4-32.以外で妥当な反応
一樹は言った。これから「自分の爺様」に会いに行くところだと。
「あぅ…」
予期せぬ再会を果たした従兄を前にして、どうしたらいいのか分からず些かの混乱状態にあった遥は、思わず一樹の言う「自分の爺様」が「東山のおじいちゃん」では無い事を願わずにいられなかった。
一樹の祖父は父方も健在で、おまけに住んでいる場所もこの近隣である為、実際それは絶対にあり得ないというほどには荒唐無稽な話でも無い。ただし、現実的に考えれば、それは多分に希望的観測が過ぎるというもので、可能性としてはかなり低いと言わざるを得なかった。
もし一樹が父方の祖父を訪ねるつもりで移動していたのなら、進行方向的には遥と行違う形で出くわしていなければ不自然だったからだ。
つまりそれがどういう事かを説明する為に、ここで少しだけこの辺りの地理について語っておこう。
まず、この辺りが山間の寒村である事は既に周知であるとして、実のところそれは二つの異なる集落から成り立っている事を知ってもらわねばらない。
一つは一樹の実家があり西山家の祖父が住まう、その名もズバリ「西山」と称される集落で、それは何を隠そう遥がバスを降りた地点だ。
そしてもう一つがそこから東側に、響子曰くニ十分程歩いた処に在るこれまたその名も正しく「東山」と称される集落で、「東山のおじいちゃん」はそこに住んでいる。
因みに、この東山と西山はその昔一つの集落であったらしいが、今から遡る事数百年程前にこの辺り一帯を治めていた地方豪族が何らかの理由で二つに分裂した事により、東西に分かれてそのまま今日にまで至るらしい。
さらに加えて言うと、一樹の実家である「西山家」と「東山のおじいちゃん家」こと「東山家」は、共に分裂した豪族の直系に当たり、それぞれが双方の集落を代表するわりと由緒正しき家柄なのである。
尤も、今はどちらも寒村のしがない一農家にしか過ぎず大した権威も無いが其れらは余談として、要は遥と同じく西山の方角から東山に向っていた一樹がこれから会いに行くという「自分の爺様」は、「東山のおじいちゃん」であると考えるのが自然なのだ。
無論それも、一樹が言った「これから」という言葉をどう解釈するかによって見方は幾らでも変わって来るのだが、それも含めていた遥の願いは、他でもない本人の弁によって直ぐに打ち砕かれる事となった。
「オジサンの爺様は、あっちらへんに住んどるんだけどもぉ、お嬢っちゃんの爺様ん家もその近くかねぇ?」
そう言いながら一樹が「東山」の方角を指し示したとなれば、最早一片の疑い様も無い。一樹が訪ねようとしている「自分の爺様」は、どう考えても「東山のおじいちゃん」の事で間違いがなさそうだった。
「あぅぅっ…」
一樹の向かう先が「東山のおじいちゃん家」であったとほぼ確定してしまった今、遥はいよいよもっての決断を迫られる。
仮に、一樹の向かう先が他のどこかであったならば、もしかしたら遥には何か別な選択肢が在ったかもしれない。否、単純にこの場を乗り切る事だけに焦点を当てれば、それがどんな手段かはともかく、そのあったかもしれない選択肢は恐らくまだ有効ではあるだろう。しかしながら、例えそうして祖父の家にまで辿り着いたところで、結局はそこでまた一樹と顔を合わせる事が既に決定事項であるのだから、今やそれは問題を先送りにした上で話をややこしくするだけの完全なる悪手と言わざるえを得なかった。
実際にそうした場合、一樹がどの様な対応を見せるのかは分かり様も無いが、少なくとも遥にとって二度目の再会が相当やり難いものになる事だけは請け合いである。
ならば遥としては、例え覚悟が定まらなかろうがともかく腹をくくって、今この場で自らの素性を一樹に明かしてしまう事がどう考えても唯一にして最善の道だった。
ただそんな状況であっても、やはりと言うべきか、遥はいざとなるとどうしたって幾らも気後れせずにはいられない。
「はぅぅ…」
遥は気後れする余り、こんなとき賢治が傍に居てくれればさぞ心強かっただろうにと、ついついそんな事をも考えてしまう。尤も、賢治の同伴を提案してくれた響子の意見を突っぱねて、今回のひとり旅に踏み切ったのは外ならぬ遥自身なので、完全に自業自得だ。
「むぅぅ…」
遥は自業自得を棚上げにして、肝心な時に居てくれない賢治が恨めしくすら思えて来たがしかし、ふと聞こえて来た一樹の呟きで直ぐにそんな八つ当たりをしている余裕も無くなった。
「うんむぅ、お巡りさんでも呼んだ方がえぇんかもなぁ…」
これまで根気よく接してくれていた一樹も、流石に対処しあぐねてしまったのだろう。助けになろうにも、目の前の幼女はその愛らしい瞳に涙を浮かべて何やら唸るばかりで、手掛かりになる様な事は一向に喋らないのだからそれも無理は無い。
「どうかねぇお嬢っちゃん、オジサンに話しにくいなら、お巡りさんに―」
思えばそれは、もっと早い段階で提案されていてもおかしくは無い至って常識的な判断ではあったのだが、この展開に慌てずにいられなかったのが当然ながらの遥である。
「ま、待って、きーにぃ!」
一樹を思いとどまらせようと慌てて咄嗟の制止を掛けた遥は、焦った勢いでつい昔ながらの呼び名を口にしてしまっていた。
「…あっ」
