1-14.退院
「今日はあいつ来てねーのか?」
見舞いにやってきた賢治が病室内を見渡し遥に問いかけた。あいつとは美乃梨の事だろう。
「そういえば今日は見てないね」
美乃梨の姿が見当たらない事にどこかほっとしている様子の賢治に遥は小さく笑いながら答える。あれからも美乃梨は遥の病室を頻繁に訪れ、遥の見舞いにやってくる賢治とは遥を巡って争う喧嘩仲間の様な間柄に落ち着いていた。尤も年上の賢治が美乃梨の暴走に付き合ってやっているという感じではあるが。
「あいつの相手は疲れるんだよなぁ」
少しうんざりとした様子でそう言った賢治に、遥はエネルギーの権化たる美乃梨の姿を思い浮かべ「確かにね」と苦笑する。二人の攻防は当然その中心にいる遥にも余波するので他人事ではないのだが、遥はなんだかんだそんな賑やかさが気に入っていた。
「そもそもあいつどっから見ても病人にゃ見えねーけど、何で入院なんかしてんだ?」
賢治の疑問も尤もだ。急性肝炎で入院している美乃梨が病人らしかったのは入院した最初の数日だけだった様で、今は自覚症状もなくいたって元気なので本人も早く退院したがっていたが、肝臓の数値が正常に戻るまでは退院できないのだそうだ。遥がその事を説明すると賢治は成程と納得した様だった。
「賢治、ありがとね」
賢治は美乃梨の事をもう責めはしないと言ったが、同時にまだ許す気はないとも言っていた。その上で美乃梨の事を邪険にせず、また気負いもせず接してくれている事が遥には嬉しかった。
「何だ急に?」
突然脈絡なく遥が感謝の言葉を口にしたので賢治は怪訝そうに微妙な表情を見せる。遥はそんな賢治の表情が可笑しくて「何でもないよ」と悪戯っぽく笑ってはぐらかした。
「何だよ、気になんじゃねーか」
悪戯っ子にはお仕置きだとばかりに賢治は遥のちょっと癖のあるふわふわした髪を大きな手で無造作に搔き乱す。昔から二人の間ではお馴染のスキンシップだが、今は遥の見た目のせいもあって傍目には愛くるしい妹を可愛がってやっているイケメン兄の図にしか見えない。そしてタイミング悪くそれを見とがめる者があった。
「あー! 賢治さんずるい!」
非難の声を上げたのは病室の戸を開け放った美乃梨だった。賢治は登場した美乃梨に顔を向けると口角を吊り上げ笑みを作って見せる。完全に煽りである。
「あたしだって遥ちゃんの頭撫でたい!」
欲望を剥き出しにずんずんと病室に踏み込んで来る美乃梨に、これはまたいつものやつが始まるなと察知した遥だが近付いて来る美乃梨の姿が普段と違う事に気が付いた。
「あれ? 美乃梨その恰好…」
遥のその言葉に賢治も「おお」と感嘆の声を上げる。美乃梨はいつものパジャマにカーディガンという出で立ちではなく、上は襟の大きな赤いタートルセーター、下は程よく色褪せたスキニーデニムにスニーカーというカジュアルな装いだった。
「あ、そうなの、あたし今日退院するんだ!」
遥に格好の事を尋ねられた美乃梨は足を止め実に良い笑顔でそう答える。何時退院してもおかしくない程元気だった美乃梨が遂に退院できる事になった様だ。
「良かったね、美乃梨」
遥は美乃梨がよく「病院は退屈」とこぼしていたのを聞いていた為、美乃梨が退院できる事を素直に祝福する。賢治もこれには「良かったな」と遥の後に続いて美乃梨を祝福した。
「ありがとう!」
美乃梨は二人の祝福の言葉に表情明るく元気よく返したが、次には少し寂しそうな表情を見せた。
「でも退院しちゃうと遥ちゃんにあんまり会えなくなっちゃう」
その言葉に遥は苦笑する。あんまりと言うからには退院してからも会いに来るつもりの様だ。
「美乃梨って受験生でしょ? 勉強とか大丈夫なの?」
美乃梨は中学三年生で今は受験シーズン真っ只中だ。そんな大事な時期に入院する羽目になっていたので些かその進路が心配だった。
「多分へーきだよ!」
