4-50.正念場
スマホに残されていた賢治からの膨大な着信履歴。
遥には、賢治が一体どんな想いでそれを残したのかは分り様も無かった。
そもそも、分かる筈がない。
賢治とは幼馴染で、親友で、そして何より、「男同士」だったのだから。
だから遥には分からなかった。
だがしかし、それが一体何だと言うのだろうか。
分からなくたって、そんな事は最早問題では無い。
「賢治が…探してる…!」
賢治の残してくれた沢山の着信履歴が、それだけははっきりと教えてくれていた。
ならば遥には、もうそれで十分だ。
それ以上に大切な事なんて、きっとどこにも無い。
着信履歴に込められた賢治の想は分からなくとも、遥は知っているのだから。
事故で身体を失っていた三年の間に、賢治が見つかる筈のない自分の影を探し求めて、暗い想いと辛い時間を積み重ねていた事を。
「ボク、い…いかなきゃ…っ!」
言うが早いか、遥は人混みの中一人、駆けだしていた。
在りし日の様な辛い想いを再び賢治にさせたくない。ただ、ただ、その一心で。
「ちょっ! カナ!?」
「か、カナちゃん!?」
余りにも衝動的だったその行動に、沙穂と楓は僅かに反応が遅れながらも、このまま遥を一人で行かせられる筈もなく、二人はすぐさまその小さな背中を追いかける。
『探してるって、えっ? 誰が? 行くって、えっ? か、奏さん?』
沙穂のスマホを通じて断片的な部分しか聞き取れていなかったらしい青羽は、おそらく殆ど状況が呑み込めていなかったに違いない。
「早見ゴメン! ちょっと説明してる余裕ない!」
沙穂がそれだけ告げて一方的に通話を切ってしまった為、青羽には状況を理解する機会すらも与えられなかったが、事ここに至ってはそれも仕方の無い事だった。
沙穂は初動が遅れていた所為もあって、ほんの少し気を逸らしただけでも遥を見失いかねない状況だったのだから、青羽なんかに構っている場合では無かったのだ。
現に、そうこうしている今も、先を行く遥はその後を追う二人との距離をじわじわとだが着実に広げようとしていた。
「あぁカナ! もうそんな先に!」
「わー! カナちゃんまってー!」
普通であれば、例え全力疾走されていたところで大して速くもない遥に追いつく事など、沙穂や楓にはいとも容易い事ではあっただろう。
だがしかし現状は、追いつくどころかその小さな背中を見失わない様、何とかかんとか追い縋るのがやっとだった。
「もぉ! 浴衣に草履とか走り辛いったらない!」
遥を追いかけながら、沙穂が思わず苛立ち混じりに吐き捨てたそれは、確かに幾らかの枷にはなっていたかもしれない。
ただ、浴衣と草履が走り辛いという点でいけば、遥も条件的には全く同じだ。
実際に、沙穂と楓の前を駆けている遥の速度的は、全力疾走のそれにはまず程遠く、それどころか普通に歩くのとそう大差がないくらいでもあった。
それにも拘らず、沙穂と楓が一向に追いつけなかったのは、十万人強の人出で混雑を極める今日この場に限ってだけ、遥に圧倒的な優位があったからだ。
「ごめんなさいごめんなさい! ちょっと通してください!」
今正しくそうだった様に、沙穂と楓が半ば強引に人混みをかき分けて行かなければならなかったのに対して、前を行く遥はといえばどだろうか。
「けんじ…! いま…っと…、いく…からっ! ボクは…っここに…いるから!」
慣れない浴衣と草履で多少つんのめったりはしながらも、遥はその小さな身体を生かして、僅かな隙間を縫う様に人混みをものともしていなかった。
いくら遥の脚が遅かろうとも、これでは沙穂と楓が中々追い付けないのも無理は無い。
「こ、このままじゃ、見失っちゃうよぉ!」
遥の背中が一瞬一瞬フッと人混みに隠れる度、楓などはもう気が気では無いといった様相だったが、勿論それは沙穂だって同じだった。
「確かにこのままじゃ…!」
一度見失ってしまえば、あっという間にはぐれてしまい、そうなればもう簡単には合流できないだろう。
だからこそ沙穂と楓は、遥が何となく気まずそうにしているのをそれとなく察しながらも、今までは移動の際に手をつなぐ事を決して怠らなかったのだ。
それがここへ来てみすみす遥をはぐれさせてしまったとなれば、それはもう沙穂や楓からすれば最悪としか言いようがない。