自分の素性を明かす覚悟など依然として全くできていなかった遥は、すぐさま自分がやらかしてしまった事に気付いてサッと両手で口元を覆い隠す。
勿論、そんな事をしても一度吐いた言葉が無効になる訳も無く、遥もそれは十分承知の上だったが、それでもせめて一樹が今の呼び名を聞き逃してくれている事くらいは祈らずにいられなかった。
「はて…? お嬢っちゃん、いまオレんこと、『きーにぃ』ちゅうたか?」
遥の祈りも虚しく、一樹はその呼び名をバッチリ聞き分けていた様で、それ故に心底不思議そうな顔で首を傾げさる。
「懐かしい響きやけどもぉ…オレんをそう呼ぶんは一人しかおらん筈やけどなぁ…?」
事実その通り、一樹を「きーにぃ」と呼ぶのは、遥が知っている限りでも自分だけで、こうなるともう覚悟がどうのと言って気後れしている場合では無くなった。
「…うっ…、ぼ、ボク…そ、その…」
自らの失態で図らずも自身の素性を明かす決断をせざるを得なくなった遥は、不思議そうな顔でいる一樹を上目で見やりながら、胸前でギュッと両手を握りしめる。
「ボク…、は、遥だよ! 東山眞利の孫で、きーにぃの従弟の…奏遥だよ!」
遥は未だ定まらない覚悟の代わりに、その小さな身体に備るありったけの勇気をかき集め、震える声で遂に自らの素性を明らかにした。
「…うっ…うぅ」
正しく決死の思いだった遥は、堪らずその大きく黒目がちな瞳を涙で滲ませて、思わずそれをギュッと固く瞑ってもしまう。身元不明の幼女だと思っていた相手が実は成人も目前の従弟であったという事実を知った一樹がどんな顔をするのか、遥はそれを見るのが恐ろしかったのだ。ただ、そんな遥の恐怖心を他所に、一樹が示した反応は、少しばかり予想していなかった類の物だった。
「…………ちょっと、何をいうとるのか…分からんのやけども…」
しばしの沈黙を経て、一樹が示した反応は「理解不能」只それだけである。
「…えっ?」
遥が思わず瞑っていた両目を開けて見れば、一樹はその反応に違わない先程よりも一層キョトンとして、殊更に不思議そうな顔をしていた。
「確かに、うちの爺様は東山眞利やし、オレん従弟にゃ遥くんゆう子がおって、その子はオレん事、『きーにぃ』呼びよるけどものぉ…」
それだけの情報が揃っていても、やはり一樹は目の前の幼女が従弟の遥であるという事実を上手く飲み込めない様で、頻りに首を傾げさせる。
一般的な常識に照らし合わせてみれば、一樹の反応は妥当と言えば妥当だったのだが、これは遥にとって意外にも初めてに近いケースだった。
よくよく考えてみれば、遥は元の自分を知る相手に、何の予備知識も与えない状態で予告無しに素性を明かした経験自体が殆ど無かった事だ。
一応前例として今の身体になって間もなかった頃に、行きつけのラーメン屋で馴染みの店主に対して予告なく素性を明かしてはいたが、あの時は比較的直ぐに理解を示して貰えている。
「えっと…その…」
あの頃はまだ女の子の身体で生きていく弊害や問題などが良く分かっていなかった事もあって、さほど抵抗なく自分の素性を打ち明けられていた遥だが、それはともかくとしてだ。あの時どうやってラーメン屋の店主に信じてもらっただろうかと、記憶を遡ってみたところで、遥は一つ重要な事を告げていない事に思い至る。
「あっ…そうだ! ボク、三年前に大きな事故で一度身体を無くしちゃって、それで再生医療っていう身体を一から造り直す治療を受けたんだけど、ちょっと手違いで小さい女の子になっちゃったの!」
これで成人間近な筈の従弟が幼女になってしまった事に付いては理解してもらえるだろうかと踏んだ遥であるが、残念ながら一樹の反応はいまひとつ芳しくなかった。
「…ふんむぅ? そういやぁ遥くんが事故に遭って入院したゆう話しは聞いた気がするけどもぉ…、それで小さい女の子になった言われても、やっぱよぉわからんのぉ?」
尚も理解不能を示す一樹の反応に、遥は自分が如何に非常識な存在であるかを改めて痛感させられて思わずこれに酷く落ち込みそうになる。
「あぅ…」
思い返してみれば、遥自身、今の身体で目覚めた直後は自分が小さな女の子になってしまった事実を受け入れるのにそれなりの時間と葛藤を要していた。ならば、一樹が中々信じてくれないのも当然と言えば当然なのかもしれない。
「いやすまんなぁ、お嬢っちゃんが嘘を言っとらん事は何となく分りよるけども、どうにもこうにもなぁ…」
一樹としては、信じたいが信じ難く、凡そ理解も及ばないといったところであろうか。
他に使う者の無い「きーにぃ」という呼称を用い、奏遥という名を明かし、幼女である経緯まで説明しても尚理解を得られないとなると、遥にはもう殆ど打つ手は無かったがしかし、だからと言って諦めるにはまだ少し早かった。
「そ、そうだ…、これ! これ見てきーにぃ!」
自分にはまだ最後の切り札が残されていた事を思い出した遥は、首から下げていたもふもふの毛玉ポーチ開けてパスケースを引っ張り出す。
「ほら、これなら信じてくれる!?」
遥がパスケースから一枚だけ抜き取って一樹に突き付けたそれは、つい最近も青羽を相手取って自らの素性を知らしめるのに一役買った健康保険証に他ならない。
「…ふんむぅ?」
これで納得してもらえなければ遥にはもう、後は自分や一樹、それと祖父に纏わる喋れる限りの話を語って聞かせるくらいしか出来る事は無さそうだった。




