1-15.来訪者
美乃梨が退院してから数日、定期検査を終えた遥は診察室の椅子に座り諏訪医師の前にいた。机に向かう諏訪医師は検査結果を確認しながらカルテにペンを走らせている。
「うん、今回も特に異常は無いね」
書き終えたカルテを机に置いて遥の方へと向き直った諏訪医師は、いつものゆったりとした口調でそう言った。
「リハビリ科からも日常生活レベルはもう問題ないと報告が上がって来ているね」
遥は諏訪医師の言葉に固唾を飲む。以前諏訪医師がこのまま検査に問題が無ければ後はリハビリの状況次第で退院できると言っていたのを覚えていたからだ。検査では毎回異常がなく、リハビリは諏訪医師の言った様に車椅子を卒業して日常生活に支障がない段階まで来ている。
「おめでとう。もう退院できるよ」
人懐っこそうな笑顔で言った諏訪医師の言葉に遥はほっと胸を撫で下ろす。遥が目覚めてから一ヶ月半が経過していた。
遥は退院という言葉を噛みしめそしてその意味を考える。正直まだこの十歳前後の幼女の身体で生活を送って行く事には不安があった。これまでの十五年間で培ってきた経験の及ばない生活に飛び込んでいく事になるだろう。だからといっていつまでも躊躇っている訳にはいかない。この一ヶ月半の入院生活で、両親や賢治に美乃梨が与えてくれた強さが今の遥にはある。未だ不安は燻ぶっているが前を向いて行こう。そう思える様になっていた。遥は自分の気持ちを確かめ諏訪医師を真っすぐ見据える。
「先生、命を助けてくださって、ありがとうございました」
椅子の上で深々と頭を下げ今まで言えずにいた言葉を口にする。この身体になった事で彼を恨む気持ちが無かった訳ではない。しかし今はそれ以上に美乃梨の存在が気付かせてくれた、生きている事の幸福さと、命を救ってもらった事に対する感謝の気持ちが大きかった。
「君にそう言ってもらえる日がくるとはなあ…」
頭を下げる遥を見つめながら諏訪医師は感慨深げにしみじみとした口調で言って目頭を押さえる。それから軽くかぶりを振ると改まった表情を作り何度目かになる謝罪の言葉を遥に述べた。
「我々の力が至らなかった事を本当に申し訳なく思う」
謝罪と共に頭を下げた諏訪医師に、この人もまた強さをくれた人の一人だと遥は思う。命を救ってもらった事は勿論だが、彼はいつも誠実さを持って遥に接してくれていた。若輩者と侮らず、誤魔化しも言い逃れもせず常に真摯に向き合ってくれていた。それは人として当然の事のように思えるが世の中にはそうではない人間が多くいる事を遥は知っている。十代特有の少し穿った大人に対する先入観なのかもしれないが、そんな中でこの医師は稀有な人だと感じるのだ。彼が常に偽りなく誠実でいてくれた事は遥にとって良くも悪くも現実と向かい合う切っ掛けとなり、それが結果として今遥の心持が前を向けている事に繋がっているのだと思えた。
「先生のくれた命と身体、大事にします」
遥の真っすぐな言葉に諏訪医師は嬉しそうに何度も頷く。
「君の未来が良きものになる事を願ってやまないよ」
真面目な面持ちで少々大げさな表現を使って遥の行く末を祈願すると、諏訪医師はまたいつもの人懐っこそうな笑みを見せる。未来と言った諏訪医師の言葉に遥は期待半分不安半分といった心境だったが、それでも彼が良きものであると願ってくれるなら、きっとそれは明るいものだと遥はその言葉を胸に留め自然と笑顔がこぼれ出た。
それから妙に和んだ雰囲気で退院に際しての注意点や説明事項を幾つか聞かされ後、遥は諏訪医師に一礼をして診察室を後にした。退院後も月に一度は検査に来てほしいとの事だったので今後も彼とは定期的に会う事になるだろう。今は病室にゆとりがある様で退院の日取りはある程度自由に決めて良いと言われていた。とりあえず父か母に連絡を取らなければと考え、病院内にある公衆電話の利用を考えるが今日は毛玉ポーチを持ってきていない。一旦病室に戻って小銭を取ってこなければと思い至り遥は自分の病室へと足を向けた。
遥が自分の病室前までたどり着くと扉の前には男が一人立っていた。擦り切れたジーンズに使い込まれたオリーブ色のミリタリージャケットを纏うその恰好から察するに病院関係者ではないだろう。扉に向かっているため遥からは大きめのバックパックを背負った背中側しか見えず顔が判別できない。中肉中背の体格から賢治でない事も分かる。賢治以外で遥の見舞いにやってくる男性は父ぐらいだが、父は大抵スーツ姿だしまだやってくるような時間帯でもない。もしかして友人の誰かかとも考えたが賢治以外の友人には知らせていないし、賢治も遥の許可なく他の友人達に漏らす事は無いだろう。結局その正体を知る為には直接本人を確かめるしかない。
