4-35.意味
東山眞利、御年七十六歳、先祖代々受け継いできた東山の土地で、農業と狩猟を生業に暮らしている遥と一樹の祖父。
まるで熊を思わせる大きな体躯と、それに見合った大雑把な性格の持ち主で、既にその一端を如何なく披露している通り、見た目的にも人柄的にもかなり豪放な人物である。
ただ、そんな眞利でも、流石に今の「可愛らしく」なってしまった遥を目の当たりすれば、少なからず「ビックリ」はする筈だと、響子や一樹はそう推測していた。
眞利の実娘でその人となりを熟知している響子と、孫であり近隣住まいで顔を合わせる機会も多いだろう一樹が揃ってそう言うのだから、それは相当に信憑性のある意見だったのだがしかし、実情は大きく異なっていたと言わざるを得ない。
ファーストインプレッションでは、遥が機を逸してしまい名乗る事が出来なかった為、この時点で眞利が特段「ビックリ」しなかったのはまず仕方の無い事ではあるだろう。
鹿を解体している最中だったという眞利のスプラッターな出で立ちに、寧ろ遥の方がこれ以上ないくらいビックリしてしまい腰まで抜かしてしまったのもまた、多分仕方がない事だ。
遥がその所為で一樹に抱っこされて祖父の家に上がる羽目になり、結構な恥ずかしい思いをした事まで仕方がないとするかどうかに関しては少々議論の余地が残るところではあるが、今論ずべきはそんな事よりも眞利についてである。
「ふいぃ、夏場の作業場は暑うて適わんわい」
鹿の解体を終えたらしい眞利が遥と一樹の控えていた茶の間にドカドカと入って来たのは、玄関での一幕からは大凡一時間が経過した頃だっただろうか。
「ぴゃっ…!」
初っ端のインパクトが相当だった所為で、遥は思わずビクッとなって小さく悲鳴を上げてしまったが、よく見れば眞利はもう例のキリングモンスタースタイルではなくなっていた。どうやら作業終了に伴って着替えたらしく、今は丈の短い夏用の作務衣に身を包んでおり、相変わらず大きくて圧迫感がある事を除けば至って普通だ。あれほど強烈だった生臭さと鉄臭さも今は気を付けて嗅いでみればするかもしれないと言う程度でしかないところから、おそらくひと風呂浴びても来たのだろう。
「一樹ぃ、冷たい麦茶入れてくれい」
その催促に従って一樹が台所の方へと向かうべく席を立つと、眞利は丁度空いたその場所、つまりはちゃぶ台を挟んだ遥の対面にドカリと腰を下ろした。
「あっ…うっ…と」
遥の目には、正面に腰を据えた只でさえ元々大きい眞利が記憶よりも一層大きく見えていたが、何もそれは幼女になって身体が小さくなってしまった事だけが原因では無い。
勿論それは、老齢の眞利がこの期に及んで尚も成長しているとかそういう事では無く、今度こそ祖父に自分の素性を明かさなければならない遥が精神的プレッシャーを覚えずにはいられなかった所為だった。
先程は眞利が取り込み中だった事もあって、「一樹の連れならまぁいい」というかなり適当で大雑把な結論で見過ごされてはいたものの、こうして文字通り腰を据えて対面したからには、もうそういう訳にもいかない筈なのだ。
何より、遥としても、今の自分を眞利に見てもらう為にここまで来たのだから、それを避けて通る選択肢などは当然ない。
「あ、あの…えっ…と…ぼ、ボクー!」
幾らも気後れをしながら、それでも遥は意を決して遂に自らの素性を明かそうと口を開きかけたがしかし、それを遮る様に眞利の方が先に言葉を発した。
「おみゃぁさん、和平ん子か?」
遥に先んじて眞利が口にしたのは、今正に告げられようとしていたその素性に付いての言及で在ったのだが、無論これは完全な的外れである。
「へっ…? か、かず…ひら…?」
出鼻をくじかれた上に、聞きなれない見当違いの名前を出された遥は、少しばかりポカンとしてしまい堪らずの困惑をも禁じ得ない。
