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1-17.象徴

 遥が新しい身体で目覚めてから一ヶ月半、諏訪医師から退院を言い渡されてから二日後、ついに遥は退院の日を迎えていた。

 冬の終わりを告げるように日中は暖かな陽が射すようになった三月の初め、晴れ渡った空が清々しい新しい門出にはもってこいの日だ。そんな気候にも恵まれた退院という喜ばしい日にあって、遥は今葛藤の真っ只中にいた。

「遥、早く着替えちゃいなさい」

 そう言った響子の言葉に遥は改めて目の前にある葛藤の元凶と対峙する。それは退院する遥の為にと響子が持ち込んだ一着のワンピースだった。

 薄いピンク地に散りばめられた清楚な白い花柄、胸元と腰回りに設けられた切り返しと共に広がっていくフレア状の裾、その裾から覗くペチコートを模した細やかな白いレース、袖口はリボンが縫い目状に通されており絞って結べばその全体的に甘いデザインを一層引き立てるアクセントとなるだろう。春めかしくもあまりに少女的なデザインに遥は思わず一歩後退する。

 入院生活中継続的に行われた響子の少女嗜好攻めにより幾分か耐性がついた遥ではあったが、今回のこれが醸し出すファンシーオーラの圧は相当に強烈な物に感じられた。全体から滲み出す甘ったるい雰囲気もさることながら、遥を最も恐怖させたのはワンピースというその形状、すなわちスカートである。これまで愛らしいパジャマの数々を本人の自意識とは関係なく見事に着こなしてきた遥ではあったが、スカートという女の子を象徴する服装だけは未だ経験がなかった。響子が遥の寝具にネグリジェを選んで来なかったのはせめてもの情けなのかもしれないと感じていたが、それもこれもこの一着の破壊力を最大限に際立たせるための布石だったのではとすら思えてくる。

「早くしないと賢治君戻ってきちゃうわよ」

 どうしてもその一着に手が伸びない遥に響子が眼前に迫る。退院する遥を家まで送り届ける役目として賢治はこの日に居合わせていた。今は荷物を車に積み込む為一旦病室を離れているところだ。これを着た姿を賢治に見られるのかと思うとより一層に気が重くなる。そんな遥を「ほら早く」と響子は容赦なく追い立てた。

「でも、スカート…」

 遥が弱々しく抗議の声を上げると「しょうのない子」と響子はため息をつく。諦めてくれたのかと一瞬希望の光を垣間見た遥だったが、物事はそう都合よくはいかない。

「あんたね、四月から高校に復帰するんだから、そしたら毎日スカートよ?」

 響子の言い放った破壊力ある言葉に遥の全身が総毛立つ。三年前の事故後休学扱いになっていた遥は四月から元々通っていた高校に復学する事が決まっていた。

 本来休学は制度上二年間しか認められていないが、両親の説得と特殊な事情を鑑みた学校側の配慮により特例措置がとられ、三年が経過した今でも退学処分を見送られ学籍は残ったままだった。そして無事、とは言い難いが身体を取り戻し、リハビリを経て日常生活に支障がない所まで回復した遥はまた一年生の初めからではあるが改めて高校生活を送れる手筈になっている。

 しかし幼女化してしまった事もあり事情はやや複雑だ。病院が発行した診断証明書があるため奏遥という人間のパーソナリティ自体には異論をはさむ余地はないが問題はその外見だ。一四〇センチに満たない身長と幼い顔立ちはギリギリあり得なくはない一種の個性としてなんとか許容できたとしても、性別の逆転ばかりは如何ともしがたく、勉学と言う点においては区別がなくとも、男女により分けられて然るべきケースは学校という空間には無数に存在する。結論として学校側は遥本人のメンタリティよりも他の生徒や指導上における影響に重きを置いて、入学時には男子生徒ではあったものの復学後は女子生徒として登校すべしと遥の復学を条件付けていた。そうなると当然女生徒用の制服着用が求められ、ご多望に洩れず遥の通う高校の女子制服はスカートである。

 今後毎日の様にスカートを履く事になるのは遥も頭では理解しているのだが、女の子を象徴するその代物を身に纏う事はやはり禁忌に思える。それを身に纏ってしまえば自分の中にあるアイデンティティのいくらかは間違いなく形骸化してしまうだろう。葛藤せざるを得ない。

