今一度ドキリせざるを得ず、最終的にはもうしどろもどろになるしかない。
「え、えっと…、その…な、夏休みが終わっちゃったから…かな…?」
結局、そんな曖昧な返答でお茶を濁すしかなかった遥だが、幸いにも賢治はそれで納得してくれた様で、「成程」とだけ言ってそれ以上は深く追求してこなかった。
家から学校までは、徒歩ならおよそ三十分、バスを使えば約十五分、そして裏道を熟知している賢治の車なら、相変わらず五分と掛からない。
「それじゃぁ、行ってくるね」
二学期もやっぱり校門の真横に停められた車から降りて遥が小さく手を振ると、賢治は若干名残惜しそうにはしながらも、一応は笑顔で送り出してくれた。
「ああ、気をつけてな」
平穏無事を至上命題に掲げている遥は、賢治に言われるまでも無く元より色々と気を付けているつもりだが、今朝に限っては有難くそれを肝に銘じる必要があるだろ。
「うん…、頑張る!」
胸前でギュッと握り拳をつくって一つ気合を入れた遥は、それがしぼんでしまわない内にと、普段よりも大きく取った歩幅で勇ましく歩き出した。
「よぉしっ…」
賢治が迅速に送り届けてくれたお陰で、大凡の生徒よりも早く登校してきた遥は、校舎に続く石畳から昇降口へ、昇降口からは職員室前の廊下へと、人もまばらな校内を気持ち的には颯爽と突き進む。
「ふぅぅ…」
そうして辿り着いた教室の前で、息吹を起こして今一度の気合を入れたところまでは良かったのだがしかし、遥の「頑張り」も最早そこまでだった。
教室を前にした途端、急激に気後れして、元通りの憂鬱な遥に戻ってしまったからではない。
現に遥は、教室の扉を開ける事に躊躇をしなかったし、室内に踏み入るその足取りだって決して重たくは無かった。
ただ、遥は想定していなかったのだ。賢治が送り届けをしてくれるようになった一学期の終盤頃には、いつも遥が教室に一番乗りだったから。
だから遥は、想像すらもしていなかった。
それ故に、心の準備だってまだちゃんと出来てはいなかったのだ。
それにも拘らず、確かに「それ」はそこに居た。
しかも、無人だと思っていた教室で、一枚だけ開け放たれた窓枠に身体を預け、朝の日差しを一身に浴びてきらめいてすら見えた「それ」は、あろうことか正しく遥の憂鬱そのものに他ならなかったのである。
「…は、早見…君…」
想定も想像も予想すらもしていなかった事に、遥は酷く愕然となりながらも、まさかという思いからついうっかりとその名を口にしてしまっていた。
「…あぁ、やっぱり奏さんだ…、おはよう奏さん」
遥とは正反対に、青羽の方はこの状況を半ば予想していた様で、きわめて落ち着いた様子といつも通りの爽やかさで朝の挨拶まで送って来る。
「お…、おは…ょぅ…」
遥はそんな弱々しい挨拶を返しながら、朝食時に想像してしまった絵よりもより一層鮮烈だった現実の光景に、もうどうにかなってしまいそうだった。
「ちょっと久しぶりだね…、海水浴のとき以来かな? ともかく、二学期もよろしくね」
もし沙穂がこの場に居たなら、花火大会の晩みたいに、また皮肉を込めて「お人好し」と、青羽にそう言っただろうか。
ただ、遥は知る由もない。青羽はあの晩、遥が気付く前にあの場から立ち去っていたのだから。それ故に遥は、賢治と巡り合えた裏で、青羽もまた自分と一緒に花火を見ようとしていたなんて事にも気付いていなかった。
途中で有耶無耶になってしまっていた通話に関しても、遥は後にちゃんと謝りのメッセージを入れて、「気にしないで」というお許しの返事を貰っていた為、それで事なきを得たと思っているだ。
だから遥は能天気にも、二学期になって両想いの相手であるところの青羽と久しぶりに会えるのを純粋に待ち遠しく想っていたし、それが過ぎる余り浮かれ過ぎてぎこちなくなってしまわないかどうか不安になって、その所為で今朝はとても憂鬱だったのである。
「あ…ぅ…ょ…よろしく…ね…」
教室に辿り着くまでの「頑張り」も虚しく、完膚なきまでの不意打ちを食らってしまった遥は、今やもう真っ赤な顔を俯かせてモジモジソワソワするばかりだ。
「はは…久しぶりだと、なんか少し緊張するね」
そう言った青羽があの晩以来どんな想いを募らせているのかは、もちろん本人にしか分からない事だったが、「緊張する」というその意見については遥も大いに頷ける。
「う、うん…!」
それは、とても憂鬱で、ほんの少し甘酸っぱくて、そしてちょっぴり切ない、そんな遥と青羽が織りなす二学期最初の朝だった。