「なんじゃい、ちゃうんか」
遥の反応から眞利もそれが不正解であった事を察したところで、台所に行っていた一樹が麦茶の入ったピッチャーとグラスを持って戻って来た。
「和平くんとこん子は、去年生まれたばっかだで、まんだ赤ん坊だぁ」
どうやら一樹も「和平」なる人物の事を知っているらしく、眞利に一つばかりの指摘をしてから、遥にもその人物に付いて少しばかりの解説をしてくれる。
「和平くんちゅうんは、俺ん従弟だぁ」
という事の様で、同じく一樹の従弟である遥にはその様な名前の親類が存在している記憶がない為、おそらく「和平くん」というのは西山方の血縁なのだろう。
「ふんむぅ…そんならこん子はあれか―」
一樹の説明に遥が一つ納得している間に、眞利はまた新たに独自の結論に辿り着いた様だったが、其れはまたしても的外れな上に些かとんでもないものだった。
「一樹がドイツでこさえた隠し子じゃろ!」
その突拍子もない発想に、一樹が眞利のついでに注いでくれた麦茶に手を伸ばそうとしていた遥は、思わずそのグラスをひっくり返しそうになる。
「ほわっ!?」
確かに一樹は十歳前後の子供がいても不自然ではない年齢であるが、流石に遥が隠し子などという話しは荒唐無稽が過ぎるという物だ。そもそも何故にドイツ等というものが出て来たのかも意味不明だった遥は、もう目を白黒とさせるばかりである。
「そげなもんおったら初めから連れて帰って来とるわいな…」
その言い様からすると、実際に一樹はドイツに居た事が在る様で、祖父の発言には一応の根拠が在った様だが、流石に隠し子に付いてまではその限りでは無かったようだ。
「なんじゃい、甲斐性の無いヤツやのぅ、そんなこっちゃから未だに嫁も取れんのじゃ」
二度目の不正解を喫した眞利は如何にも不満気な顔で、その言い様に一樹は呆れた様子で思わずの苦笑いである。
「きーにぃ、ドイツに行ってたの…?」
今それは特別重要な事では無かったものの、少しばかり気になってしまった遥がチョイチョイと袖を摘まんで問い掛けると、一樹は何やらキョトンとしながらもそれに頷きを返して来た。
「あんりゃ、言っとらんかったかいな? 大学さ出て直ぐに海外農業研修ちゅうやつで暫くドイツにいっとったんよ」
遥としては完全に初耳であったが、大学を出て直ぐというと、一樹が祖父の家に現れなくなった時期と丁度一致しており、そういう事であれば色々と納得ではある。
「そうだったんだ…全然知らなかった…けど…」
遥は意外とグローバルでアクティブな一樹に軽く尊敬の念を覚えもするが、今はそれにのんびりと感心している様な場合では無かった。
何せ、眞利が次々と突拍子もない事をいうものだから、遥はすっかりペースを奪われてしまい、依然として自分の素性を明かせていないのだ。
そうこうしている間にも、眞利はまた何か新しい答えに辿り着いたようで、今度こそ間違いないと言わんばかりの様子で自信満々に胸をも張った。
「和平ん子でも、一樹の隠し子でもないっちゅうんなら、もうアレしかないやろ」
遥としてはもうさっさと自分の素性を明かしてしまいたい所ではあったのだが、ここまで来ると眞利の言う「アレ」が一体何なのか少し聞いてみたい気がしないでも無い。
「おみゃぁさん、最近流行りやっちゅう家出少女やな!」
案の定、と言うべきなのだろうか、遂には血縁でもなくなってしまった眞利の珍回答に遥は思わずガクッとよろけてちゃぶ台に額を打ち付けそうになる。
「ちがうから! ボクはおじいちゃんの―」
このままでは一向に埒が明かないと判断した遥は、身を乗り出して今度こそ自らの素性を明らかにしようとしたがその刹那、不意に眞利の大きな手が視界を遮った。
「―っ?!」
突然の事に、遥はつい言葉を止めて、身を乗り出した態勢のまま一瞬固まってしまう。