「とりあえずお母さん先に退院の手続き済ませてくるから、戻るまでに着替えとくのよ」

 尚も煮え切らない遥に時計をちらりと見やった響子は遥の腕にワンピースを押し付けやや忙しなく病室から出て行った。今日は平日で一時的に仕事を抜けてきた母はこの後また職場へ戻らなければいけないと言っていた事を遥は思い出す。これ以上自分がぐずっていては母に迷惑が掛かってしまう。そんな思いに渋々ながらも意を決した遥は押し付けられたワンピースを一旦ベッドの上に置き、今纏っているゆったりとしたスモック状のパジャマの上着へ手を掛けた。

「ハル、支度終わったか?」

 遥がワンピースを纏う意を決し、パジャマを脱ぎ捨てようとしたその時をまるで見計らったように荷物を積みに行っていた賢治が病室へと戻ってきた。ノックを省き病室の戸を開け放った賢治の目に飛び込んでくるパジャマの上着を脱ぎかけた遥の姿。持ち上げられた上着の裾から白いお腹と小さなおヘソが覗いていた。その光景に賢治は思わず動きを止める。

「出てった方がいい…か?」

 扉を開けたら女の子が裸になろうとしている。そんな眼前の光景に一瞬硬直した賢治だったが我に返っておずおずと遥に向って問いかけた。遥の着替えシーン自体はこれまでの付き合いで散々目にしてきた物だがそれは遥が男の身体だった頃の話だ。賢治には幼女の裸を見て何か特別な感情に駆り立てられる様な性癖はないが、だからと言ってまじまじと見て良い物でもない様な、それでいて目の前にいるのは遥なのだから今更気にする間柄でもない様な、そんな実に複雑な心境だった。

 一方の遥も似た様にどう反応すべきか微妙な心境で、本来であれば賢治に着替えを見られる事等何でもないし、いくら身体が変わったからといって、男の人に裸を見られるのが恥ずかしい等という女の子らしい精神構造にはなっていない。しかし漠然と女の子の身体である自分の裸体を人前に晒すのはどうなのだ? という疑問に至らない訳でもない。遥はしばし考えた末結論を親友に委ねる事に決めた。

「賢治が見たいなら、見ててもいいけど」

 ちょっと困ったように首を傾げてそう言った遥に賢治は目を白黒とさせる。他人がこの場面に居合わせたのなら、かなりの確率であらぬ誤解といらぬ妄想を掻き立てたられた事だろう。賢治は遥の繰り出したあまりに攻撃力の高い発言に「すまん」と一言告げて若干ぎこちない動きで病室から出て行った。


 一人になった遥は改めて着替えを再開し、その慣れない構造に手間取りながらも何とかワンピースを着る事ができた。ボタンが背中側に無かったのは幸いだ。

 初めて着たスカートは丈の長いワンピースだったため遥が持っていた先入観よりかは無防備さは無かったが、それでも下半身の空洞感は妙に落ち着かない。何よりも遂にスカートを身に着けてしまった事で男として大切な何かを幾つかは失った様なやるせない気分にさせた。

「ハル、そろそろ着替え終わったか?」

 黄昏ていた遥は病室の扉越しに掛けられた賢治の声に我へと返る。そして今からこの姿を賢治に見られるのかと思うとそれだけで顔の表面温度がいくらか高くなった。ただこのまま病室に閉じこもっている訳には当然いかないため、遥は躊躇いながらも引手に手を掛け扉を開けようとしたがやはりどうにもこの姿を見られることが気まずく、とりあえず数センチだけ扉を開け外を伺って見る事にする。

 身体を扉の陰に置いてわずかに開いた隙間に顔を寄せ外を覗き見ると何も見えなかった。視界を何かが遮っている様だ。遥が視界を遮る物の正体に薄々感付きながら、恐る恐る視線を上げていくと予想通り扉の前に立ちこちらを見下ろしていた賢治とばっちり目が合った。

「何してんだ…」

 賢治はわずかな隙間から覗き見る遥を怪訝そうな目で見下ろし「着替え終わったんだよな?」と尋ねる。遥は何か悪戯を見つかったような若干の気まずさで「う、うん」と半笑いで小さく頷いた。