美乃梨は手をパタパタとさせて能天気に答える。そのあまりに楽観的な様子から本当に大丈夫なのかと遥は不安になったが横に居た賢治が美乃梨の能天気振りの理由を明してくれた。
「今はどこも定員割れしてっからなぁ」
そう言った賢治曰く、少子化の影響で一部の有名名門人気どころを除けばどの高校も入学志願者数が募集定員を下回っているのが現状で、選り好みせず学力に見合った高校を受験すれば九分九厘合格するだろうとの事だった。
「だから大丈夫!」
賢治の解説に美乃梨はうんうんと頷いて余裕綽々だ。美乃梨の学力がいか程かは分からないが難易度の高い受験に挑戦するつもりは無い様なので取りあえず進路については心配しなくて良さそうだ。
「受験より遥ちゃんに毎日会えない方が大問題!」
これは一大事と言わんばかりの美乃梨の口調に遥は思わずベッドの上で身じろぎ微妙な笑顔になる。慕われている事は素直に嬉しく思うのだがしかし、素性を明かしても尚クロスレンジを改めないその距離感は、むしろ以前よりも更に近くなっている気がしていた。今も美乃梨は遥の居るベッドにじりじりと近づき隙あらば遥を可愛がろうとその瞳が怪しく輝いている。
「あ、そうだ! 賢治さん、連絡先教えてください」
今にも遥に飛び掛からんばかりだった美乃梨は思い出した様に自分のスマホを取り出すと賢治の前に突き出した。賢治は美乃梨の突然の申し出に眉をひそめる。遥もこれはちょっと意外だった。基本誰にでもフランクな美乃梨だが賢治と美乃梨の関係性が連絡先を交換し合う様な物かと問われれば少し微妙なところなのだ。
「何だ、どういう風の吹き回しだ」
賢治の疑問に美乃梨は少し考えてから、いつも賢治が美乃梨に対して見せるような口角を上げたニヤリとした笑みを見せる。
「JKの番号ゲットできるチャンスですよ!」
勝ち誇った様に言い放った美乃梨だったが賢治は呆れた表情を返す。
「お前中坊だろ」
下らないと尤もな突っ込みを入れて美乃梨を一蹴するが美乃梨は怯まず更に勝ち誇った様子で胸を張る。
「春からJKですよ!」
どうだと言わんばかりの美乃梨に賢治は益々呆れて大きな溜息をついた。
「あのなぁ、JKだろうがJCだろうが興味ねーんだよ」
賢治にしてみれば高校一年生も中学三年生も大差がない。健全な男子なので異性に興味が無い訳ではないが、遥と違い三年間で順当に青年へと成長した賢治にしてみれば美乃梨の世代は既に守備範囲を外れていた。賢治の釣れない態度に少し口を尖らせた美乃梨だったが何か思い付いた表情になるとまた元のニヤリとした笑顔になる。
「賢治さんロリコンですもんねー」
今度こそ勝ったなと美乃梨は目を細めますますその笑顔をニヤつかせた。
「お前なぁ…」
流石の賢治もこの揚足を取るような発言は気に障ったようで、眉間に皺を寄せ握り拳を作ってわなつかせる。美乃梨はそんな賢治のその様子を認め鈴の様に笑った。
「じょーだんですよ!」
そう言ってようやく賢治の落ち着いた態度を崩せた事に満足げだ。
「遥ちゃんケータイ持ってないんで、代わりに賢治さんの番号聞いとこうと思って」
美乃梨の申し出を意外に思っていた遥はその理由に成程と納得する。遥の携帯電話は事故で壊れてしまったためもう残っておらず、三年間身体を持たなかった為番号自体も既に解約されていた。
「お前、俺をメッセンジャー代わりにしようとは良い度胸だなぁ」
賢治はロリコン呼ばわりされたささやかな仕返しに少し凄んで見せたが美乃梨は意に介さず悪びれない調子で笑う。
「いいじゃないですか、遥ちゃんが入院している間はここに来ればいいけど、遥ちゃんが退院したら連絡手段なくなっちゃうんですよ?」
これは一大事と美乃梨はちょっと困り顔になった。賢治は美乃梨の言葉を受けて遥と美乃梨の二人を交互に見やって小さく息を吐く。
「しゃーねーなぁ」
