4-51.夏の夜空
遥は信じていた。
幼馴染だから。親友だから。だから絶対に賢治の元へ辿り着ける。
辿り着けない理由なんて何処にもありはしない。
遥は、強く、強く、そう信じていた。
「けんじ…、まってて…!」
どれだけの人混みをかいくぐったかは、もう分からない。
どれだけの人混みをかいくぐっても、賢治の姿どころか、影すらも見えてこない。
たがそれでも遥は、必ず賢治の元に辿り着けると信じて、ただ前だけを向いて、ただ真っ直ぐに進み続けた。
「いま…いくから! ぜったいに…行くから!」
ともすればそれは、甘くて幼い十代特有の、熱に浮かされた夢見がちな幻想でしかなかったかもしれない。沙穂の考えていてい通りに、遥がこのとき賢治を想う余り周りがよく見えなくなっていた事も確かだ。
「…あぅっ!」
なんど足をとられて、なんど躓きそうになれば、遥はそれに気付けただろうか。
信じるだけ叶う事なんて、世の中にはそうそう在りはしないのだと。
そもそも、例え大凡の居場所が分かっていたとしても、十万人強の人出で混雑を極めるお祭り会場の中で、特定の一人と巡り会える保障なんてどこにも有りはしない。
だからこそ、遥は夜店巡りをしていた時には、結構な気まずい思いをしながらも沙穂と楓と手をつなぐ事を怠らなかったのだ。
賢治は人より頭一つ分ほど背が高い為、沙穂や楓に比べれば人ごみに紛れていても幾らか見つけやすそうではあったが、それも小さな遥の限られた視界でほぼ帳消しだろう。
順当に考えれば、そんな条件下で賢治の元に辿り着こうだなんて、それこそ奇跡の力でも借りなければ容易には叶わない事だ。
そして奇跡などというものは、そうそう都合よく起こってくれたりはしない。
だから遥は、数えきれないくらい人混みをかいくぐっても、数えきれないくらい躓きそうになっても、未だ賢治の元へ辿り着けずにいる。
「けんじ…っ! けんじーっ!」
遥はいつしか、人ごみのただなか、恥も外聞もなく、その名を高らかに叫んでいた。
奇跡なんか起こらなくたって、必ず辿り着いて見せると、自身を奮い立たせるかのように、ありったけの想いを込めて。
ただ、その叫びも、その想いも、十万人規模の喧騒を前にしては、小鳥のさえずりにも等しく、事実、それは周囲の注目を集める事すら無かった。
ならば、そんなものが賢治に届く道理はどこにも無い。否、無い筈だった。
「…ハル! ハルー!」
もしかしたらそれは、遥の叫びに応えてのものでは無かったのかもしれない。
遥と同じ様に、ただ想いの丈を抑えきれなかっただけのものだった可能性だってある。
だが、そんな事は、遥からすればどちらだって構わない。
その声は他でもない、賢治の声で間違いなかったのだから。
「けんじ!? けんじ! けんじ!!」
確かに奇跡は、そう都合よくは起こらない。
どれだけ信じても、どれだけ願っても、決して叶わない事は幾らでもある。
例え、願い事を叶えてくれる神様がいたとしても、そのリストはとうの昔に一杯で、どれだけ待っても順番なんて回って来やしない。
けれど、もしそれでも叶う事があったなら、それは間違いなく神様が起こしてくれた奇跡なんかでは無く、ただの偶然か、でなければ、そうあって欲しと願った人々の想いから生まれた必然だ。
「けんじ! ボクは、ボクはここだよ! ここにいるよ!」
遥は、心の底から、強く、強く、信じていた。だからそれは必然になったのだ。
「ハル…!」
今度こそ遥の想いに応えたその声は、もうすぐ近くから聞こえていた。
「けんじ! 見つけた! 見つけたよ!」
声がする方へ、遥がその小さな手を必死に伸ばせば、賢治の大きな手がすかさずそれを力強くつかみ取る。
「ハル! つかまえた! つかまえたぞ!」
花火大会の開始を告げる最初の一発が夏の夜空に舞い上がったのは、丁度そんな瞬間の事だった。
赤に青、緑に黄色、それに金と銀。
夏の夜空に次々と打ちあがって、あざやかに咲いては散ってゆく、たくさんの花火たち。
「…きれい」
遥がぽつりと零した感嘆に、その小さな身体を両腕でしっかりと抱き上げてくれている賢治から返って来たのは、「ああ」という短い共感の一言だけだった。
無事に巡り合えてからというもの、二人はずっとこんな調子で、ただこうして一緒に花火を見上げている。