「じゃあ中に入るぞ」

 賢治がゆっくり扉を開けようとすると何か引っかかった様な抵抗感があり、わずかにしか隙間は広がらなかった。何事かと少し広くなった隙間から扉の向こう側を伺うと遥の両手ががっちりと引手を握っている。

「何してんだ…」

 再び賢治が怪訝そうに遥を見た。遥は自分の姿を賢治の死角に潜り込ませながらしどろもどろになる。

「えっと…、その…心の準備が…」

 そんな様子の遥に賢治はその思惑を察したのか口角を上げてニヤリと笑った。

「往生際が悪いぞ!」

 言うが早いか賢治は扉の隙間に手を掛け力に物を言わせ扉を開きにかかる。遥は全身を使ってそれを阻止しようと試みるが三十キロ有るか無いかの体重と幼女の細腕では当然敵うはずもなく、賢治が少しばかり強めに力を入れるとあっけなく扉は開け放たれた。

「ぁっ…!」

 強引に開かれた扉に体重を預けていた遥は身体ごと持っていかれそうになり咄嗟に引手から手を離したが最初の力で体は流れ完全にバランスを失っていた。態勢を立て直そうと足掻くもまだ若干頼りない足は踏ん張りがきかず、なんとか倒れまいと一度離した引手を再度掴もうと手を伸ばすもわずかに届かない。ダメか、と諦めかけた次の瞬間、賢治の手が遥の伸ばした手を捕らえその場に繋ぎ止めていた。

「わりい、ハルの今の力まで計算に入ってなかったわ」

 賢治は以前の感覚で力を入れてしまった事を謝り、遥に怪我がないか確認しようと、ここで初めて着替え終わった遥の出で立ちをしっかりと視認した。華やかなワンピースに身を包んだ遥はそれまでの幼女然としたパジャマ姿の愛らしさとはまた違う、幼女を偏愛する趣味のない賢治ですら思わず見惚れてしまう程の可憐さを咲き誇らせていた。賢治は思わず息を飲む。握った手を放すことも忘れただその姿に釘付けになった。

 賢治の反応を他所に遥は遂にスカート姿の自分を親友に見られてしまった恥ずかしさからたまらず顔が赤くなる。可憐な姿で頬を赤らめる遥はまた一段と蠱惑的で賢治も思わず顔が熱くなっていった。顔を赤らめた二人がしばし見つめあう。繋いだ手伝いにお互いの体温が伝わってくるとどちらの手も普段より少し熱っぽかった。

「あんた達、何してるの…?」

 退院の手続きを終え戻って来た響子の第一声に二人は我に返ると慌てて繋いでいた手をほどいた。

「あ、いや…ハルがちょっと転びそうになったもんで…」

 賢治は事の成り行きを口にするが、それだけでは顔を赤らめ見つめ合っていた言い訳にはならないだろう。遥が可愛くて思わず見惚れちゃってました等と言う訳にもいかず、賢治がこの妙な空気をどう誤魔化した物かと焦っていると遥の方が口を開いた。

「賢治が無理やりするから…」

 相変わらず赤い顔でもじもじとしながら遥がそう言ったものだから、賢治は一瞬自分が犯罪者にでもなってしまったかのような気分に陥った。

「ハル、その言い方は色々不味い…」

 少しげっそりした様子で言った賢治に遥ははきょとんとする。遥としては転びそうになったのは賢治が無理やり扉を開けたせいだと補足したつもりだったので、何が不味いのかと首を傾げた。遥はたまに賢治の事を「ちょっと天然」と言うが、賢治は今ほどその言葉をそっくりそのまま返してやりたいと思った事は無かっただろう。

「まあいいけど。準備できてるならそろそろ行きましょうか」

 響子は二人の様子に苦笑するとそれ以上深く言及はしなかった。遥が恥じらっているのは初めてスカートを着たせいだと先のやり取りから想像できたし、賢治が遥に異性を意識している風なのは見て取れたがワンピース姿の遥は響子の見立て通りかなりの魅力を醸し出しているので賢治が意識するのも仕方のない事だろう。賢治の事をよく知る響子はいっそ賢治が遥を嫁に貰ってくれたら色々円満なのではないだろうかという所まで妄想したが流石にそれは二人には言わずにおいた。

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