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4-30.ひとり旅

 賢治が複雑な心模様を描いた事と、青羽が最後まで遥の水着姿を直視できなかった事を除けば、後はこれと言って特筆するべき事件も無かった海水浴から数日。

 長い夏休みもいよいよ後半戦に差し掛かった八月の中旬、遥は白いサンドレス姿で小さなキャスター付きトランクをお供に連れてひとり旅に出ていた。

 単身、電車に揺られる事およそ三時間、そこからバスに乗り換えて更に一時間。合わせて四時間の道のりを経て、それ以上公共交通機関では進みようがない地点までやってきた遥は、お供のトランクと共に降り立った古びたバス停の脇で遠い目をする。

「…のどか…だなぁ…」

 一面に広がる田園風景、今どき珍しい未舗装のあぜ道、点々と見える昔ながらの瓦屋根、僅かに望めば雄大に峰を連ねる緑深い山々。遥は何となく気を使って若干のオブラートに包んだ表現を使ってはみたものの、要するにそこは限界集落待ったなしのいわゆるド田舎だった。

「はぁ…」

 人里離れた山間の寒村で物憂げに溜息をこぼすひとり旅の美少女というその絵面は、どこからどう見ても訳アリの其れでしかなかったが、ある意味その認識は大変に正しい。

 そもそも、何か特別な「訳」でもなければ、遥がひとりでこんな辺鄙なド田舎を旅している筈がなかった。

 では、それが一体どのような「訳」で在るかと言えば、その経緯は少しばかり長い話になる。


 始まりは、今から遡る事三日ほど前、母の響子が告げてきた次の様な一言からだった。

「ねぇ遥、今年は東山とおやまのおじいちゃん家、どうする?」

 それは遥にとって少々思いがけなかった言葉で、リビングのテーブルに広げていた夏休みの課題から顔を上げて少しばかりキョトンとしてしまう。

「ふぇっ…?」

 中々に間抜けた声を上げたしまった遥だが、それは別に響子の言わんとするところが理解できなかったからではない。

 遥は「東山のおじいちゃん」が母方筋の祖父である事や、数年前までは毎年この時期に訊ねるのが恒例だった事だって当たり前の事柄としてちゃんと理解できていた。

 そもそも、その数年前とは正しく遥が例の事故に見舞われた年であり、それ故に遥は当然の様に今年も例年通り「東山のおじいちゃん家」に行くものだと、そう思い込んでいたのだ。そこへ来て「どうする?」等と聞かれては、それはもう間の抜けた声くらいは上げてしまっても仕方がない。

「どうするって…、もしかして、行かないの…?」

 年に一度しかない遠方に住まう祖父に会える機会を楽しみにしていた遥が少し口を尖らせて問い返すと、響子は少しばかり困った顔になる。

「今年はお母さんもお父さんも、お盆休みとれなさそうなのよねぇ…」

 その返答で母の意図が一つ理解できた遥だが、それで聞き分けよく毎年の恒例行事を諦められたかと言えばそれはまた別だった。

「それなら、ボク一人で行ってくるよ」

 後になって振り返ってみれば、この決断がなければ、遥のひとり旅はもう少し穏便な物になっていたかもしれない。ただ、この時点での遥はそうと気付かず、純粋に今年も祖父に会うのを楽しみにすらしていた。

「うーん…、でも遥を一人で行かせるの…お母さん凄く心配なんだけど…」

 その言い様に、響子が自分を子供扱いしていると感じた遥は、頬を膨らませて大いなる不服を露わにする。

「ボク、もう高校生だよ! っていうか十九歳だよ! おじいちゃん家くらい一人で行けるよ!」

 小動物の様な愛くるしい拗ね顔でそんな事を言ってみせても、そこに説得力は生まれる筈もなく、響子は益々心配そうな顔をして少しばかりとんでもない提案を口にしかけた。

「うーん…それじゃぁ…賢治君に付いて行ってもらえないか聞いて―」

 普通であれば、賢治同伴は遥としても望むところであっただろう。ただ、今回ばかりは年相応に分厚い自尊心がそれを良しとはせずに、そうはさせるかと遥は響子の発言を遮った。