遥も美乃梨の事を気に入っている様なので遥の為ならば仕方がないかという気になり、賢治は自分のスマホを取り出すと画面を数度タッチしそれを美乃梨の方へと差し出した。
「賢治さんありがとう!」
美乃梨は自分のスマホを賢治のスマホに近づけ無線で連絡先の交換を済ませるとこれで今後も遥との繋がりができたと目を輝かせる。
「遥ちゃんが退院する時は教えてくださいね!」
目を輝かせながら詰め寄る美乃梨に「わかったわかった」と賢治は緩慢に手の平を泳がせ了承した。賢治に約束を取り付けた美乃梨はひとまずこれで後顧の憂いなしと晴れやかな表情でスマホをポケットに納め遥の居るベッドの脇に屈み込みキラキラとした瞳で遥を見上げてきた。遥はそんな美乃梨の様子に何となく嫌な予感がする。
「遥ちゃん、入院生活最後の思い出に撫でてもいい?」
期待に満ちた子犬の様な目を向けてくる美乃梨にやっぱりかと遥は苦笑した。普通なら首を縦に振らない遥だが、退院祝いの代わりに撫でさせるくらいはいいかと考える。
「うーん、ちょっとだけだよ?」
遥がそう言うと美乃梨は飛び上がり「やった!」と喜びを露にし早速と遥へと手を伸ばしてきた。
「あ、賢治さん邪魔しないでくださいね?」
伸ばした手を一旦止め、いつも遥との接触を阻んでくる賢治に釘を刺す。
「ハルがいいっつってんだからしねーよ」
賢治は呆れた様子で美乃梨に答え、遥に対しては「俺しらねーぞ」と溜息交じり言う。美乃梨はこれで邪魔は入らないと益々瞳を輝かせそっと遥の頭に触れる。そして次にはもう一方の手を背に回し遥が抵抗する間もなくその身体を自分の元へと引き寄せた。
「ちょ、美乃梨!」
撫でさせるだけのつもりだった遥は予定外の抱擁に慌ててしまうがそんな遥を他所に美乃梨は遥のふわふわとした髪の感触と小さな身体の抱きごこちを思う存分に堪能する。
「遥ちゃんやわかい…可愛い…」
夢見心地の美乃梨が緩みきっただらしない声を洩らす。遥は助けを求めようと賢治に視線を送ってみるが賢治は言わんこっちゃないと憐れむような視線を返すだけで腕を組み静観の構えだ。こうなってはもう美乃梨が満足するまで耐えるしかなかった。
「それじゃあ、あたしそろそろ行かないと!」
心行くまで遥を堪能した美乃梨が満面の笑顔を見せる。遥は美乃梨の抱擁にすっかり気力をもっていかれてしまったが目出度い美乃梨の門出だ、何とか気力を絞り出して笑顔を返す。
「元気でね美乃梨」
やや疲弊した遥の笑顔に美乃梨はにこやかに頷くと、くるりと背を向け病室の入口へと歩んでゆく。軽やかな足取りで扉の前まで辿り着き引手に手を掛けた美乃梨だったがそこで動きを止めた。
「遥ちゃん、それに賢治さん…」
一度手に掛けた引手から手を離し二人の方へと向き直った美乃梨は、それまでの朗らかな笑顔から一転真面目な面持ちで遥と賢治を交互に見つめてから深々と頭を下げた。
「本当に、本当にありがとう!」
美乃梨の気持ちのこもった態度に賢治は敢えて何も言わず、遥は「うん」と優しく頷きを返す。美乃梨はしばらくそのまま頭を下げていたがやがて顔を上げるといつもの通りの朗らかな笑顔を見せた。
「それじゃあまたね!」
明るく言って扉を開け放ち、一度大きく手を振ると美乃梨は弾む様な足取りで退屈な入院生活から日常の日々へと戻っていった。
遥は小さく手を振り返し生命力溢れる美乃梨の後ろ姿を見送ると閉じられた扉に少しだけ寂しさを感じたが「またね」と言った美乃梨の言葉を思い返しその寂しさを拭い去る。
賢治は美乃梨の立ち去った跡をぼんやりと眺め、今ではもう美乃梨の事を許してやってもいいと、そう思えている自分がいる事に気が付いた。
「まあ…良かったんじゃねえかな」
美乃梨が立ち去り代わりに静けさの訪れた病室で賢治がぽつりと呟く。
「賢治、ありがとね」
遥が今日二度目のその言葉を口にすると賢治は何も聞かず「ああ」と静かに頷いた。