特に、自分達や青羽との通話を放り出して衝動的に飛び出して行ってしまった今の遥は、どう考えても周りが良く見えていない状態なのだ。
そんな状態の遥を独りにしてしまえる道理なんて、沙穂と楓のどこをひっくり返しても見つかる訳は欠片ほどもありはしなかった。
「こんな事なら…、早見の電話なんてほっとけばよかった!」
確かに青羽からの着信に応じていなければ、少なくとも今はこんな状況になっていなかったかもしれないがしかし、おそらくそれはただ問題を先送りにしていただけの事だ。
遥のスマホに賢治からの着信が入っていた事実はどうあっても変わらなかったのだから、結局のところはタイミングの問題で、遅かれ早かれというやつだった。
であれば、あのとき青羽からの着信を無視しなかった事は、結果論的に言えばあの場で選び得た最善の未来に通じる選択だった可能性すらある。
賢治からの着信に気付くのがもっと遅れていたとして、そのときの遥がどうなっていたかなんて、それはもう沙穂や楓からすれば絶対に想像もしたくない未来なのだから。
「けど、こんなの…! もぉ! どうすればよかったよ!」
確かに現状は辿り着けた最善の未来なのかもしれないが、どうしたってそれが最良だったとは思えなかった沙穂は、思わずやり場のない憤りをぶちまけもする。
「ひ、ヒナちゃん…! あ、あの…、こんな時に、アレなんだけど…、って言うか…こんな時だから…なんだけど…、このままだと、すごくマズいんじゃないかなぁ…!」
直ぐ横でぶちまけられた憤りのせいか、楓は何やら大変言いにくそうにしながらもそんな事を物申して来たが、今の状況が不味い事なんて沙穂には言われるまでも無く分かっていた。
「だからこうやって必死にカナを追っかけてるんでしょ!」
ただでさえ苛立ち気味だったところに分かり切った事を言われた沙穂は、半ば八つ当たり気味についつい語調がきつくなってしまう。
「そ、それは…そうなんだけど…! で、でも、そうじゃなくって…!」
普段なら、沙穂に一喝された時点で、気の弱い楓は委縮してそれ以上は何も言えなくなっていたかもしれないがしかし、今この場に限ってはそう易々と引き下がらなかった。
例え沙穂をより一層苛立たせることになろうとも、楓にはどうしても今ここで訴えておかねばならない事があったのだ。
「か、カナちゃんがあの人の処に行けるなら、ここでワタシ達が見失っちゃっても、たぶん大丈夫かも…って思うんだけど…」
例え自分たちとはぐれても、遥が賢治の庇護下に入るのならばきっとそう問題はないというその意見は、心情的な部分さえ抜きにすれば、確かに一理あった。
「それは…」
元来理知的であるが故に、楓の意見を尤もだと感じてしまった沙穂は、思わずの納得を示してしまいそうになったがしかし、それには及ばない。
沙穂が納得しかけたその意見は、あくまでもただの前置きでしかなく、楓が真に訴えたかった事柄はその先に有ったからだ。
「でも…、でもね! このままじゃカナちゃんは…あの人のとこに行けないと思うの!」
それは、沙穂が周りの見えていないだろう今の遥とはぐれてしまうこと以上に不味い事何て無いとそう考えていた事を差し引いても、余りに思い掛けない指摘だった。
「へっ…?」
思い掛けないばかりか、意味すら良く分からなかった沙穂が思わず間の抜けた声を上げてしまったのは、半分くらいは無理もない話しだったのかもしれない。
「だってカナちゃん、あの人がどこに居るか、たぶん分かってないよ!」
そこまで言われてようやっと理解が追い付いた沙穂は、かつてない位にハッとなる。
「あっ…!」
元来理知的で基本冷静でもある沙穂は、その賢しらさ故に、当然の道理として遥は賢治の居場所を知った上で飛び出して行ったものと、そう思い込んでいた。
だがしかし、言われてみれば確かに遥は、賢治が残していた着信履歴を確認してからというもの、折り返しの連絡を入れるどころか、メッセージでのやり取りをした様子すらないまま飛び出している。
それでは楓の言う通り、遥が賢治の元へなど到底たどり着ける見込みはまず無いが、ただそうなって来ると沙穂にはどうしても分からない事があった。