「一人で大丈夫だから! 大体、おじいちゃん家に賢治が付いて来たら変でしょ!」

 それは分かる様な分からない様なとても微妙な道理だが、ともかくこうなると遥は中々に頑固で、それは母親である響子なら良く知るところだ。

「うーん…、そうねぇ…おじいちゃんも遥に会いたがってたし…、でもねぇ…」

 逡巡する母の様子から後一押しだと感じた遥は、もちろんこの期をみすみす逃しはしない。

「お母さんコレ! これでボクがどこにいるか分かるようにしとくから!」

 遥が勢い込んで母に提示して見せた「コレ」とは、賢治が誕生日プレゼントにくれたスマホと連動できるGPS付き防犯ブザーだった。つまり遥は、祖父の元を訪ねる間中はそれを響子のスマホと連動させて、常時「見守れる」状態にしておこうというのだ。

「…はぁ、そこまで言うなら仕方ないわねぇ…」

 ブザーが決め手になったのか、それとも単に根負けしたのか、ともかく遂に響子が折れた事によって、遥のひとり旅がここに成立である。

「やった!」

 今年も祖父に会える事と、自身の自尊心を守り通した事で、二重の喜びに沸く遥であったがしかしそれも束の間、その旅が「訳アリ」になったのは正しく次の瞬間だった。

「おじいちゃん、今の遥を見たらきっとビックリするわねぇ…」

 響子が何気なく口にしたその言葉で、俄かに浮かれていた遥の笑顔が一瞬にして凍りつく。

「あっ…」

 毎年この時期に祖父を訪ねるのが「当たり前」であったため、遥は今の今までついうっかりその事を考えの外に置いてしまっていた。

「お、おじいちゃんって…ボクが女の子になった事は…知ってる…よね…?」

 サッと顔を青ざめさせた遥がおずおずと問い掛けると、響子は頷きでそれを肯定しながらも少しばかり難しい顔をする。

「そりゃぁ、話はしてあるけど、聞くのと見るのは違うんじゃない?」

 母の言う事は全く然りで、そうであれば遥はこれに恐怖を覚えずにはいられない。

 今や「違う生き物」である自分を見たら、祖父は一体どんな反応をするのか。母が言う様なビックリで済めばまだ良が、もし受け入れてもらえなかったら、もし拒絶されてしまったらと。

「あ…ぅ…」

 これまで、家族や旧友、それに新しく出来た友人達にだって、概ねで受け入れられて来たのだから、今更それの何を恐れる必要があるのかと、ここでそう思える遥だったなら、今回の旅はそこまで「訳アリ」にはならなかった事だろう。

 しかし、祖父が相手である今回ばかりは、例え今更でも遥は殊更の恐怖心を覚えずにはいられなかった。渋る母を半ば強引に説得して、一人でも会いに行きたいと思える程に、祖父の事を慕っているのだから、それは当然の心理だったのだ。