遥は、賢治がどんな想いであの沢山の着信履歴を残したのかを訊ねなかったし、賢治も今はそれを語ろうとはしなかった。
二人が巡り合うまでの経緯を考えれば、勿論お互いに尋ねたい事や、伝えたい事が山の様にあっただろう。
ただ、それでも今は、遥も、賢治も、こうして一緒に居られるその時間を何よりも大切にして、それ以上を望みはしなかった。
「あの二人…、まるで、映画のラストシーンみたいだね…」
一時は、どこにも辿り着けず、独りにすらなってしまうのではないかと危ぶまれた遥が今は賢治に抱き上げられて、二人寄り添うように花火を眺めあげている。
それをほんの少し遠巻きから見守っていた楓がもらしたその感想は、少しばかり大げさではあったかもしれないが、それくらい感じ入る物があった事も確かだ。
ただ、その光景を映画のラストシーンだとするのなら、果たしてこの結末はハッピーエンドなのだろうかと、そんな疑問を抱かずにはいられなかったのが沙穂だった。
「これで…、よかったのかな…」
この結末を誰よりも望んでいた筈の沙穂なのに、それを素直に喜べずにいたのは、無論、青羽の事があったからだ。
「カナちゃんは、幸せそうだよ…?」
確かに遥はとても幸せそうで、それだけみれば間違いなくこれはハッピーエンドだと沙穂も頭ではそう理解できている。
だがしかし、こうして遥がハッピーエンドを迎えられているのは、青羽が自身の想いを犠牲にしてまで「願い」を聞き届けてくれたからに違いないのだ。
それを要求してしまったのが他でもない自分自身であるだけに、沙穂はどうしたってこの結末を楓の様な素直さで受け止めきれずにいた。
「…もっと…なにか…」
誰しもが幸せになれる方法が他にあったのではないだろうかと、沙穂は青羽との通話を終えてからずっとそんな自問をくりかえしている。
「…これで良かったと、俺も思うよ」
そう答えたのは、もちろん楓では無かったがしかし、その返答に沙穂は思わずギョッとせずにはいられなかった。
不意に、直ぐ後ろから返ってきたそれは、ここに居る筈のない青羽その人からのアンサーに他ならなかったからだ。
「…っは、早見!」
沙穂が少なくない動揺と共に勢いよく振り返れば、そこに居たのは確かに青羽で間違いは無い。
「わっ…早見くん! ビックリしたぁ」
楓もいつの間にか青羽がすぐ後ろに居た事に気付いて多少なりともの驚きを見せたが、沙穂からすればこれはビックリ何て言葉では到底済まされなかった。
沙穂が頼んでいた事は、遥に連絡してくれる様にとの賢治への言伝だったのだから、二人がこのあたりで落ち合っている事など青羽には知り様も無かった筈なのだ。
「早見…どうして…い、いや…それよりも、あたし…ごめん!」
沙穂は投げ掛けずにはいられなかった疑問を口にしてしまいながらも、其れよりももっと大切な事があった事に気が付いて、すぐさま謝罪の言葉を取り繕う。
「…いや…俺の方こそ…ごめん…」
沙穂の謝罪に対して、青羽は如何にもバツの悪そうな面持ちで逆に謝りの言葉を告げてきたが、これに困惑せずに居られなかったのが当然ながらの沙穂だった。
「なんで…あんたが謝るのよ…」
自身の想いを犠牲にしてまで、遥の為に願いを叶えてくれた筈の青羽は、誰よりも尊ばれて然るべきななのだ。
それ故に、沙穂からすればその謝罪はまるで意味が分からなかったが、青羽は引き続きバツが悪そうな面持ちで、直ぐにその理由を端的に明かしてくれた。
「実は俺…、日南さんの伝言、賢治さんにちゃんと伝えなかっんだ…」
青羽が自身の想いを犠牲にしてくれたからこそ遥は賢治に巡り会えたのだと思い込んでいた沙穂にとって、その告白は余りにも思い掛けないもので、これには思わず素っ頓狂な声を上げずにはいられない。
「はっ…?」
青羽は伝言を果たしていないというがしかし、遥と賢治は現にああして巡り合えている。そんな事は、それこそ神様が気まぐれに奇跡でも起こしてくれなければ有り得ないはずで、沙穂にはもういよいよもって一切合切意味がわからなかった。
「賢治さんに電話したらさ、『ハルを知らないか』って、用件も聞かずに凄く必死な感じで…、だから俺…つい『知らない』『連絡もつかない』って嘘ついて…肝心な事は何も教えなかったんだ…」
青羽が遥の所在を把握していなかった事や、連絡が取れずにいた事は事実である為、そこは一概に嘘とは言い切れないが、今問題にすべき点は勿論そこでは無い。