「い、いや、でも、それじゃぁ、カナはどこに向ってる訳!?」
賢治の居場所が分かっていないと言うのなら、どれだけ進もうとも遥はどこにも辿り着けはしない。それなのに、そうこうしている今も必死に人混みをかいくぐっている遥が、何故そんな事をするのか、その意味さえも沙穂にはもう分からなかった。
「多分…、どこにとかじゃなくて…、カナちゃんはあの人を探そうとしてるんだと思うけど…」
沙穂には分からなかった遥の行動理由について、持ち前の共感力から独自の見解を告げて来た楓は、そこで一旦言葉を区切ると、眼鏡の奥でカッと瞳を見開かせる。
「だから、ヒナちゃん! これって、すごくマズいよね!?」
楓が最初にそう訴えて来た時には、まるでピンと来ていなかった沙穂だが、確かにこれは今までの認識に輪を掛けてとんでもなく不味い状況ある事を認めざるを得ない。
「不味いなんてもんじゃ…ないかもしれない…!」
沙穂が認めた所為で、楓は自身の訴えに確信を持ってしまったのか、今にも泣き出しそうな顔になって、あからさまな動揺を見せる。
「そ、そうだよね…! やっぱりそうだよね!? ど、ど、どうしよぉヒナちゃん!」
どうもこうも、遥が今もその手にしっかりと握りしめているスマホを使って賢治に連絡を入れさえすれば全ては解決なのだが、おそらくそれは到底望むべくもない。
それが出来るくらいの判断力があるのなら、遥はとっくの昔にそうしている筈で、それが出来ない程に物事が見えなくなっているからこその現状なのだ。
「これじゃぁ…ここであたしらが見失ったら…カナはマジで独りになっちゃう…!」
それだけは、何があっても阻止しなければならない。その為に何か尽くせる手は無いかと、沙穂は瞬間的に頭をフル回転させてあらゆる手段を検討する。
最善は、自分たちが遥に追いついて、その上で賢治に連絡をとらせることだが、そんな都合の良い手段が果たしてあるだろうか。
遥に追いつけない事は今正にその身をもって証明中であったし、遥が賢治に連絡を取れる状態では無いからこその現状なのだと沙穂は先程自ら認めてしまったばかりだ。
となれば、最早講じられる手段などはどこにも無いかの様に思われたがしかし、諦めるにはまだ早かった。
「うぅ…せめて、あの人がカナちゃんにもっかい連絡してくれれば…」
おそらく楓は、特に深い考えも無く、「そうなったら良いのに」というただの希望的観測としてその意見を口にしたに過ぎなかっただろう。
だが、沙穂にとってそれは、今現在直面している問題を打開し得るかもしれない方法論を閃くための、これ以上にない大きな助け舟となっていた。
「それだぁっ! ミナ! あんた神ってるよ!」
沙穂は楓に賛辞の言葉を送りつつも、手早く操作した自身のスマホを耳元へとあてがいながら緑色の発信ボタンをタップする。
「えっ! ヒナちゃん、あの人の番号、知ってるの?」
どうやら楓は、この場面、このタイミングで電話をかけるなら、その相手は賢治しかないと思った様だが、残念ながらそれは不正解だった。
「知らない! けど、あの人に連絡先できる人になら心当たりがあるの!」
要するに沙穂は、その人物を経由してなら、賢治とのパイプを形成する事は可能で、それを用いて遥に連絡を入れてもらえる様にお願いしようと、そういう算段なのだ。
「…お願い出て!」
沙穂にとって、これは大きな賭けだった。
一回、二回、三回。
一回、二回、三回。
スリーコールをワンセットに、どれだけその回数を数えただろうか。
『…はい』
永遠に続くかのようだった呼び出し音が途切れて、スマホのスピーカーから聞こえてきたちょっぴり不機嫌そうで明らかに警戒している声。
その声は沙穂が賭けに勝った事を知らしめる福音にも等しかったがしかし、だからと言って喜ぶにはまだ早い。
寧ろ、沙穂にとっては、ここからが真の正念場と言っても過言では無いのだ。
「出てくれて良かった! それで…都合が良いのは分かってるけど、お願い…早見!」
そう、賢治とのパイプ役として沙穂が頼ったのは、先ほど一方的に通話を切ってしまった所為で少々機嫌を損ねてしまっている上に、遥を巡っては非常にデリケートな立場にいる青羽だったのだから。