「あっ! そ、そうだ、写メ! おじいちゃんに写メ送って!」

 これなら少なくとも祖父の「ビックリ」も多少緩和されるのではないかと、そう考えた遥だが、残念ながら物事そう上手くは運ばないのが世の常である。

「おじいちゃん、スマホどころかケータイすら持ってないわよ…」

 此れにて万策尽きた遥がひたすらに愕然となっていると、響子はその様子に苦笑を洩らしながらも、我が子の複雑な心中を慮って少しばかりのエールを送ってくれた。

「大丈夫よ遥、おじいちゃんも会いたがってるってさっき言ったでしょ?」

 響子は先ほど遥の身の上に付いて話してあるとも言っていたので、ならば祖父はある程度心の準備をした上でそう言ってくれている事になる。

「そ、そっか…な、なら…大丈夫…だよね…」

 そう自分にいいきかせながらも、遥はまだ幾らも恐ろしくは有ったが、それでも年に一度の大好きな祖父に会える機会を逃したくない気持ちも強い。

「…うん、ボク、行ってくる! 行って、今のボクをおじいちゃんに見てもらう!」

 結局、幾らかの葛藤を経たのちに遥は覚悟を決め、かくして「訳アリ」の自分をお披露目するひとり旅が断行される運びと相成ったのである。


「はぁ…」

 一応の覚悟を決めて、何とか祖父の住まう土地にまではやって来た遥だったものの、やはりいざとなると気は重く、その唇からは今一度の溜息がこぼれもした。

 ただ、せっかくここまで来たのだから、いつまでも気後れしてはいられず、遥は首からぶら下げていた毛玉のポーチに手を突っ込んでスマホを引っ張りだす。

「えっとぉ…現在地がここだから…、やっぱり結構ある…よね…」

 毎年来ていても電車とバスを使って訪れるのが初めてだった遥は、スマホの地図アプリで位置関係を確認してみたが、どうにも目的地まではまだ五キロ以上は有りそうだった。

「お母さんはバス亭から歩いてニ十分くらいって言ってたけど…」

 若かりし頃の響子ならニ十分で行けたかもしれない距離も、ちんまりとした幼女である遥からすれば、試す前からぐったりしてしまうくらいには途方も無い。

「…タクシーとか…呼べるかなぁ…?」

 夏休みの前半を体育の補習に費やしても相変わらず貧弱な遥は、歩くという選択肢を早々に除外して、別な移動手段を検討し始める。だがしかし、遥はスマホで最寄りのタクシー会社を検索しようとした処で、直ぐにそのプランが実現不可能である事に気が付いた。

「あぅ…電波…来てない…」

 さすが山間のド田舎である。GPSは拾えても通信波は届かない様で、実際に画面の右上にも、小さくだがハッキリと「圏外」と表示されていた。

「むぅ…」

 こうなるともはや取れる手段は、先程選択肢から除外した「徒歩」以外に無く、遥は渋々ながらも小さなキャスター付きトランクを引いて歩き出す。

「…暗くなる前に着けるかなぁ…」

 ニ十分と言った母の言葉を信じるならば、流石の遥でも一時間くらいかければ何とか辿り着けそうなものだが、事はそう単純ではない。歩を進めるのはお世辞にも歩きやすいとは言い難い未舗装のあぜ道であり、さらに最悪な事に遥の小さな足は長距離行軍に全く不向きなサンダルなんて物に飾られていたからだ。

「こんな事ならスニーカーにするんだった…」

 そうは言っても最早後の祭りであるが、遥は歩き出してから十分もしない内に更なる後悔に見舞われる事となった。

「うぅ…痛いよぉ…」

 歩を進める度にじわじわと増してゆくその痛みは、間違いなく靴擦れの其れである。只でさえ歩きにくい凸凹のあぜ道をサンダル等で歩き続ければ、それは当然と言えば当然の結果だった。

「あぅぅ…」

 それでも遥はハンカチをあてがったりしながら、そこから何とかかんとか一キロ位は歩いただろうか。しかし、その間にも靴擦れは酷くなる一方で、真っ白だったハンカチはすっかりピンク色に染まってしまい、遥が限界を迎えるにはもう幾らも掛からなかった。

「も、もう…やだぁー!」

 遂に靴擦れの痛みに耐えられなくなり、祖父に会う以前に物理的な要因で挫けてしまった遥は、完全な涙目になってスカートやショーツが汚れるのも構わず、その場にペタリとへたり込んでしまう。

「うっ…うぅ…」

 最早一歩も動けず、行くも帰るもままならない遥は、このどうしようもない状況に声をあげて泣き出しそうにもなってしまったがそんな折だ。

 遥が歩いて来た方角から走り来た軽トラックがすぐ目の前で停車したかと思うと、運転席側の窓から作業着を着た三十代くらいの中年男性が顔を出した。

「お嬢っちゃん、こんなところに一人でどぉしたぁ?」

 それは遥にとって正しく救いの神が降臨した瞬間であり、地方訛り激しい独特のイントネーションで声を掛けて来たこの中年男性に後光すら射して見えていたとかいないとか。

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