賢治が必死だったからつい嘘をついたという、到底らしくも無いその対応その物についてもそれは同じで、何故そんな真似をしたかなんて事は聞かずとも分かり切っている。
では、一体何が問題なのかと言えば、無論それは青羽が「肝心な事」を伝えていない事によって、賢治がこちらの事情を一切把握していないかったであろう点についてだ。
「ね、ねぇ…、それじゃぁ…どうしてカナちゃんは、あの人に会えたの…?」
流石の楓も話しの辻褄があっていない事に気付いた様で俄かに困惑していたが、幸いその理由についても青羽がすぐに説明を始めてくれた。
「日南さんさ…、奏さんがどっちに向ってるか、俺に教えてくれたでしょ?」
確かに遥と賢治が落ち合いやすくなる為の必要情報としてそれを教えていた沙穂は、この時点で大凡の事に察しがついてハッとなる。
「あっ…だから…」
おそらくは、そうだ。沙穂にはもう、そうとしか考えられない。
「俺…賢治さんに、それだけは話したんだ…」
青羽が今までにもましてバツの悪そうな面持ちで告げたそれは、沙穂が思い至った通りの結論だった。
「えっ、それじゃぁ、あの人は事情も知らずに、どっちに向ってるかって事だけで、カナちゃんを見つけたってこと…?」
楓の方はまだ今一理解が及んでいない様で頻りに小首を傾げさせていたが、その口からのぼった疑問自体がそっくりそのまま答えで問題ないだろう。
「たぶん…そういうことよ…」
沙穂がその認識でおそらく間違っていない事を告げると、楓は「あー」と気の抜けた感嘆の声を上げながらも、またすぐに小首を傾げさせた。
「えっ…、そんなことって…あるの?」
そう言いたくなる気持ちは沙穂にも分からないでも無かったが、現に遥と賢治は今ああして二人で花火を見られているのだから、それは既に成し遂げられた事なのだ。
「まぁ…、夜店の通りは一本道だし、丁度花火が始まる頃で観覧スペースの方に人が流れてったおかげで見つけやすくなってた…ってとこかしらね…」
言われてみればという感じで楓が周囲に視線をやってみれば、実際に夜店の通りの混雑状況が最初と比べて幾らか優しくなっている事が見て取れた。
「早見があたしたちを見つけられたのも、そういうことなんでしょ…?」
沙穂が当初謝罪の言葉で打ち消していた疑問を予測解答と共に改めて投げ掛けると、青羽はそれに少しの捕捉を付け加えながらも肯定する。
「…うん、それにここ、会場のほぼ端っこだから」
沙穂は今の今までその事には気付いていなかったが、確かにそれならば一層見つけやすかった事だろうと、改めての納得がいった。
「そっかー、それでかー…?」
楓の方も一先ずの理屈としてはそれを理解できたようだが、一応の納得を示しつつも疑問符が抜けきっていなかったのは無理もない話だろう。
いくら条件的には優しくなっていたとはいえ、遥が賢治と合流できたかどうかは、実のところ五分五分か、それ以下の確率だったかもしれないのだ。
「俺さ…賢治さんよりも先に、奏さんを見つけられたらって…そう、思ったんだ…」
夏の夜空に咲いては散ってゆく花火を見上げながら、そんな胸の内を告げてきた青羽がどんな表情をしていたのか、それは沙穂には分からない。
「…俺…サイテーだよね…」
そう言って沙穂と楓の方に視線を戻した青羽は、酷く冴えない顔で、自嘲気味な笑みを湛えていた。
「早見…」
確かに青羽は、沙穂のお願いを正しくは叶えてくれなかったかもしれない。
その所為で、遥が賢治に巡り合えていなかったら、それは間違いなく最低の事態だっただろう。
だがしかし、だからといって、誰が青羽の事を責めれられるだろうか。
「早見くんは…サイテーなんかじゃないよ…」
そう、楓の言う通りだ。青羽は最低なんかでは決してない。青羽はただ、遥を好きな自分の気持ちに真っ直ぐなだけだったのだから。
「そうよ…、アンタはサイテーなんかじゃない…、ただの…お人好しよ…」
それは、沙穂に言えたせめてもの皮肉を込めた精一杯の言葉だったが、青羽はもう何も答えずに、ただ夏の夜空を眺めあげ続けるばかりだった。
満開の花火が咲き乱れる夏の夜空を再び仰ぎ見る青羽が、今どんな表情をしているのかは、やはり沙穂には分からない。
ただ、あざやかな光に照らされたその輪郭が、淡く切なく滲んで見えた事だけは、間違いなく確かだった。