「あの…ボクの病室になにか用ですか?」
遥が恐る恐る背中に声を掛けると男は遥の声に反応して振り返った。そして振り返った男の姿に遥の中で「誰だ!?」という疑問が大爆発する。振り返った男は、何故そんなものをと思わず突っ込みたくなるような民族色豊かな木製の仮面を片手に持ち、それを顔前にかざしていたのだ。
仮面で顔が判別できない正体不明の人物に遥が困惑していると、仮面の男は空いている方の手をゆらりと顔の高さまで上げ一歩踏み込んできた。遥はその異様な佇まいに堪らず一歩後ずさる。すると男は遥が後退した分さらに一歩踏み込んできた。これに遥も再び一歩後ずさるが身体の小さな遥と平均的な成人の体格を持つ男とでは歩幅の差は歴然でその距離は確実に縮まっている。
遥はジリジリと近づいてくる正体不明の奇怪な仮面に、何これどういう状況!? と自分の置かれているよくわからないシチュエーションに混乱する。遥が戦々恐々としていると不意に仮面の男がカクッと九〇度その仮面ごと首を横に倒した。
「ひぁっ…!」
男の突然の奇行に遥の口から思わず小さく悲鳴が漏れる。そして混乱と戦慄で制御の甘くなった身体は後ずさろうとした足をもつれさせペタリと後ろに尻もちをついてしまった。良く分からないが万事休すと遥が思った瞬間、男は構えを解いて普通の足取りですたすたと遥の元までやって来て尻もちをついた遥の前にしゃがみ込んだ。
「いやぁ、ごめんごめん、良い反応だったからつい調子に乗っちゃったわ」
手に持っていた仮面を顔前から外し男が愉快そうに笑う。仮面を外しようやく確認できたその男の顔に遥の全身から力が抜けてゆく。それは遥が良く知る人物だった。
「辰兄…」
奇怪な仮面男の正体は遥の実の兄、辰巳その人だった。父が連絡したと言ってからすでに一ヶ月は経過していた為、遥はもう辰巳が現れる事は無いのではないかと思っていただけに、意外な人物の意外すぎる登場の仕方に立ち上がるのも忘れ完全に脱力状態だ。
名を口にした遥に辰巳は無精ひげの伸びた顎を撫で首を傾げた。
「今、俺の事『たつにい』って呼んだか?」
不思議そうにする辰巳に遥は目の前の幼女が実の弟である事を説明しなければと、唐突な兄の登場に呆けてしまっていた自分の思考を呼び戻す。何と事情を説明しようかと遥が考えをまとめていると辰巳は自分の膝をポンと叩き遥より先に口を開いた。
「そうか、お前遥か」
説明するまでもなくその答えに至った兄に遥は思わず感嘆する。兄は確かに独創的な思考の持ち主だがこの状況だけでここまですんなり自分を遥だと認識してくれるとは流石に思ってもいなかった。
「お、驚いてるな? 兄ちゃんを舐めるなよ」
遥の考えを見抜いたように辰巳は自信に満ちた顔で笑ったがすぐ種を明かしをしてくれた。
「親父から話は聞いてたし、さっきお前が『ボクの病室』って言ってたのと、俺を辰兄って呼んだから分かったんだよ」
辰巳は病室の入口に掲げられたネームプレートを背中越しに親指で指し示す。当然そこには「奏遥」と名前が入っている。遥は成程と納得しつつ、それにしたって受け入れるのが早すぎやしないかと思わないでもない。賢治ですら最初は少なからず戸惑ったというのに、辰巳の順応振りはかなりの物だ。
遥がそんな事を思っていると辰巳は遥の前に手を差し出してくる。再会の握手だろうかと遥が少し躊躇いながら自分も手差し出すと、辰巳はその手を力強く握って尻もちをついたままの態勢だった遥を勢いよく引っ張り上げた。
「お前軽くなったなぁ」
勢いが付いたせいで少しバランスを崩した遥の身体を支えながら辰巳は愉快そうに笑う。
「ま、こんな所で話すのもなんだ、とりあえず中入ろうや」
病室を目で指す辰巳にそれはどちらかと言うと自分が言う言葉なのでは、と思わなくもない遥だったが、辰巳は構わず遥の手を引いて病室の戸を開け遥を中に引き入れる。室内を一瞥してベッドの横にあるパイプ椅子を見つけると、遥の手を引いたままそこまで進んでようやく遥から手を離す。それから背負っていた大きめのバックパックを横に下ろしてどかりとパイプ椅子に腰かけた。
「ほら、お前も座れよ」
辰巳はベッドを指して遥に着席を促す。遥はすっかり我が物顔で振る舞う兄に若干釈然としなかったがひとまず促されるままベッドに腰を落ち着け辰巳と向き合った。
黒く日に焼けた肌と短く刈り込んだ髪、そして無精ひげを蓄えた顔は記憶より全体的に逞しくなっているような印象だった。