「今までんは、みんな冗談じゃい」
その言葉と共に遥の視界を遮った眞利の大きな手がそのまま頭上まで伸びて、そのちょっと癖のあるふわふわの髪を思いのほか優しく撫でつけて来た。
「…ほわっ」
開けた遥の視界に映ったものは、目を細めて穏やかに微笑む祖父の顔。
「おみゃぁさん、遥やろう? よう来てくれたなぁ」
眞利は、その微笑み同様の穏やかな声で、確かに「遥」とそう言った。
「…えっ? な、なん…で?」
まだ名乗れていないのに、祖父が知る自分では無いのに、一体どうして気付いてもらえたのか分からず、遥は堪らず呆然としてしまう。
「可愛い孫んこたぁ、どないなっても分かるわいな」
本当にそんな事が在るのかどうかはいくらも疑わしいところで、実際、眞利は玄関先で顔を合わせた際には、見慣れない小さな女の子が孫の遥であるという事に本気で気付いていない様子だった。
そんな眞利が一体全体どのような根拠をもって、どんなタイミングでそれに気付いたのかは分からない。遥が女の子になってしまった事は響子が事前に話してくれていたし、遥が今日訪ねて行く事もまた響子が事前に連絡してくれていた為、玄関先での一幕を経た後に、それらの事柄に思い至って、そこから推論を得たと考えるのが最も自然だろうか。
「お、おじい…ちゃん…、ぼ、ボク…」
何はともあれ、名乗らずとも気付いてもらえた事は間違いなく喜ばしい事ではあったものの、だからといって遥はまだそれを手放しには喜べなかった。
「ボク…こ、こんな…見た目に…なっちゃって…そ、それで…」
それを祖父がどう感じたのかが最も大きな懸念材料であった遥は、堪らず伏し目がちになってその表情を不安に陰らせる。だが、眞利は、そんな遥の懸念や不安をものともせずに、相変わらずの優しい手つきでその頭を撫でながら事も無げだった。
「見た目なんぞ大したこっちゃぁない」
小さな女の子になってしまった所為で、遥は今まで様々な苦労を強いられてきているのだから、それは十分に大した事ではあっただろう。しかし、それは実際に、今この場に限って言えば間違い無く大した事では無かった事を遥はすぐさま思い知らされた。
「命がありゃぁそれでええんじゃ」
その言葉と、間違いなくそれが其処に在るの事を確かめる様にそれまでより少しだけ力の籠った眞利の手つきで遥はハッとなる。
「おじい…ちゃん…」
自分に会いたがっていたという眞利が一体どのような心持でいたのか、どれ程それを待ち望んでくれていたのか、その手がその在り様を雄弁に物語っていた。
「よう…来てくれた…、よう…生きとってくれた…」
そう言って殊更穏やかに微笑む眞利の目元に、キラリと光るものが微かに見えた気がしたのは、おそらく見間違い等ではない筈だ。
「…うん」
遥は優しくも力強い大きな手の下で小さく頷きを返しながら、先ほどのハッとさせられた眞利の言葉を胸中でそっと反芻する。
『命があればいい』
遥はそれを知っていた筈だったのに、女の子の身体で生きていく事の大変さから、ともすれば忘れそうにもなっていた。辛い思いをするだけならば、こんな身体になってまで生き永らえたくはなかったと、そう思いそうになった事すらもある。それ程でなくとも、今日だって、何度その小さく頼りない幼女の身体を恨めしく思ったかは分からない。
「おじいちゃん…」
遥が少しばかりうるんだ瞳を向けて呼びかけると、眞利はそのまましばらくの間、飽きることなくその頭を優しく撫で続けてくれた。
遥はきっと、もう二度と忘れないだろう。小さな女の子の身体を与えられてまで繋ぎ止められた命の意味と、それがどれ程尊い事であるのかを。
例え自分が何者であったとしても、こうしてただ命があるというだけで、其れを無条件に喜んでくれる人が確かにいるのだという事を、今一度強く実感できたのだから。




